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第一章 不機嫌な始まり ④

 受付でペンケースを受け取った後、ニックを呼んでもらった。  事務室のドアが勢いよく開けられて、ニックが中から出てきた。 「やあ……」  ニックは少し焦っているように見えた。 「こんにちは、ニック」 「きょ、今日は、何かな?」 「お話したいことがあって」 「ぁ、っ、じゃ、商談室に行きましょうか」  初めてニックに会って英語のレベルチェックを受けた小さな部屋に通された。  向かい合って静かに座り、純己は正面を見据えた。  最後なんだし正直に言おう。やっぱり本当の自分で終わりたい。 「単刀直入に言います。僕ね……僕は、あの可愛い女の子と一緒にいた男性の方に一方的に恋心を抱いていたんです。つまり、そういう……、ことで……」  ニックだけ時間を止められたように微動だにしなくなった。純己は続けた。 「あの人がこの駅の近くに住んでることを知っていたからこの教室にしたんです。でも見ての通り……やっぱりあの人には彼女がいた……だから……」 「ちょ、ちょっと待って下さい、純己。だったら、尚更ここにいた方があの人に会えるチャンスも増えるんじゃないんですか?」 「確かにそうなんですが、彼を本当に好きだったかどうかは自分でもよく分からなくて。自分を恋愛対象と見てくれているんじゃないかって期待していただけかもしれません」 「だとしても……今は恋人がいたとしても、人の人生なんてどうなるか分からないのでは?  純己がこの教室を去る必要なんてないじゃないか」 「いえ、今は身を引きます。僕、あの人と同じ大学に進学することになってるんでそこでチャンスを窺います」  純己は強がって微笑んで見せた。 「……ど、どこの大学ですか?」  大学名を告げると、ニックはなるほどというジェスチャーをした。 「あの大学は英語教育に力を入れていますね」 「そうなんです、よくご存じですね」 「まあ、この業界にいますから」 「あの人とも高校の英会話クラブで知り合ったんです」  ニックは一点を見つめて考え込む顔をした。 「ニック?」 「あ、ごめんなさい。どうしてもここは去るんですか?」 「はい、決めたことなので。いろいろ生意気なこと言ってすみませんでした」  純己は頭を下げた。 「頭を上げて下さい、純己。私のことを見て下さい」  純己はニックの顔を見た。 「純己、よく聞いて。それなら、純己がなんでミドルクラスだったのか伝えます」  純己は身構えた。 「純己の英語は確かに発音は美しいですし、語彙も豊富で、文法もその辺の日本人に比べたら正確です。でもただ、ただ……」 「率直に言って下さい。僕のためなので」  ニックは大きく息を吸って、口を開いた。 「純己の英語には、トゲを感じます。日本語ではカドとも言いますね。自分は他の人とは違う、勝っている、優れているといった類のものです。それでは本当の意味で人には伝わらない。分かりますか?」  純己は体の中心に何かが刺さって体が硬直した。そして視線が落ちた。 「……はい、何となく」 「いいものを持っている。技術のレベルは高いんだから、心を磨いて欲しいんです。だから、いじけないで素直になって欲しかった。だから私は純己の英語レベルをミドルと判断しました」  そっとニックの顔を見ると、強張っていた。 「分かりました。ありがとうございます。ニックが言ったことは正しいと思います」 「それと、わ、私も、こ、この際なので本当のことを言います……」  ニックは、意を決したように座り直して強い眼差しを向けてきた。 「純己、俺は君の可愛い顔をずっと見ていたかった。そばに置いておきたかった。だからわざとミドルに入れた。さっきの理由も本当だけど、こっちの理由も本当なんだ」  純己は瞬きだけしかできなくなった。ニックの声色も口調も変わった。フォーマルな言い方ではなく、男そのものの口調だった。 「純己が同性が好きだと知った以上、俺は君を諦めきれない」 「……ぃ、いや、ちょっと待ってニック。そうだ、僕は未成年なので無理です」 「でも十八になってるじゃないか。それに君が高校を卒業するまでは待つ」 「だから、僕はあの先輩が好きだって言ったじゃん」 「あいつはノンケだ。やめとけ。住む世界が違う。君が辛い思いをするだけだろ?」  純己は立ち上がった。 「それは余計なお世話。あなたがどうあれ、僕はあなたのことを恋愛対象としては見ていません。こちらの用件は済みましたので帰りますっ」  純己は部屋から出ようとドアに手を伸ばした。