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第一章 不機嫌な始まり ③

 やっぱりちゃんと眠れなかった。こんな朝でも学校は始まる。  なんとかなんないかな、この毎日通う制度。  一時間目が始まる直前にかばんを開いたとき、ペンケースがないことに気付いた。忘れてきた場所は一つしかない。  そっか、今日取りに行ったときに事務の人に来月の更新はしないことを伝えればいいんだ。ボイコットしたみたいになったことも、一応ニックにも謝らないと。これじゃ本当に子供だ。  でもあの抱擁はなんだったんだろ。泣く姿が余りにも痛ましくて慰めようとしてくれていたのかな。欧米人はすぐに抱きしめ合うから仕方ないか。セクハラなんて言ったことも謝ろう。  だけど、失恋の相手を本当に女の方だと思ったんだろうか。もし男の方だと分かってて聞いていたとしたら、何のためにそこまで。  ……え、もしかして……? 「まさか」  純己の独り言が別の生徒の音読の息継ぎの間に響いた。音読が止まって静寂になった。純己は、自分が頬杖をついて校庭を見ていたことに気付いた。 「小田、今どこ読んでるか言ってみろ。作家の名前でもいいぞ」  やば。こういう意地悪なのやめて欲しい。 「あれ、夏目漱石の、あれですよね、キモチみたいな、じゃなくてココロ?」 「お前なあ、せめて外人の作家にしろよ、キモチてなんだよ」  先生のつっこみで笑い声が起きた。正解はヘルマン・ヘッセの車輪の下だったらしい。  受けたから、まいっかと思った。 「推薦で決まってる奴はのん気でいいよな」  どこかから聞こえた声を無視できるくらいに、今の純己は気持ちが薄くなっていた。    推薦で決まっている大学は、室川の進学した大学なのだ。だから推薦をもらった。もう少し偏差値の高い大学も狙えた。でもそんな有名無名なんてどうでもよかった。  自分のことを恋愛対象として見てくれているって信じたかった。室川の存在を感じられる場所に一緒にいたかった。もちろん室川には同じ大学に進学することをまだ言っていない。  キャンパスで会ったときの説明台詞はもちろんばっちりで、 「ビジネススキルとしての英会話に力を入れている大学だからです」  これなら純己の周りの人間は誰もが納得して怪しむことはない。純己の心の奥で積み重ねてきた秘密の個性も露呈しない。  純己が小学校に上がってすぐに両親が離婚して純己と妹の美菜は母親に引き取られた。それまでも父親は出張などで家を空けることが多く一緒に遊んだ記憶もあまりなかった。純己が赤ちゃんのときは、ときどき父親が純己をお風呂に入れていたと母親から聞いたがピンとこなかった。離婚の理由は、まだちゃんと母親には聞いていない。父親のことが話に出ると母親は決まって暗い顔になる。その顔を見ると、それ以上は聞けなかった。  積極的に友達を作るタイプではない純己は一人で過ごすことが多かった。恥ずかしいような気持ちもあるが、中学生のときに女っぽいと言われていじめられていた経験もあって、もし無視されたら、もし嫌な顔をされたらと思うと自分から話しかけることができなかった。周りもそんな純己の空気を感じているのか、誰も親しげに話しかけてこなかった。  純己が、高校入学後すぐに英会話クラブに入部したとき二年の室川健吾が部長をしていた。身長は純己より十数センチ高いくらいで平均的だが、顔はいかにも爽やかなイケメンだった。女子にモテそうな部長だなとは思ったが最初は恋愛感情なんてなかった。  純己は、クラブで周りが楽しそうに会話を始めるといつも机で頬杖をついて別の世界に入る。男に愛されるってどんな感触なのかなといつものように考えていると、いきなり両手で背中をドンと叩かれた。 「おい、小田、元気ないじゃん」  純己の体が揺れて胸の中が振動した。室川が純己の前の席に座って顔を覗き込んできた。 「どうした?」 「いえ、すみません、ぼーっとしてただけです」 「嘘つけ」 「……」 「何かあったら何でもいつでも言えよ。そのための部長なんだし」 「はい」 「今日一緒に帰ろっか」 「え……あ、はい」 「アイスおごる。他の奴らにはしーなっ」  室川は口の前で人差し指を立てた。 「……はい」  帰りにコンビニに寄った。 「ほい、サイダー味な」  と軽いタッチでアイスを手渡された。 「……ありがとうございます」 「当たったら正直に言えよ」  肩をドンと叩かれたと思ったら、そのまま肩を組まれた。 「元気出せってマジで。小田は笑ってる方が絶対いいって」  純己は何も言えずに、二人並んでアイスを食べながら桜舞う土手を歩いた。火照った喉と胸を通り過ぎる冷たさが心地よかった。  室川が少し先を歩いてこちらに振り向き、後ろ歩きをし始めた。 「ここの川、きれいだろ?」 「はい、そうですね」 「でもああ見えて、川底には泥が結構溜まってて、時々大掃除手伝ってる」 「へー、先輩、貢献度高いじゃないですかっ」 「まあな。ボランティア精神ってやつ?」 「いろいろアンテナ立ててるんですね」 「立てるとか、やらっ」 「そういう意味じゃないですよー」 「ま、ここはカノジョと来てから穴場になってる」  なぜだか純己の胸に冷たいものが刺さった気がした。それを振り払うようにお腹に力を入れて声をひねり出した。 「……そう、なんですねっ、あ、先輩、ずっと後ろ向きだと危なくないですか?」 「小田が前を向いたら俺も前を向く。あっ、言っとくけど前ってあっちの前じゃないから」 「分かってますよ」 「向くって、あっちの剥くじゃないからって、やらっ」  純己が笑うと室川も笑った。 「……もう、元気です、ちゃんとした方の前、向いてますって」 「嘘つけ。その顔はまだ前向いてない。悩み被ったまんまの顔」 「被ってないですって」 「猫も皮も被ってる」 「皮って、やめて下さいよっ、それ、もう」 「やめない。小田が大丈夫になるまでやめない」 「大丈夫ですって」 「大丈夫じゃない、ぁ、あぁっ!」  室川が後ろ歩きの状態でつまづきかけた。 「危ない、先輩っ」  室川が手を振り上げた拍子にアイスが棒から飛び出して川に向かって弧を描き、川の真ん中に落ちて派手な水しぶきを上げた。  川の方を見ていた室川と純己はゆっくりと顔を見合った。室川の指に挟まれた小さな棒が水色の雫を垂らしていた。だんだんと二人に笑いが込み上げてきた。溢れるものは止められずに、どんどん湧き上がってきた。それから二人でずっと笑い合った。  そのときの川のせせらぎがずっと今でも瞼に焼き付いている。室川の真剣な顔と笑っている顔がずっと焼き付いている。あの日から純己の心にはずっと疑問符が付いたままの室川がいる。  室川先輩は、僕のこと、どういう風に思ってくれてるんだろう。単に先輩が後輩を励ましただけなのかな。彼女とデートする場所に連れて来たってことは、彼女の次くらいには可愛いとか思ってくれてたりするのかな……。ひょっとして恋愛対象として見てくれていたり、するのかな……。男も恋愛対象の範疇に入る、のかな。  誰かに聞けるわけのない疑問が、ずっと心の中に堆積して気持ちの流れを鈍らせていた。  川に飛んで行ったアイスは水に溶けて消えたかもしれないけれど、純己の気持ちにはすっぽりときれいな穴ができて、そこだけが冷たく固まってしまった。

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