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嫉妬

 それから数日で祐次の食事は固形になった。まるで回数を数えているかのように真剣な顔で咀嚼するのを見守り、やはり情動と戦いながら、皿や椀が一つ空になるごとに誠也は優しく口付ける。  日ごとに顔色が良くなり肉も付いてくるのを誰もが喜び、鮎原に至っては誠也のお陰だと見抜いているようでさり気なく褒めるようなことを言ったりもする。  自力歩行は無理だけれど、馬蹄型の歩行補助器を使っての訓練も始まり、誠也はそれに付き添いながら話すことも多くなった。疲れたら体を預けて休みながら、長い廊下をぐるりと歩いてまた部屋に戻る。休みの日には何時間も付き合うこともあり、そんな日はあらかじめ祐次が伝えているのか、母親が来ることはなかった。  洗濯物の件は、やはり難色を示したらしい。これは相手が誠也だからというのではなく、身内がするのが当然という考え方からなのだそうだ。  ただ、実家の方も普段は夫婦二人で店を切り盛りしているから、ずっとこちらに居るのは父親の負担が大きく、父親は頼めるなら頼んでしまえと言っているとか。両親の頃なら子供たちの年齢にはもう結婚して子育てをしていたのだし、いつまでも子ども扱いするなと母親に言っていたと祐一が電話で誠也に教えてくれた。  それでも息子が心配なのだろう。洗濯物だって毎日は来なくても大丈夫だから、最近は来ても三十分ほどで帰ってしまったりして長居はしないらしいが、一応顔は見に来るのだと祐次は苦笑している。 「今までは放任してたのにな。おかしいよなあ」  それは大怪我をしていなくて、便りがないのは良い便りと思っていたからだろうと、それくらいは誠也も察した。  労働環境だってきっと知らなかったのだ。祐次の性格で、実家に帰省した時に愚痴を言うとは考えられない。祐一はなんとなく察してはいても、頑固親父に育てられた頑固者だからと、気持ちは解るからと何も言わなかったらしい。  黙々と働くのが尊いことだと、そのように育てられてきた。そんな親の背中を見て育ってきたのだ。  だから今だって、誠也が励ますからと言うのもあるだろうけれど、少しでも早く体を治して現場に復帰しようとしているのだろう。一応リハビリテーションのメニューは決まっているのだが、夜にもこっそり文字の練習をしたりしている痕跡を誠也は見つけてしまっていた。  ままならない自分の手に苛立ち、一人懸命に夜中に机に向かう姿を想像するのは容易だった。だから一緒に居られる時間は、邪魔にならない程度にうんと甘やかしている。  日曜の昼間に来られる日は、ボランティアのアーティストが来て弾き語りをしたり、マジックで沸かせてくれることもあった。広い通路の角のスペースに椅子を並べて歌声喫茶のようになった時には、祐次と二人で参加して、昔の歌や童謡を一緒になって歌った。  いつしか祐次が歌を止めて隣の誠也の声にうっとりと聴き惚れると、周囲の人たちもボリュームを落としてまるで誠也のワンマンステージになってしまうこともあった。  そんな風にして一ヶ月が過ぎて行き、ついに痺れを切らせた父親からのお達しで母親は一旦帰宅してしまった。いずれまた来るのは確かだけれど、もうこれ以上は父親一人で回すのは無理だと自分でも解っていたという。  その時に、祐次経由で手紙を渡された。  木村誠也様  あなたには酷い言葉を投げつけてしまいました。直接お会いすることはありませんでしたが、子供たちやスタッフの皆さまから聞くあなたの真摯な態度に心を打たれました。  どうかこれからも息子を、祐次をくれぐれもよろしくお願いします。  短い文面だったが、誠也は目頭が熱くなり、思わず握り締めてしまいそうになるのを堪えて便箋を元通りに畳むとそっとポケットに収めた。  その日は日勤で、仕事帰りに寄ると食事を済ませた祐次が挨拶を交わした後にそっと差し出してきたのだ。  手と一緒になって震えている封筒を受け取り、差出人のないそれを開けて息を呑んだ。恐る恐る開いて読み、読み終えて仕舞ってから裸足のままベッドの縁に腰掛けている祐次を抱き締めた。  どんな美辞麗句よりも嬉しくて、苦しいよと祐次が身じろぐまでずっと抱き締めていた。  そんなある日のことだった。  休日はなるべく面会時間内に訪れることにしている誠也は、日曜日だったので十時過ぎに病室に到着したのだが、ドアを開ける前に中から笑い声が聞こえてきて一瞬動きを止めてしまった。  自分の休日には長居をすることもあるが、基本的には一時間以内に帰るようにしている。