誠也が眉根を寄せていると、水上はくすりと微笑んだ。一瞬、泣くのかと思ってしまった。そんな、消え入りそうな微笑だった。 「ごめんなさい。そんなこと解んないですよね。あの人の思考回路、訳解んないですよね」 　あの人、と言った水上の視線が、ついっと店の奥に動いた。一番奥の座敷席。掘り炬燵のように足を入れて座るタイプの長テーブルに、男女が入り混じって六人のグループになっている。 　その視線を追い、ゆっくりと植田も振り向いてからすぐに何気ない様子でこちらに向き直った。 「ほんとに居るわ。偶然？」 　頬杖を突いて水上を見る眼差しが悼むように潤んでいる。こくりと頷く水上の隣で、あの中の誰かが件の男なのだと知れば、誠也もなるべくさり気なさを装ってそっと奥のテーブル席を観察した。 　飲み屋のノリで何かのゲームをしているのか、かなり盛り上がっている。居酒屋でも個室ならまあ判らないでもないが、ここはオープンなスペースだ。流石に少し浮いている。けれどそれにも気付いていないというか、知っていてわざとなのかもしれないが、兎に角周囲のことを慮っているグループではないため水上にも気付いていないのだろうと思った。 　植田に確認すると、植田は一方的に顔を知っているけれどあちらは知らないらしい。それにしたって肝心の水上は背中を向けているわけではないのだから、普通ならば気付きそうなものだ。 　そう思った時点でもう誠也はイラッとしてしまっていた。 　幸いにも男女は半々で、三人のうちのどれかが彼氏。そしてそれなりに自信過剰となれば。 　三人ともそこそこイケている。だが、誠也基準でイケメンと評価できるとすればその中では一人に絞られる。 「長めのストレート。二重の垂れ目。白い開襟シャツにネックレス着けてる。あれ？」 　ぼそりと外見を告げると、びくりと水上の肩が跳ねた。そんな風に自信無さそうに唇を噛んでいる水上なんか見たくなかった。 　一見して夜の仕事をしているのだろうなと思った。もしかしたら本業は違うのかもしれないが、少なくともバイトか何かで経験をしているような雰囲気を醸し出している。 　男はグラスに口を付けて氷を口に含むと、隣の女性を抱き寄せて顔を寄せていく。 　水上は黙って自分のグラスを手にした。 　口から口へと渡っていく氷をぼんやりと眺めていると、ふと、その男性が誠也の方を見た。隣の水上に気付いたのか、目を見張るのが見て取れる。 　先程視線を逸らせて自分の手元に落としてしまっている水上は、まだそのことに気付いていない。反射的に誠也は水上の肩に手を置いて顔を被せるようにして視線を遮っていた。 「木村さん？」 　二人の声が跳ねた。それは他の客たちの喧騒に紛れて、数メートル離れているあちらには聞こえないと踏んで、誠也は囁いた。 「あっちは気付いたよ。どうする？　どうしたいの、水上さんは」 　え、と水上の声が、絶望を纏ってテーブルに落ちた。逡巡の後、テーブルに置いていた誠也の手の上に、白い手が重なった。女性にしては大きな手だった。けれどもたおやかで優しい指先が、震えながら誠也の手を掴んだ。 　水上の選択を、植田は黙って見守っていた。 　あちらからはこの光景はどのように取れるだろうか。それを計算しながら、誠也は優しく微笑み、耳元に唇を寄せる。 「俺なんかタイプじゃないんだよね」 「そうですよ、私は市村さんみたいな人がいいんです」 「あの彼氏が祐次と同じタイプなの。信じられないな」 「全然違うんですよ。だけど仕方ないんです……タイプと実際に好きになる人は別なんですから。市村さんのこと、恋愛感情で好きだったら、きっともっといい恋愛になっていました」 　雑談に応じる声は、結構しっかりしていた。震える指先を宥めるように指を絡めると、水上はほうっと感心したような息を吐く。 「あの人も、こういうの上手なんです。逆に市村さんだったらきっとオロオロしてどうにかして慰めようと言葉を探すでしょ？　そういうの可愛いなって思うんです。だけどそれは恋じゃない」 「俺も水上さんのこと、素敵な女性だなって思うよ。自分の考えをしっかり持っていて、祐次のために俺を叱りつけてくれたじゃない。それなのにどうしてあんなのに引っ掛かってるの」 　本心からそう思っていた。 「ですよね」と呟いて目蓋を伏せる水上は、本当に綺麗だと思った。 　