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第二章 再会 ②
純己がシャーペンを置いた拍子に消しゴムが転がってしまい、ニックと純己の間の椅子のところに落ちてしまった。手を伸ばしかけたとき、
「な、なに……?」
とニックがうろたえた声を出し、組んでいた右足を高く組み直した。その途端、机に膝をぶつけたらしく鈍い音がした。
「いてっ!」
ニックの大きい声が響いてしまった。ニックはなぜか膝ではなくお腹あたりを押さえて俯いた。
「大丈夫?」
純己がそう声をかけたときには周りの視線がニックに向けられていた。
「ごめんなさい。大丈夫です。失礼」
ニックは必死に謝罪を口にしていた。その姿がちょっと可哀想に思えた。
消しゴムがちょうどニックのお尻の下敷きにされそうだったので、純己は下を見ながら手を伸ばすと、
「何を見ているんだ!?」
ニックがそう言いながら、右腕で自分の下腹近くを覆う仕草をした。
「あ、あの消しゴムがニックのお尻のとこに」
「お、俺が取るよっ」
ニックは焦ったような笑顔でそう言って、右手は体に添えたままでわざわざ反対側の左手を伸ばし体を捻りながら消しゴムを取って机に置いてくれた。まるでヨガのポーズみたいだった。
「あ、ありがとう」
純己は今日のニックは何かが変だなと思った。やはり体調が悪いのかもしれない。その時、講師の声が止まった。さっきからここで結構な音量を出しているので注意を受けるのかと覚悟した。
「おお、ニック!」
講師はマイクを通してそう大きな声を出した。この講師はニックと知り合いなのだろうか。講師は日本人離れした目鼻立ちで、黒縁メガネともみ上げから続く薄い無精髭が様になっていた。
純己がニックの方を見ようとしたとき、ニックの舌打ちの音が聞こえた。
なんで舌打ちなんてするのだろう……。
「皆さん、私の友達が来てくれていますので紹介します。ヘイ、ニック、前へ」
講師が教壇からそう呼びかけたが、ニックは渋い顔をして指を横に振り始めたので講師は続けた。
「彼はあの通りナイスガイでガタイもデカいんですが、シャイなんですよ、皆さん。彼も英会話業界では有名な人物です。せっかくなので彼にこれからの日本における英語学習について少しだけスピーチしてもらいましょう」
拍手が轟き、みんなの視線がニックに集められた。純己は、ニックって意外にけっこうすごい人なんだろうかと思った。しかしこれだけの期待と羨望がかかってもニックは足を組んだまま一向に動こうとしなかった。
「や、どうも……ぁ、わ、私は、いい……今日は遠慮しとくよ」
「どうして!」
講師の声がマイクを通してうるさいくらいに耳に入ってきた。
「いや、その、だから、体調が優れないし、私の講義ではないし、え、遠慮しておくよ」
純己は、やはりニックは体調が悪いのだと合点がいった。
「そんなこと言わずに! 日本にいながらどうすれば英語が上達するのか、ニックの意見を聞かせてくれよ!」
講師はなかなか引かなかった。困り果てたような顔をしているニックを見ていると助けてあげたくなった。
「ニック、僕からも体調が悪いって改めて言ってあげようか?」
純己は小声でニックにそう伝えた。するとニックは何かを思いついたような顔をして、前を向いた。
「ならば打ってつけの人材がここにいる」
ニックはそう言ってまた左手を純己の肩に置いた。純己は言葉が出なかった。
「彼はまだ高校生だが、発音はネイティブ並みで会話レベルも相当に高く、英検準一級も持っている。しかも日本を出たことが一度もない。日本にいながら英語が上達する秘訣が知りたいのなら、彼を前に呼ぶべきだ」
ニックがそう言うと、今度は純己に視線が一斉に注がれた。
ぇ……な、何をいきなり……。
純己はびっくりしたもののニックが言ってくれた内容が嬉しく誇らしくもあった。
「高校生が? それはおもしろい! じゃ、そこのキュートボーイ君、前へ!」
「え……? マジですか……」
「もちろんさ!」
ニックにも文字通り背中を押された。触り方が優しくて手が温かった。純己がもじもじしていると、周りから「若い子の方がいい経験になる」などの応援の声が聞こえた。