それだから祐一とは数回顔を合わせたものの、意外と誰ともかち合うことなく過ぎてきたのだ。  だが祐次にだとて地元の友人が来る時もあるだろう。丁度今時分は、多くの企業が夏期休暇を入れる時期でもあることだし、と瞬時に納得した。  ノックをして入ると、入り口に近い方のベッド脇に二人腰掛けているのが見て取れた。  一人は山根だった。もう一人も見覚えがあるような気がする。  誠也が会釈すると、二人も談笑していた口元のまま軽く頭を下げてから、誠也がベッドの反対側に回るのを目で追った。 「ごめん、お邪魔だったかな。ええと、もしかして山根さんの隣の方も同僚かな」  土産の竹篭を祐次の前にあるテーブルに置いた。ミニサイズの行李といった形をしている。祐次は弁当箱のようなそれを物珍しそうに眺めて、開けてみてと勧める誠也の声にそっと両手を蓋に添えて奮闘している。 「お久し振りです。立ち上げの時一ヶ月だけ居た林です。山根もそうだったんですけどね」  林という青年も、やはり山根と似たような体格だった。夜間バイトの数人以外は高身長の人が居ないなと妙な感想を抱きながら、警備の木村ですと名乗ると、あああなたが、と林が頷いた。 「ぼくら祐香ちゃんともたまに会うもんですから、なんかぶちイケメンがおってたまげたゆうちょって」 「林、標準語使えや」 「おー、わりい。切り替わっとらんかったわ」 「ここんとこ地元におったけんやろ、ま、ええわ。すいませんね、木村さん」  砕けた調子で突付きあう林と山根を放っておいて、祐次は蓋を開けることに成功したようだった。  わあと歓声を上げる祐次の手元を二人も腰を上げて覗き込む。 「相変わらずマイペース過ぎるぞ市村」 「らしゅうてええやん」 「それなんか混じってる」 「しゃあないわ~」  コントでも見ている気分で二人の掛け合いを聞きながら、誠也は手元の和菓子を見つめて瞳を輝かせている祐次を見て笑みを零した。 「これなに?」 「わらび餅だよ。人気あるって言うから買ってみた。皆さんもどうぞ」  上にたっぷりと黄金色の粉が掛かっていて中身が判別できなかったのだろう。山根と林も驚いている。 「スーパーのとちゃうなあ。おかんが作るんともちゃうし。なんでこんなにデカイんよ」 「お前は何語を喋るつもりだ……」  怪しげな関西弁らしきものを耳にして山根は嘆息している。 「なんでも時間掛けて練っているこだわりの大きさらしいけど。まあスーパーとかのは一口サイズだもんな」  それにあれは正式にはわらび餅ではないらしいし。その辺りの薀蓄は言わないことにして、紙皿に取り分けようと引き出しの方へ行こうとするのを山根に引き止められた。 「箸とかなら不要ですよ。市村の後で頂きます」  林も「ごちになります」と手を合わせて笑っている。  容器には一膳だけ竹箸が付いていて、それを割るのにも結構力が要るのか祐次はしばらく苦戦していたが、木の箸よりも失敗の少ないそれを綺麗に半分に割ることに成功して、籠の中でどうにか小さく切ってから口に運んでいる。  そういえば、祐次とも山根の話はしたことがないなと思い、尋ねてみる。 「もしかして同期とかですか」  バックヤードで擦れ違っても挨拶しか交わしたことがないため、はっきり言って何も知らない。けれどここで親しげに話している様子からして、同僚の中でも自分と小野のように近しい間柄ではないのかと思ったのだ。 「ですね。林もだけど、新規採用で一緒に訓練を受けた同期です。同級生でもありますが。あ、学校は違いますけど同い年なんで同級」  山根の説明に頷き、では三人とも年上になるのかと驚きもした。  単純に身長による先入観もあるのかもしれないが、山根にしても林にしても、小顔で丸顔というかあまり縦に伸びた輪郭でないため若く見える。その点祐次の方は少し面長なのだけれど、やはり何処か幼いというか柔らかな印象を与えるから、三人揃っていても傍から見れば誠也が一番年上に見えるだろうなと客観視してしまう。  大きいのをようよう一つ食べ終えた祐次が「ぶち美味い」と言って、箸を逆さまにして山根に手渡した。  よくある光景なのだが、ちりっと誠也の胸に焦げ付くような痛みが走る。 「マジで」  祐次ほど細かくはしなかったが、山根も箸で切ってから口へと運ぶのを見て、痛みの原因に気付いた。  間接キス。  ──小学生か、俺は。  顔には不快感を出さずに居られたと思うのだが、失笑しそうになり取り繕った。

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