他人のことならこんなにはっきりと見えているのに、どうして自分のことになると色々と見失ってしまうのだろう。 　今の誠也と祐次があるのは、水上の言動がきっかけでもある。水上が何もしないでただ見守っていたなら、祐次はもうとっくに実家に帰っていたかもしれない。 　それは過労と心労で倒れて、という非常に不名誉な理由だったとしても。 　或いは、今の彼氏と早々に別れて祐次と水上が付き合っていたとしたら。　 　自分は今頃別の女性とふらふら遊んでいたんだろうなと、誠也は苦笑した。 　どうであったにしろ、そこには今の誠也と祐次は居ないだろう。全ては水上が教えてくれたのだ。 　だから、可能ならば、そんな水上に誠也だって教えられることがあると思った。 「指先、そんなに荒れてないんだね。仕事内容ハードなのに」 　手を返して、形良く整えられている短い爪を指の腹で撫でた。そうしながら、テーブルから浮かせて口に近付ける。ぎりぎりまで、それでも触れないけれど。 　放心したように手と顔を視線だけで行ったり来たりしていた水上は、ふっと微笑んだ。 「夜寝る前にハンドマッサージして、しっかりクリーム塗ってますもん。ケアは大事です」 「日焼け止めもだよね」 　肩を抱いている手を滑らせて、項に指を這わせた。口説いているように見えているだろうか。 「木村さんって……」 　くすぐったそうに肩を竦ませ、水上は笑いを堪えているのか、先程までとは違う意味で目が潤んでいる。 「たらしだ、こいつ。私の人選は間違ってなかった」 　続きの言葉は、対面で黙々と呑んでいた植田が引き取った。 「ええー酷い言われよう。植田さんの期待に添おうとめっちゃ頑張ってんですけど」 　軽口を叩きながら、視線は水上の手元や顔に落とす。声は聞こえていない筈だから、いくらでも好きに憶測してくれたらいいと思う。 「それはまあいいとして。まさかあいつ暴力振るったりはしないよな」 　それだけは気になるところだった。 　この後、男が嫉妬して水上にもっと関心を持てばいいけれど、放任しすぎていたのが手の平を返して執着系になってドメスティック・バイオレンスに走られるのは困る。 　どうかな、と水上は首を傾げるが、植田が代わりに誠也をぎらりと睨み付けて来た。 「んなのあったら、私がぶちのめす。ご心配なく、ヘタレのあいつにそんな度胸ない。水上さんは絶対に下手に出ちゃ駄目だからね。合コンしろって言うから行ってみた。いい男に口説かれて気持ち良かった。私もまだまだ捨てたもんじゃないって気付かせてくれてありがとうって言っとけばいい」 　思い知ればいいのだ。自分が良いように扱ってきた女が、自分より格上の男に口説かれてよろめくかもしれないと、不安になって少しは心を入れ替えたらいい。 　それだけの価値がある女だと、どうして気付かないのか。 「ねえ、水上さん」 　はい、と上向いた顔をしっかりと視線で捉えて、再び極上の笑顔を作る。 　今この瞬間も、どうかあいつが見ていますように。 「俺に惚れるなよ」 　ぶはっ、と植田が吹き出し慌てて卓上をお手拭で拭う。肝心の水上は、寸でのところで笑いを堪えて、それでもぴくぴくと口元が痙攣しているから懸命に努力しているのだろうなと思った。 　ついに我慢の限界に来た水上が、ぎゅうっと誠也のシャツを握り締めてそこに顔を埋めた。 　ぶるぶると肩が震えている。思い切り笑いたいのを堪えて押し殺して、それでもくぐもった笑い声が耳に届く。 　しょうがないなあ、と呟いて、そうっと項から頭頂へと手を滑らせた。 「祐次のことは俺に任せて、水上さんはしっかり自分の心と彼氏と話着けなよ」 　ぷくく、と笑っていた植田と水上がようやく笑いを収めた。 　顔を上げた誠也と水上の視線の先、植田の背後に、先程まで奥で笑っていた男が立っていた。愛想笑いを貼り付かせて、会釈してから口を開く。 「帰るぞ、ユキ」 　思ったよりも高い声だなと冷静に見上げた。 「へえ、ユキちゃんっていうの」 　本当に今知ったばかりなのだが、まだ名前すら聞き出せていなかったと取ってくれたらしく、男は余裕のある笑みを浮かべている。 　すぐに行動に移したということは、まだ望みがあるのかもしれない。だから誠也はさっさと退くことにした。 「彼氏が居るなら教えてくれたらいいのに」 　少し残念そうに言いながら、壁際に居る水上が出られるようにと立ち上がって、トイレに行くと告げて席を外した。