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第二章 再会 ①

 大きな月が作り物のように黄色く光っていた。模様もくっきり見える。中学校の学芸会で、みんなで作った影絵の月がちょうどあんな感じだった。その月にじわじわと顔が浮かんでくる。    ニックの真剣な顔……。  純己の頭の中には、ニックの声が響いていた。  守りたい、好きだ……。  そんなことを言われたのは初めてだった。本心じゃないよね。雰囲気で言っただけだよきっと。でも、からかっている感じはしなかった。だとしてもなんであんなにいきなり? 欧米人が告るときってみんな、ああなの?  確かに背が高くてがっちりしていてかっこいい部類に入る人だと思うけど、外人はないな、と思い直した。でも、抱きしめられた感触は、悪くなかった……。 「ぁああ、ないないないっ」  純己は首を振りながら自宅アパートのドアを開けた。すると、すすり泣く声が聞こえて急いで居間を覗いた。妹の美菜が泣いていた。 「美菜、どうかした?」  美菜は顔をタオルで拭って、口を開いた。 「お母さんと喧嘩した」 「え、また? でお母さんは?」 「あの男んち」 「そゆことね」 「だって」 「しょうがないじゃん、お母さんも寂しいんだからさ」 「気持ち悪い」 「美菜だって、ショーヤのこと好きでしょ、それと同じ」 「ちょっと違う」 「同じ。美菜、ジコチュー」 「違う! お兄ちゃん普通じゃないから分かんないんだよ」 「どういう意味?」 「男が好きなんでしょ」 「だったら?」 「女が男を好きになる気持ちと、男が男を好きになる気持ちは違うの」 「それも同じ」 「一緒にしないで」 「美菜、僕がカムアウトしたとき誰が誰を好きになってもいいと思うって言ってくれたじゃん」 「……そうだけど」 「落ち着こ。お母さんが働いてくれてるお陰で学校行けてるんだから。不倫してるわけじゃないし、バツイチ同士なんだから別にいいじゃん」 「あんなおっさん。お母さんまだ三十代なんだよ」 「ショーヤも大学生で年上じゃん」 「だから一緒にしないで! もういい、バイト行ってくる。遅くなるから」 「ショーヤも同じシフト?」 「だけど?」 「遅くなるのはいいけど、ちゃんとショーヤの車で送り届けてもらってね」 「分かってる。お兄ちゃんは、いつバイト再開?」 「推薦終わったし、奨学金の申請準備できたし、早速今日スマホで探す」 「あっそ。早く働いてよ、そっちも。英会話のためにバイトで貯めたお金使ったんでしょ」 「そう、だから単発からでも即始めるー。いってらっさい」  美菜はぷんぷんしながらかばんを持って玄関のドアを勢いよく開けた。と思ったら立ち止まった。忘れ物かなと思ったら、美菜はゆっくり純己の方に振り返った。 「誰が誰を好きになってもいいって言ったのはマジだから」 「ありがと」  美菜は足早に去って行った。アパートの外階段を下りる音がガンガンガンと響いた。  駆け足で春英外国語大学のキャンパスに入ると、もう入学しているような気持ちになった。推薦入試の面接のとき以来の訪問で、あの時と今とでは一歩一歩の感触が違う。  マスクから熱い息が自分の頬にかかった。室川と会うかもしれないのでマスクを着けた。でもこれじゃ、あっちがこっちに気付いてくんないじゃん。それに走っているせいでもう暑い。純己はマスクを外しマフラーを解いた。英語の体験授業を受けに来ただけなのに、息切れではない何かに縛られる胸の中が苦しかった。  ……冬休み中なんだから、いないって……何期待してんの……。  もう数分で授業が始まる。エレベーターは当分下りて来ないことが分かったので、階段で三階まで駆け足で上った。  大きな教室の後ろの扉に到着する頃にはダウンジャケットを脱ぎ、カーディガンの下に着ているシャツのボタンも二つ外した。  