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不安は棘のように

 祐一は仕事の合間を見て顔を出している。とはいえ、電車でも車でも数時間掛かる距離だから、誠也が会った日に一泊しただけで、今日は意識が戻ったと聞いて早退して駆けつけたのだという。母親の方は朝から夕方までの数時間付き添ってから祐次のアパートで夜を過ごしているらしい。  互いに情報交換をしながらも、さり気なく祐次の様子を窺う。まだようやく流動食を始めたばかりらしいが、尿道カテーテルは外してもらい尿瓶を使っていると恥ずかしげにしていた。  入り口の外にあるのだが、まだトイレまでの移動は無理のようだった。手の震えも取れていないし、様子を見ながらゆっくりとリハビリテーションを進めていくらしい。明日からは車椅子の介助つきで別棟のリハビリテーションセンターに通うのだという。  午前中はそれで潰れるから夜勤の時は会えないと知り、誠也はショックを受けた。  だが、食事が始まり点滴の管も取れているし、腹部から出ていたドレーンの数も減っている。体の方は順調に回復している様子に、焦るな焦るなと自分に懸命に言い聞かせるのだった。  昨日より口数の増えている祐次だったが、喋るのはやはり相当体力を使うらしく、頷きながら一瞬眠たそうな動きを見せたのを皮切りに、誠也は暇を告げた。  本当ならキスくらいはしたいところだが、まさか兄がいる前でそんなことは出来ない。  明日があるさと自制して、寂しそうに眉を下げて自分を見上げてくる祐次の頭に優しく触れてから腰を上げると、「僕もちょっと出てくるよ」と祐一も一緒に部屋を出た。  目配せされて半歩遅れて付いて行くと、今度は談話コーナーではなく、すぐ近くの廊下で足を止めた。声が届く距離でなければ十分なのだろう。そこからは、足元まで覆われたガラスによって、眼下の庭園を睥睨するようになっている。和風の庭園だが、枯山水とか洒落たものではなくて水車があったり昔の民家のような藁葺きの小さな小屋があったりと飾り気のないものだった。 「木村くんの目から見て、祐次はどうだい?」  伏せ目がちに吐息してから、静かに祐一が尋ねた。  どうかと問われてもざっくりとしすぎていて、誠也は首を傾げながら答えを模索した。 「顔色とか、随分良くなったように思います。体調を見ながらリハビリすれば、歩いたり物を持ったり出来るようになるんですよね、きっと」  昨夜家に帰ってから、医療系に進んだ友人に電話を掛けて尋ねたり、インターネットで調べたりしたのだ。だがやはり個人の体力など個々により千差万別なので断言はしかねるらしい。  祐一にしてもそれを踏まえた上で尚尋ねずにはいられないのだろうと思う。だから誠也も、なるべく前向きな考え方で行くことにしたのだ。周りに居る人が前向きな姿勢を見せるのも大事だと聞いた。 「そうか。僕もそう思っているんだけど、何しろ最近はそんなに会う機会もなかったからね。医師には記憶が混乱していたりとか、そういうところに気付いたら教えて欲しいと言われているんだよ」  記憶障害──可能性の一つであるそれを、誠也だとて恐れていないわけではなかった。  ただ、目覚めた時に誠也を認識してくれた。口を開いてまず呼んだのは誠也の名だった。それだけで舞い上がるように嬉しくて最高の心持で。今日も話した感じでは特に違和感もなかったから安堵してしまっていた。  だが、家族は誠也が出会った二年前よりも昔の部分で何か障害がないか記憶が欠けていないかとの懸念もあるだろう。それは一朝一夕に判明するものでもないから、やはり時間は必要なのだろうけれど。  ──時間。  敢えて考えないようにしていた問題を思い出し、誠也は身震いした。それに気付いた祐一が目で問うた。  しかし、誠也が聞いたのは大田からであり家族からではない。それを思い出して、居ずまいを正した。 「あの、病状が落ち着いたらご実家の近くに転院するんですか」  獲らぬ狸の、という言葉がある。今はそれが当てはまる時期なのかもしれない。けれど今訊いておかねば、祐次がもっと回復してからでは遅いような気がしたのだ。何故と問われたとしても、その根拠はないのだけれど。  はたして、祐一は虚を突かれた表情で誠也を見上げ、それから一つ頷いた。 「そうだねえ、そういうのも有りなんだろうけど……確かにここだと僕はあまり来られないからね。もう少し落ち着いてから、祐次本人にも確認しないとね。ただ……」  言葉を切り、祐一は視線だけで周囲を窺った。ちらほらと患者やスタッフが通りかかるが、この時間は室内で食事をしている人が多いためか人通りは少ない。  息を呑み次の言葉を待つ誠也に対して、祐一はどこか申し訳なさそうに肩を竦めた。 「母がね、ちょっとまだ混乱して、ヒステリックな感じになっていて。もう仕事なんて辞めさせて店を継がせるとかそっちの方向にね」  驚愕に目を見張る誠也に、継ぐと言っても小さな花屋なんだけどね、と苦笑した。 「労災も下りるし、ここの方がきちんとした治療が受けられるから、僕としては動かさない方がいいと思うんだよ。ましてや、木村くんのことを話したり一緒にいるときの二人を見ているとね。ここにいるのが一番の治療になると思うんだ」  だからそんなに不安になるようなことじゃないから。そう念を押されて、誠也は頷いた。  けれど実家に帰るという可能性がゼロではなく、いつの日にか本当にそうなってしまうかもしれないという事だけは、棘のように心に刺さって痛み続けた。

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