すると、後ろから体ごと包まれた。 「この教室をやめるのは君の自由だ。でも俺とプライベートで会ってくれないか?」 「や、やめて下さいっ」  純己はニックの逞しい腕からすり抜けた。 「答えはノーです、じゃっ」 「俺は君を守りたい」 「はい?」 「普通の男性を好きになって叶わなくて、純己にこれ以上辛い思いをさせたくないんだよ。君はときどき哀しそうな寂しそうな顔をする。なんでそんな顔をするのか、その理由を知りたい」  純己は、今までの人生が早送りしたみたいに駆け巡った。そんな顔をしているなんて今初めて知った。なんで……? 理由……? 混乱しかけた頭の中に、男性の愛情を知らないで育ったから、という言葉がふっと浮かんだ。  いや、違う。そんな、人のせいになんてしたくない。育った環境のせいになんてしたくない。僕は僕なんだから。  ただ……ただ男性が好きなだけで……片想いを勝手にしてるだけで……。  それとこれとは一緒じゃない! そんなわけないから!  純己はニックを睨み上げた。 「さようなら」  ドアを開けて廊下に出て、すぐにドアを閉めた。 「俺は君が好きだ」  ニックの言葉がドア越しに耳に届いてしまった。薄っすらだったけれど聞こえてしまった。でも思いに応える必要なんてない。同性を好きになる気持ちは分かるけど、僕にはちゃんと好きな人がいる、と思う。  ……その人が僕のことを好きかどうかは分からないけど……。  ニックなら、僕じゃなくともすぐに恋人ができるよ。なんか普通にモテそうだし。  僕なんかの何がいいんだろう。勘違いなんじゃない、その気持ち。  階段を下りたとき、動きが止まってしまった。そっと振り返り階段の上を見上げた。  薄暗い空間しか見えなかった。  本気じゃないなら、そんなこと言わないで欲しい……。  純己は夕陽を避けるように俯き、駅に向かって走った。    ◇◇  ニックは、ため息をつきながら脱力するように椅子に座り込み、額に手を当てた。  言ってしまった……。なぜ焦るんだよ俺。ったく馬鹿な俺。知り合って間もない相手に言うことか、よく考えろよ。でも、純己とは最後になるかもしれなかったんだから、今のこの望みにかけるしかなかったんだよ……。  三十六年間生きてきたなかで、あんな可愛い顔と出会ったのは初めてだった。一目惚れを初めて経験した。男が好きだなんて誰にも言えずにいた。まして可愛い顔の小柄で細身のアジア人男性が好きだなんて死んでも言えなかった。でもそれが自分の指向なんだから仕方ない。  男性と付き合ったことはまだなかった。経験としては女性と少し付き合った程度で、セックスの経験もあるが数えられる回数だった。心から湧き上がる喜びはなかった。女性にモテそうだと見られているせいか、一人でいるとゲイではないかと揶揄されることも多かった。  周りから勧められる見合いや紹介も仕事が忙しいと断ったり、結婚していない理由を聞かれても思い付きの嘘をついてなんとか誤魔化してきた。ときには恋や愛に興味がない振りまでしていたこともある。生きにくい人生だと悩んだりもした。  でも日本に来てからは、やはり自分は男性が好きなのだと改めて思った。テレビを点けても街を歩いてもタイプの範疇に入る男性がたくさんいた。目線のやり場に本当に困った。ついつい可愛い童顔の顔を見つめてしまう。  だがまれに長身だったり筋肉質だったりハンサムな男性から見られたり親しくされたりもしたが、全くどうでもよかった。そういうときは異性愛者を装っていた。  純己とは十八歳離れている。ニックが今の純己の歳に純己はこの世に生を受けた。つまりニックは純己の倍の時間を生きていることになる。  あんな年下の子に興味を持ったのも初めてだ。アメリカにいた頃も片想いに近い恋心を同級生や後輩に抱いたことはあった。純己がもう少し年齢が上なら、せめて成人していてくれたらとこの短い期間何度思ったか分からない。  俺はもうこんなおっさんなのに、中身は十代の頃からちっとも変わっていない。  純己と初めて会った日、細く締まった背中にくびれた腰、そして小さくて形のいいお尻がこちらに向けられていた。あれからあの映像を何度おかずにしたか分からない。触れてみたいし、できるならその先も……。 「だからだめなんだよ俺は」  ニックは机を拳で叩いた。  純己を抱きしめたときの感触がまだ腕と胸に残っている。まるで子犬や猫を抱きしめたときのように、か細くて柔らかくて、軽いのが持ち上げなくても分かった。そして純己はいい匂いがした。シャンプーなのかコロンなのか分からないけれど青りんごのような甘い匂い。肩と腕が冷えていたので俺の体温で温めてやりたかった。  