そっと入ると授業が始まったところだった。テレビ出演をしたりラジオ番組も持っている人気講師だけあってびっしりと席は埋まっていた。社会人コースの人たちも対象なので、いろんな年齢の人が聴講していた。  ふと、近くの席に視線を動かしたとき、一人だけ顔を純己の方に向けている人がいた。その人は目を大きく見開いて口をぽかんと開けて純己を凝視していた。周りの人たちより一段と座高が高く、彫りが深く、髪の毛がブラウンで、そして瞳の色が学芸会で作った影絵の月の色をしていた。  あ……ニックだ。  ニックは純己を見ながら席を詰めてくれた。ニックの向こうに座っている人は少し迷惑そうな顔をしていたが、ニックはお構いなしに純己が一人座れるくらいの場所を確保してくれた。  ニックの顔はなぜか怯えているように見えた。僕が恐い? ジャイアン扱い? いやいやまさか。純己は、ニックと体をくっつけて座ることに少し抵抗を感じたが、せっかくだし、立ち見は避けたかったので好意に甘えることにした。  ニックの横にすとんと座ると、ヒップは余裕があったがニックの肩に純己のこめかみがくっついてしまった。 「ごめんなさい」  思わず純己はそう言って頭を少し右に傾けた。 「や、やあ、こ、こんな所で奇遇だね、ね?」  偶然会ったというだけではなさそうなニックの動揺を感じた。ニックだって英会話業界の人だし、今日の講師の講義に興味を持っても不思議はない。純己の進学先も告げているので会ったとしても、ふーん、くらいが妥当なのに。もしかして更新を断ったことを悪く思われているのだろうか。  あ、そっか、ニックに告られたんだった……。それで……。もういいのにそんな。  そう考えると純己の中に余計な気を使わなければならない煩わしいものが生まれた。それにさっきから左から熱いくらいの視線を感じる。そっと横を向くとニックは瞬きを繰り返した。 「……僕は気にしてないから、気にしないで下さいね」  とニックを見上げながら口だけで笑って見せた。この表情をすれば何が言いたいか伝わると思った。少なくともニックは結構年上の人だし、純己の言いたいことは分かってくれるはずだと大人の感覚に期待した。  ニックは急に視線を外して俯き加減になった。机の上に置いた両手の拳が小刻みに揺れている。なんだか苦しそうに見えた。体調でも悪いのかと心配になった。 「ニック? 大丈夫……?」  ニックはもぞもぞしながら、かろうじて頷いた。 「体調でも悪い、とか?」  ニックは俯いたまま右手を膝に下ろし、左の手の平を純己の方に向け、 「大丈夫、こちらのことは気にせず講義を」  と小声で言った。こちらの聞きたいことは結局聞くことができなかったけれど、まいっかと思うことにした。  純己は、英語の講義に集中することにし、ノートと筆記用具を取り出した。    ◇◇  待ってくれよ……頼む。こんな時に。どんだけゲンキなんだよ俺……。  ニックは、純己には絶対に気付かれないように右足を上にして足を組んだ。  純己が悪い。純己が骨に見えない柔らかそうな鎖骨を晒すからだ。甘い柑橘系の香りをふりまくからだ。そしてキラキラする瞳を向けて微笑むからだ。  だから、だから勃ってしまった……。俺は悪くない。俺は変態じゃない。もう思春期なんかとうに過ぎているのに、何してんだよ俺っ!  なんだそのちょっと汗の滲んだ額は。拭って欲しいのかよ! なんだそのきめの細かい首の肌は。吸い付いて欲しいのかよ! くそぉっ、可愛いぃ……。  腕を回せば何でもできる位置にいる。唇を奪うのに二秒もかからないだろう。 「いてて……」  足を組むと大事なところがあさっての方向に曲がって痛かった。こんなとき、自分のサイズを恨んでしまう。 「やっぱりどこか痛い?」  右隣から小鳥のさえずりが聞こえた。 「え? あ、いや、大丈夫」  純己は軽く微笑んでまた講師の方を向いた。