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第一章 不機嫌な始まり ②

 納得できない気持ちを抱えたままミドルクラスの初日を迎えた。  この駅じゃなかったら……ここにも来てなかったのに。この駅だから、仕方ない……。  駅で周りを見渡してもやっぱり今日もいなかった。室川先輩は大学に入ってからラインをあまりくれなくなった。『室川健吾』のアイコンは笑っているのに冷たく光るだけだった。  純己からのメッセージは既読になっているけれど、その既読の文字が永遠と読めてしまう。  相手がもっと返答しやすい内容にしとけばよかった。気を使いすぎて返答してもしなくてもどちらでもいいような内容にした自分が悪いんだ。もう少し図々しく返事を要求する内容にしとけばよかった。  純己は、室川が一人暮らしを始めた駅を知らない体で知った。共通の友人が、室川から一人暮らしを始めることを聞いたらしくその話の中で出てきた駅名をそっとスマホにメモした。聞き返すこともしなかったし、バレてはないと思う。だから偶然を装ってこの駅でばったり出会う作戦なのだ。  ええっ、室川先輩ってここだったんですか~って何度も練習をした。走り寄るイメトレも完璧で、あとは実演するだけだった。  室川先輩、あのとき僕のことどう思ってたんですか、僕じゃダメですか、男じゃダメですかって応用編までちゃんと準備している。 「まだ応用クラスには入れないですね、この点数では」 「いやーそれ、なんか違うんですよ」 「とおっしゃいますと?」 「ちゃんとできてたのに、できてないことになってるっていうか?」 「はあ……」  コーディネーターの杉山加代が、あからさまに困った顔をしたので、もういいやって純己は思った。責任のない人を執拗に困らせるのも好きじゃない。 「あ、もういいです、ミドルで……」  純己は視線を落とした。受付のカウンターの下側に貼られているお知らせが目に入った。アドバンス、ミドル、ベーシックそれぞれのクラスのメイン講師の紹介だった。 「えっ、この人……」  ミドルコースの紹介の箇所に見たことのある顔があった。 「ハーイ、ニック」  加代がそう呼びかけたと同時に電話が鳴って、加代は事務室に戻った。 「こんにちは、純己」  上の方から降ってくる声に反応して純己は見上げた。 「……あ、はい、こんにちは」 「ミドルクラスへようこそ」 「え……こちら、こそ、え、ミドルクラスはやっぱりニックのクラスなんですか?」  純己はカウンターに貼られているお知らせに視線いったん走らせて、また見上げた。 「そうですよ。よろしく」 「……」  視線が泳ぎかけると、目の前に大きな手が現れた。  またこれだ、もういいのに、握手ばっかり。  思わず見上げると、ニックは微笑んでいた。純己は横の方に視線を逃がせながら手を差し出した。瞬く間もない程のスピードで手が一瞬で熱くなった。 「君が私のクラスに来てくれて嬉しいよ」  あんたがミドルにしたんじゃん。 「いやいや……、あっ、ごめんなさい、そ、それは、どうもです。でも、頑張ってアドバンスを目指していきます」 「わかりました」  ニックは眉毛を持ち上げて余裕の表情を浮かべた。  この眉毛の動きも洋画でよく見るやつだ。  ミドルクラスはスクール形式で老若男女が揃っていた。ニックの英語での説明も余裕で理解できたし、他の受講生の自己紹介での発音や文法の間違いにも気付いていた。純己は、やっぱりなんで自分がミドルクラスにいるのか理解できなかった。  横に座っていた就活中だという男子大学生に「留学でもしてたの、それとも英語圏育ち?」と日本語で話しかけられた。そんな他愛ない会話をしていると、ふとニックと目が合った。ニックは心配そうな顔をしていたが、すぐに表情を変えた。 「そこの二人、私語は謹んで下さい」  と冷たい言い方をした。大学生の男子は英語で謝ったけれど純己は謝らなかった。そのまま純己の視線は窓の方に向いた。  夕陽の光が溢れそうになっていたけれど、ブラインドがなんとかそれを抑えていた。  駅の様子を見たくてたまらなくなった。室川先輩が歩いているかもしれない。チャンスがどんどん流れていく。教室で流れる普通レベルの英語のように、自分には関係ないものだなんて思えなかった。  純己は片手を上げていた。 「純己、どうかしましたか?」  ニックが他の受講生の発言を止めて聞いてきた。 「あ……トイレ、行ってもいいですか?」 「ああ、はい、いいですよ」  純己は教室を出て真っすぐにトイレに向かった。  幸いにも男子トイレの窓は駅の方を向いていた。大学生らしき男性は一人も歩いていない。窓を開けて頬杖をついた。風が純己の前髪を少し揺らした。どこからともなく黄土色の枯れ葉がひらひらと入ってきた。街が眩しいのは、イエローとオレンジのペンキをぶちまけたような色のせい、だけじゃない。  ねえ、室川先輩、僕は先輩のことが好きってことなんですかね? 先輩はどうなんですか? もう二年も疑問符が消えません。そんなこと確かめたら先輩との関係はどうなるんだろう。嫌われるかな。キモいって思われるかな。嫌な思いにさせるつもりなんてぜんぜんないのに、なんでそうなる前提なの。なんで伝えたらいけないって前提なの。頬杖が崩れて俯いた。  マジでウザいこの世界。世界の方が変わればいいのに。  顔を上げた。先輩が帰って来るかもしれないと思ったそのとき、改札の庇から若い男性が出てきた。純己は息をのんだ。室川、先輩……だっ!  慌ててトイレから出ると廊下で弾力のある壁に全身がぶつかって吸収されてしまった。 「おっと、大丈夫ですか、純己」  ニックの胸に顔を埋める格好で、長くてしっかりした腕に囲われていた。 