ああ、好きだ、好きだ、好きだ……。できれば、キスしたい、愛撫したい、喘がせてみたい、感じてる顔を見てみたい……。  やっぱり変態なんだな俺は……っ。  それにしても、純己が好きだと言っていたあの女遊びしているような若い男。なんで純己はあんな男を好きになるんだ。確かにハンサムだし純己とも年齢も近い。それまでは好きだったとしても諦めるべきだ。あいつには純己はもったいない。あんなノンケ野郎なんかに純己を渡してたまるか。  そのときドアをノックする音が響いた。返事をすると、 「ニック、今大丈夫かしら?」  コーディネーターの杉山加代の流暢な英語が聞こえた。ニックは慌ててノートを開き、メモしている振りをした。 「どうぞ」  ドアが開かれ、加代は入口に立ったまま話した。 「ニック、今月の損益表ができましたのでお渡ししてもよろしいですか? 他校の分は森さんからニックにメールが来ていると思います。私はもう帰らせていただきますので」 「ああ、すまない、ここに置いてくれたらいい」 「それと、新しい講師の面接ですが最短で来週の火曜日になりそうです」 「それで構わないよ、ありがとう」 「それと……」  加代は何かを言いたげな顔をした。 「加代、他に何かあるなら今のうちに言ってくれ。そんなに時間があるわけじゃない」 「お父様から経営を引き継がれて、お父様のモットーである『現場に入れ』を守っていらっしゃるのは分かるんですが、なんでわざわざニックがミドルクラスを受け持つんでしょうか……」 「あ、いや、まあ、今まではアドバンスで一部の英語エリートしか相手して来なかったものだから、中間レベルの受講生のレベルも肌で感じる必要があると思ったし、今取り組んでいる新しいメニューのマーケティングにもなると思ったからだよ」  ニックは早口で言い訳をするように説明をして咳払いをした。 「私は、言語教育の学位を持っていて総合ディレクターのニックが、旗艦店になるここの教室の入校時のレベルチェックをするのは賛成です。ですが、その、私のような一スタッフが言うことではないですが、経営者の方がここにきて急にミドルを受け持つのは他の受講生が不思議に思うかもしれないと……リンダからも聞かれました」 「加代の言いたいことは理解できる。……そうだな、うん、もうそろそろミドルはその新しい講師に任せようと思っていたところなんだ。リンダにもそう説明してくれ」 「そうですか、承知いたしました。そうなさった方がよろしいかと私も思います」 「忠告ありがとう。今日は私が閉めるからもう帰ってもらっていいよ」 「あ、もう一つ。今日、高校生の小田純己さんが来月の更新をお断りされましたよね? 先ほどまでお話されていたと思うのですが、どんな理由だったのか聞いても……」 「そ、そう言えばそうだね、確かにさっきまで彼と話をしてました。大した理由じゃないよ。アドバンスに入れると思っていたけれどミドルだったので納得がいかないという若い人間によくあるやつだよ」 「それなら一層のこと、アドバンスに入ってもらった方がよかったのではと思うのですが」 「と、言うと?」 「わざわざやめられるよりアドバンスで続けてもらった方が売上としてもここのためなのではないでしょうか? 私が明日にでも小田さんに電話して進言いたしましょうか?」 「あ、いや、それはなんというか、しなくていい。彼にもいろいろ考えがあるようで、もうここには戻らないと思う。うちの売上のことまで気にしてくれてありがとう。さすがはここで一番の古株のコーディネーターをして下さっているだけはあるね」 「いえそんな。……そうですか、承知いたしました。ではこれで」  加代はお辞儀をして帰って行った。  やれやれ、女性の視点は有難いが、説明しにくい良いところを突いてくる。  ニックにとっては一人分の売上なんかより、ずっと純己の今後が気になっていた。  さあ、こんなことをしている場合じゃない。純己が春英外国語大学に入学するまであと数カ月だ。業務提携の話が持ち上がっていた大学に純己が入ることになっているとは、こんなチャンスはない。純己があんな寂しそうな顔をする理由が知りたい。  純己がノンケなら諦めざるを得なかっただろう。でも諦める必要がなくなった――。  必ず本当の笑顔にしてみせる。そして、純己は俺が幸せにする。  ニックは事務室に戻りパソコンで大学のホームページを開いた。そして、スマホの画面に春英外国語大学の総務部長の携帯番号を表示させた。

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