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蜘蛛の糸一本ほどの儚さで

 戻ってみると、誰も居ない。チェックの紙もなかったからそのまま誠也が会計に向かうと、植田が入り口のガラスドアの傍で腕を組んで待っていた。 「五千円でお願いします」  真面目に手の平を差し出してくるから、おうと言いながら長財布を取り出してそのまま植田に渡した。 「ざっくりと割り勘にさせてもらっちゃった。ごめんね」 「いいよ、もっと出すつもりだったし。大体こういう時は女性の方が少なくて当然だろ」  食事量もだが、飲む量に差があるのだから割り勘はないだろうと踏んでいたのだが。 「いいや~うちらを侮ってもらっちゃ困るわ。かなり食べてるし、スイーツは高いし、水上さんがどんだけ飲んだと思ってんのよ」  にやりと笑う植田と一緒に、店外へと出た。すっかり日が落ちて、アスファルトとガソリンの匂いを含んだ少し湿った空気が鼻先を掠めて行った。  駐輪場へと向かう誠也の隣に並んで歩きながら、植田はほつれてきた髪を指先で整えながらそっと零した。 「上手くいくかな」  上手く、というのがどちらのことなのか判らない。それは本人にもきっと判りはしない。数ヶ月か数年か、いつか思うのだろう。あの時、ああしていれば、今はもっと幸せだったのに。  だから今は自分に出来る精一杯で生きていくしかないのだ。 「水上さんが納得できたら、それでいいと思うよ」  誠也が前を向いたままそう答えると、暫く経ってから植田が唐突に言った。 「空から降る雪に子供の子で雪子だってさ。ぴったりだよね」 「え、まさか植田さんも知らなかったのか」  驚いて目を見張る誠也に「名前知らなくても毎日会えるからいいじゃない」と植田は屈託なく笑ったのだった。  翌日、出勤してきた水上をモニタールーム内からガラス越しに捉えて、誠也は通用口から出て呼び止めてしまった。 「おはようございます」 「おはようございます。昨日はお世話になりました」  もう夕方なのにおはようはこの世界の常識だが、目元が僅かに腫れぼったいのを読み取り、誠也は水上の全身を気遣わしげに視線だけでチェックした。 「大丈夫ですよ。話をして、落ち着きましたから」  まだ何処か沈みがちな微笑だったけれど、そう言われては部外者の誠也にはどうすることも出来ない。  他の二人が巡回に出ているからモニターから離れるわけにも行かず、そのまま見送った。  日々は何事もなく過ぎ、祐次との時間は楽しく、誠也がもう思い出さなくなった頃。  植田から、水上があの男と別れた事を聞いたのだった。 「え、ふったの」  驚いたものの、あの男ならポイして正解とも思っていただけに何処か納得してしまう。  だが、昼休憩を早目に切り上げてモニタールームに戻って来た植田は、怒った顔で首を振った。 「違うの。ふられたんだって。許せないよ、私」  こんな話題ならすかさず首を突っ込んで来そうな小野は巡回中だ。帰って来たら植田と交代して休憩の予定である。 「もうさー、悲しいとか悔しいとかそんなの全部超越してる感じでさ、空元気も出ないみたいで、でも泣く程の昂ぶりもなくて淡々としてるっていうか。逆にあれじゃあいつまで経っても吹っ切れないかもしれない」 「理由は? あいつはなんて言って別れ切り出したの」  ぷりぷり怒りながら説明する植田に、誠也も顔を引き締めた。 「もう抱きたくなくなったって。女として魅力感じなくなったって言われて、じゃあ仕方ないねって」  がおーっと噛み付きそうな勢いで言われて、そんなこと植田が言われたら相手の男はこてんぱんに伸されるんだろうなと、思わず両の手の平で押し留めた。  つまり、結局はお前の魅力不足で俺を繋ぎ止められないんだと、そう言ったのだろう。  あーあ、と吐息するしかない。  そう言われて、頑張って綺麗になるからとか、痩せるからとか、縋り付く女ばかりだったんだろう。そこから自分の優位を確立して、常に主導権を握っていたいタイプなのだ、あの男は。  植田の談に寄れば、少なくない金額も貸していたらしい。嫌な男だと、本気で誠也は辟易した。 「良かったな、そこで手を引けて」  ひとしきり文句を言った植田が静まる頃、誠也はそっと口にした。  これも本心だ。  ずるずると続けていても、水上にとって良いことなど一つもないだろう。何年か付き合っていたらしいが、まだ傷の浅い内に、水上が完全に飼い慣らされてしまう前に別れて良かったと思う。  水上さえその気になれば、クリスマスまでにはきっといい相手が見つかる。  仕事で忙しくても、ちゃんと気遣って大事にしてくれる相手が、きっと何処かに居るからと──それは誠也と植田の願いでもあった。  日差しのきついことに変わりはないが、それでも日中煩いくらいの蝉の大合唱がなくなり、日が落ちる頃や木陰では秋の虫が求愛の練習をするようになった。  まだまだ途切れ途切れのその羽音を聞くともなしに耳にしながら、駐車場内にある公園をチェックして、ベンチに置き捨てられているファストフードの包装類をまとめて屑入れに突っ込んだ。  丁度巡回に回ってきた水上が、煉瓦の上に落ちたままのソフトクリームを拭い取って水で流している。 「お疲れさまです」  水上が顔を上げるのを見計らって声を掛けると、同じように返しながら微笑まれた。  太陽と月のようだな、と思った。  植田と水上の印象である。  誠也と祐次も周囲から見ればそうなのだが、本人たちは意識していない。真逆のようで通じるところがあり、惹かれ合う。  だからなのか、一緒にいて楽なのは水上より植田だが、そうでなければ水上の方に吸い寄せられてしまう。  今は、それは恋情ではないと解っているけれど。  灰皿を綺麗に入れ替えて、ついでのように屑入れも開けて中身を回収して巡回カートの下部の隙間に突っ込むと、水上は会釈して公園を出て行く。  ゴミ回収は本来別の者がするシフトだが、きっとこれから一度バックヤードに戻るのだろう。そんな時に何気なくされる気遣いに、スタッフは気付いているのだろうかと思う。  シフトの内容までは知らないから、誠也が知ったのは祐次経由だった。それだから、水上はなくてはならない人材なのだろうと頷いたものだ。  きっと次の人は気付かない。今日はちょっと楽だったわ~お客さん少なかったのかもね。そんな会話が聞こえてきそうだった。  水上の態度は変わらない。仕事中と弁えて、他の店のスタッフのように近寄っても来なければ、名前で呼ぶこともない。  植田と三人で話すときだけ、少し砕けた様子で口調を変える。その慎ましさに安堵する。  タイプではないと最初からはっきり言っていた。その言葉がこれほど有り難いと思ったことはない。  判別のつかない感情で、蜘蛛の糸一本ほどの儚さで、惹かれている。それだけは確信していた。

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