「あ、ごめんなさい、え……」  純己は慌てて体を離した。 「長いので心配になって見に来ました」  純己は今の状況を的確に説明する言葉が見つからなかった。 「ああ、あの、大きい方、してました……」 「ぅ、そ、それは失礼。じゃ戻りましょうか」 「あっの、ちょっと急用ができたのでちょっと外出してきます、すぐ戻りますっ」  言い終わる前に走り出して階段を下りて建物から出た。  室川が駅の前で立っているのが見えた。走るのは不自然なので純己は静かに歩くためにまずは息を整えた。視界から室川が消えないように、でも視線を感じられないように見つめた。  違う方向を向いていた室川の横顔が笑顔になった。そして手を上げた。その方向から若いおしゃれな女子が手を振りながらやって来た。二人は手をつないで純己の方に向かって歩き始めた。純己の足は動かなくなったのに息はまた荒くなった。  二人は見つめ合って笑いながら、だんだん近づいてくる。室川は全くこちらに気付かない。  二人は純己を通り過ぎた。  既読という文字がまた永遠という文字に見えて、その後ろに付く疑問符が濃くなった。  純己は自分に力を入れて振り返った。 「室川先輩!」  二人はおもむろに純己の方に振り返った。室川は一瞬きょとんとした顔になった。 「ぇ……お、お、小田じゃん!」  横の女が「だれ」と小声で言った。 「高校の後輩。小田、久々じゃん、なんでお前ここに?」 「ええっ、室川先輩ってここだったんですか~!」  台詞のアレンジができないまま発してしまった。 「……んん?」 「いや、あの、室川先輩、もしかして……ここら辺に住んでいるのかなって」 「そうだけど、小田は?」 「僕は、あの、英会話教室がここのビルで、今休憩中で」 「あ、そうなんだ、にしても奇遇だな。それと、こっちカノジョ」  女がカールした茶髪とピエロみたいなフリルの袖を揺らしながら会釈をしたので、純己も仕方なく会釈をした。室川の高校のときの彼女とはちょっと雰囲気が違っていた。  女が虫の羽のようなまつ毛を上下させて手綱を引くように先輩の手を少し引いた。 「じゃ、またな。そうだ、またみんなで集まれたらいいな。ラインするわ」 「はい、そうですね、ライン待って……ます」  純己は社交辞令で微笑んだ。二人はまた進行方向に歩き始めた。少し向こうで女が「可愛い子だね」と言っていたのが聞こえた。  みんなで、か……。二人で、ではないよね……。  純己は、歩道の手すりに腰かけた。カノジョ、か……。そうだよね、先輩かっこいいし優しいし、新しいカノジョくらい、いて普通だよ。  やっぱり勘違いだったのかな。僕なんか恋愛対象の枠にかすってもなかったのかな。  恥ずかしい。涙が出そうになった。応用編なんてできる隙もなかったし、台詞もまんまで言っちゃったし、基本編さえもできていなかった。こんなとこで何してんだろ……。 「本当に休憩が終わってしまいますが?」  英語で発せられた声の方には、両手をポケットに入れたニックが外階段の入口で壁にもたれて立っていた。純己も立ち上がった。 「……見て、たんですか?」 「はい」  そのとき純己はニックの皮肉に違和感を感じた。 「……休憩って、日本語だったのに、分かったんですか?」 「日本語もそれなりにできます」  いつも英語でしか話さないニックが日本語も多少はできることに少し驚いたが、急にそんな日常的な発見もどうでもよくなった。  純己はもうここにいる意味が分からなくなった。純己はニックに近づいた。 「ニック、僕は今月いっぱいで終わりにします。来月の更新はしません」 「なぜ?」  苛立ちが立ち込めた。本当の理由なんて話せるはずもないし、気付いてて聞いてるのかもしれない。 「……ミドルクラスに納得ができないからです。他校に入り直します」  ニックは壁にもたれたまま大きく息を吐いて、腕を組んだ。 「つまり、純己は……あの可愛い女の子の方に恋をしていたんですね?」 「は?」  純己は思わず見上げた。ニックはにやにやして口を開いた。 「違うの?」  純己は視線を外した。怒りに似た感情が渦巻くのが自分でも分かった。 「……そうです、あの可愛い女の子を、あの男に盗られたから辛いんです。あの可愛い女の子がここの駅を利用してるって知っててこの教室にしました。でも、恋人がいるって分かった以上はここにいる意味がないんです。……これでいい?」  純己は顎が震えるのが自分で分かった。泣きたくないのに涙が流れてくる。タイルに落ちた自分の雫が見えた。  体が何かに包まれた。純己の背よりも明らかに高くて、幅もある何かに。さっきトイレから出たときにぶつかった壁と感触が同じで、匂いも同じだった。  ニックに抱きしめられていた。一瞬、胸がじんじんした。その痛がゆさは喉を上って頭までくると緩みに変わった。眠気に近い感覚が襲った。はっと我に返った。 「ちょっと、なにするんですかっ」  純己はニックを押した。そして目を拭った。 「ごめんなさい、純己」 「これセクハラですよね?」 「そういうつもりでは。謝ります」 「なんでこんなことするんですか?」 「そ、それは、思わずというか、なんて言ったら、ごめんなさい……」 「……もういい」  純己は目を拭いながら駆け足で階段を上った。教室に入り荷物を取ると、また踵を返した。受付の辺りにニックが立っていた。 「待って下さい、純己」  純己は無視をして階段を下りた。速足で駅に向かった。  ここにいる意味なんてもうない。抱きしめられた理由なんて考えるのも面倒くさい。  もういい。

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