隣に居て欲しいのに、居て欲しくない……。  今日の講義イベントの情報はニックが経営する教室からのメルマガでも配信していた。純己もきっとそれを見てくれたのだろう。純己なら絶対に興味を持つと思っていた。だから純己の姿を見たときは願望が叶ったことに驚き、再会できたことが素直に嬉しかった。  でも純己が遅刻してくることも、汗ばんでいることも、ニックの横に座ることになった流れも想定外だった。自分の咄嗟の判断と親切心でチャンスを掴んだことは間違いないが、困ったことになった……。膨張したものを元に戻すためにもこの講義に集中するしかない。  純己はもうノートにメモし始めていた。ベージュのカーディガンの袖が手にかかっているところが純己らしくて愛くるしい。ああ、そこから出ているペンを持つ手がやはり可愛い。小さくて白くてきれいだ。できれば手をつなぎたい。握手をしたときの感触を思い出すためにニックは目を瞑った。ちゃんとは思い出せない。また触れたい。握手作戦しかないか……。 「熱心だね、相変わらず。感心するよ純己の英語学習への姿勢には」 「ありがとう」  純己はこちらを見ずに小声で答えた。 「同じ英語を教える者として嬉しい。ぜひ頑張ってくれ」  ニックは右手を差し出した。純己の眉間が硬くなった。 「え? 今は、その、だって……」  純己は大きな瞳を泳がせながらそう言った。周りから咳払いが聞こえたのでニックは手を引っ込めた。すると純己は安心したような顔になった。  握手作戦がバレているのだろうか。まさか。欧米人はみんな握手をすぐするものだと日本人は思っているはずだ。そこを逆手に取ったのに。  ああそうか、こんな時にするから変に思われているのか。それとも手が汚いと思われているのだろうか。それならショックだ……。  こんな講義なんか聴いていられない。純己が横にいると講師の声など耳に入って来ない。内容はだいたい知っている。講師が旧友なのもあるが、昔はニックがこの講師に英語の発音を教えてあげていたのだ。彼ならではの研究心もあって英語を解読していくような教え方が功を奏したのかもしれないが、発音はまだまだ和製英語の域を出ていない。  純己の方がよっぽど発音にセンスがある。そうだ、きっと純己の舌の動きは滑らかなのだ。だからネイティブでもなく留学をしたこともないのにあんなに美しい子音を出すのだ。  どんな舌をしているのだろう。どんな動きをするのだろう。純己の舌は、その見た目と体の華奢さと相まって、さぞ柔らかいのだろう。触れたらとろけるに決まっている。味わってみたい……。 「あ……い、て、てて」  またマックスに戻ってしまった。馬鹿野郎なんだよ俺は!  だめだ、ここで伏せるとまた純己に余計な心配をかけてしまう。前を見ないと。何でもない顔をして講義に集中している振りをしなければ。  そう、俺はアジアの国々で百を超える英会話教室を運営している企業の新進気鋭の経営者なのだ。二十八歳のとき体調を崩した親父から引き継いで教室の数をほぼ倍にした。日本では教室の数こそ大手に負けてはいるものの伸び盛りの中堅と言われている。そんな俺は、なんてことはない、今日は市場調査に来ただけなのだ。  斜に構えた顔、鋭い視線で旧友でもある人気講師の実力の値踏みをしているのさ。うちで使えるかどうか審査しているとでも言っておこうか。  上半身は冷徹に見せればいい。そう、俺はもともとそう見られている。なんならペンを握ったまま頬杖をついて余裕と品を出そうじゃないか。見た目通りの大人でクールな男をやってやろうじゃないか。ちょうどいい、純己の前で本領を発揮しようじゃないか。  あいにく下半身は机で隠れているのさ。  下半身よ、気が済むまで横を向いていればいい。  俺は前を向くタイプなんでね。

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