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第一章 不機嫌な始まり ①
階段は少し狭くて急だった。
ここが最安で、駅近で、新しくオープンした教室で、学校の帰りに寄るのにちょうどいいから。
小田純己は、自分にそう言い聞かせながら階段を上った。
自動ドアが開くと、建物の外観の印象とは全く違う洗練された空間が目の前に広がった。ナチュラルウッドの淡い色の内装とラベンダーを甘くしたような香りに気持ちが少し柔らかくなった。
受付で待っていると、講師の顔写真が貼られたコルクボードが目に入った。写真のすぐ下には名前と出身国が英語で書かれていた。アメリカ、イギリス、オーストラリア、シンガポール、香港……。男女半々といったところで、ざっと数えて十数人の講師がこの教室に所属しているようだった。
「オダスミキ様ですね、お待たせしました。コーディネーターの杉山と申します」
日本人の女性スタッフが奥から姿を現した。
「小田さんは当校のご利用は今回が初めてですよね。ネットお申込み限定のクーポンも発行されてまして、好きな講師と一時間お話できるグットゥラーインクーポンになっております。小田さんは高校生なので学生特典として、プラス、ワンナチケッ、となっております」
「あ、はい、分かりました」
女性スタッフは笑顔を崩さずに、さりげなく発音のいい英語も交えながら話した。
受付横の応接用の席に着いてカルテ作成のための十項目程の質問を受けた。
「小田さんは、三年だから今年受験ですよね? 勉強の一環で?」
「進学先は推薦入試でもう決まってまして、将来英語を使った仕事に就くのが夢なので入学までの間ここで勉強しようかなと思いまして」
「えらーいねー、あ、すみません、ため口になってしまって」
「いえいえ、ぜんぜん」
「なんか小田さん見てたら思わずため口になりそうなんです」
「別にいいですけど、なんでですかっ」
「女の私から見ても可愛い顔してるからかも。よく可愛いとか言われない?」
「そ、そんなことないです……っ」
「女性より男性から言い寄られそうだから気を付けてね」
「え?」
「冗談ですよ。それでは英語のレベルチェックを行いますので担当講師を呼んで参ります」
通されたのは商談席のような部屋で、ドアは開け放たれたままになっていた。
確かに純己は周りからよく可愛いと言われる。コンテストに応募してみたらと言われたこともあるが、日本人男性の平均身長より十センチ程低い背丈と華奢な体もあってそんな気にもなれず、目立つこともあまり好きではなかった。
それに、可愛いって言われたい人には言われたことがない……。
ブラインドから漏れるオレンジ色の光に少し茶色が混ざっていた。純己はブラインドの隙間から駅のホームの方を見た。もう少し低い位置じゃないとホームがちゃんと見られないことが分かって屈むと、濃いオレンジ色に塗られたホームが視界に入った。
人数の少ない駅のホーム。時が止まっているように見える。
まだこの時間には、帰って来ない、よね。さすが、にね。
そう言えばもうすぐ講師が来るんだっけと思い出し、屈んだまま首だけを回して窓と向かいになっている入口の方を確認した。入口には大きな体が微動だにせずに立っていた。
目線が純己の腰のあたりに注がれていた。
お尻を向けたままだったので慌てて向き直ると講師の目線は床の方に向けられた。
その大きな体は長い腕を伸ばして開けたままのドアをノックした。海外の映画で見たことのある行為だと思いながら純己は英語で答えた。
大きな体はドアを潜るように顔を下に向けて部屋に入って来た。
目が合った。その講師の目が少し大きくなって口もぽかんと開いた。
純己をじっと見つめたまま数秒間動かなかった。
白人で欧米にならどこにでもいそうな整った顔だった。純己は後ろで組んでいた手を前で組み直した。
……なんでこの人、固まってるの。制服姿が珍しいのだろうか。
「ええっと、その、どうぞ、座って下さい」
上ずった声色でもやっぱり発音はきれいだった。ネイティブって感じがした。純己は、もうテストが始まっているかもしれないと思い、負けじと英語で返した。
「ありがとうございます」
純己はこういうときの洋画でよく見る笑顔を真似てみた。
なぜか講師がまた固まったように見えたが、すぐに魔法が解けたように慌てて話し始めた。
「ぇ、っえ……あ、ぅあ、もうすっかり夕方、ですね」
その講師は純己から慌てたように視線を外して窓を指差した。純己もその方を見た。
さっき見てたから知ってるし、と思って顔を戻すと、その講師は窓ではなく純己を見ていたようだった。そしてすぐに目が泳いでテキストに落ち着いた。
どっちがテストされているのか分からないようにうろたえていた。なんだかその逆の立ち位置みたいなものに純己はくすくす笑ってしまった。講師が驚いてこちらを見て咳払いをした。
「で、では、英語のスキルチェックを、お、行います」
「はい、お願いします」
余裕だった。小学校高学年から英語に一番力を入れて勉強してきた甲斐もあったし自信もあった。中学で英検二級まで取得したのは学年でも純己を含めて数えるほどだったし、去年英検準一級に合格し、国際的な英語能力を測るスピーキングテストでも満点近くの点数をマークした。その自信がただの自信ではなくなり、体の中に埋め込まれて純己の一部となった。
――他に何も持っていないからこそ英語だけは誰にも負けたくない。
講師も純己が答えるたびに目線を合わせてくる。きっとこのスキルのレベルの高さに驚いているのだ。必ず一番上のアドバンスクラスになる。間違いない。
気のせいか、講師の顔がだんだん暗くなっているように見えた。
まさか、嫉妬してるわけじゃないよね。でも出る杭は打たれるって言うし。
ネイティブからすると純己のスキルは面白みに欠けるのだろうか。
スキルチェックが終わった。講師はバインダーに挟んだ用紙に記入した後、テキストをしばらく見つめていた。静かに上げた顔は何かの決意を込めたような顔だった。
「純己は、ミドルクラスです」
「はっ? ミドル? え、本当に?」
「はい、そうです」
「アドバンスクラスじゃないんですか?」
講師は、小さくオーマイゴッドの手付きをした。
なにそれ、嘘でしょ。
「なぜですか? 僕は先生の質問に全てちゃんと答えたと思うんですが」
「……確かにそうですが、そうですね……、でも文法が少し曖昧な部分がありました」
「それは僅かな箇所ですよね? ちゃんと自覚もありました。今言い直すこともできます」
講師は肩をすくめた。
あ、この仕草、むかつくやつ。
「先生、アドバンスってそんなに完璧じゃないと入れないクラスなんですか?」
「なぜそんなにアドバンスにこだわるのですか?」
「そ、それは……」
英語だけは誰よりも自信があって負ける気がしないし、それくらいの実績もあるし、向上心もあるからに決まってんじゃん。
「まだ高校生なんだし、ミドルでもっと力を付けてからでもいいんじゃないですか」
純己はため息をついた。
出た、子供扱い。ド定番のやつ。大人はみんなだいたいこれを言う。まだ高校生でしょって。
思わず講師を睨んだ。講師は逆に口角を上げて手を口元に添えた。面白がってる感じがしてむかついた。
「自己紹介を忘れていましたね。私はニック・スチュアートです。よろしく」
握手を求められた。
今いるそれ、何この人、こっちはむかついてんだけど。
ニックという講師は、にやにやしながら右手を改めて少し動かした。
純己は渋々手を出した。途端に握手された。想像以上に大きな手で、純己の小さな手は跡形も残らないくらいに熱と厚みの中に埋もれてしまった。
ニックという講師はなぜか満面の笑顔になった。
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