純己は緊張しながらもゆっくりと教壇に向かって歩いた。振り返ると、ニックはなぜか安堵しきったような顔をしていた。そして親指を立ててくれた。
教壇に立つと無数の視線が降り注がれるのを感じたが、同時に晴れ渡るような清々しい空気も感じた。教壇の前に立った方がむしろスムーズに覚悟が湧いてきた。
講師はニックほどではないものの純己から見たら背の高い人だった。早速、英語で話しかけてきた。中間レベルから少し上の単語や文法が混じっていた。純己は渡されたマイクを通してすかさず応答した。講師は目を大きくし、聴講している人たちからは感嘆の声が漏れた。
「君が高校生であることに驚くよ全く。三年生だということだが大学はどこを受けるの?」
「あ、ここです。あの、僕は推薦でここの春英外国語大学の入学が決まっているんです」
「ええっ! そうだったんだ!」
講師の大きな声とともに教室全体に歓声のような音が響いた。純己は思わず頬が緩んだ。
「なるほど、ここの大学は日本でも英語に力を入れていることで有名だからね」
「はい、そうですね。ぼ、僕も、その理由でここを選びました」
「緊張しなくていいよ! どんどん英語で話してくれ」
純己は微笑んで見せたが、この大学を選んだ理由を考えるとき、いつも室川の姿が浮かんでくるのでそれを打ち消すのに必死なのだ。
しばらく英語でのやり取りが続いた後、純己を教壇に立たせたまま講義は休憩に入った。スマホを見る人や席を立つ人で教室は一気に騒がしくなった。
純己が自分の席に戻ろうとしたとき、講師から呼び止められた。
「純己君、実は私もここの大学で来期から講師をすることが決まっているんだ」
「そうなんですか、よろしくお願いいたします」
「それで君だから話すけど、私が受け持っているラジオ番組で高校生向けのコーナーを企画していて、現役の高校生か大学生くらいのメンバーに出演してもらう予定で人選中なんだよ。ぜひ君に出て欲しい」
「え? ……僕で、いいんですか?」
「君ならぴったりだ。バイト代も出るから一石二鳥じゃないかな?」
「は、はい、僕でよければ喜んで!」
純己は純粋に嬉しかった。バイト代がもらえることと実力を認めてもらえたことだけじゃない。ニックが純己にチャンスをくれたこともだ。だが、ニックの方を見るとニックは険しい顔つきでこちらを窺っていた。
「公開収録でもしたら、ファンが一気にできるだろうな、純己君なら」
「いえいえ、とんでもありません」
打ち合わせの場所はこの大学の講師室になった。日程が書かれたメモを渡されてからも、講師が話題を変えていろいろ話しかけてきた。そのとき大きくて重い足音が響いた。
「ヘイ」
声の方に振り向くと、ニックが眉間にしわを寄せて腕を組んで教壇の近くに立っていた。
「おお、ニック、びっくりしたよ、今日来てくれるなんて思ってなかったから」
「お話の途中で悪いが純己に用があるんだ」
「分かったよ。だけど、そもそも二人はどこで知り合ったの?」
講師はニックに聞いた。
「うちの教室だ」
ニックはなぜか少し不機嫌そうに答えて、純己の方を向いた。
「純己、行こうか」
「あ、はい……」
ニックと一緒に帰る約束をしているわけではなかったが、さっきのお礼も言いたかったので素直に従った。そのとき別の聴講生が講師に質問を始めたので、ニックと並んでその場を後にした。
歩きながら、ニックは、講義のパターンはいつも同じで休憩の後は簡単な確認テストをするだけなのでもう出ようと提案してきた。純己なら満点なのは目に見えていると。純己はラジオ番組に誘ってくれた講師の講義を途中で退室することに少し罪悪感があった。
「でも、なんかちょっと悪いような……」
「少し聞こえていたが、あいつのラジオ番組のことか?」
「うん」
「あの番組なら、うちの教室がスポンサーをしているので気を使わなくていいよ」
「え? ん? でも僕はもうあの教室は辞めたから……」
「ああ、そうじゃないよ。うーん、とにかく心配しなくていい。何というか、俺がいいって言えばいいことになるから大丈夫」
「……ニックってあそこの偉いさんなの?」
「まあ、割と」
「そっか。あ、さっきはありがとう。ニックが僕のこと推薦してくれたお陰で素晴らしい経験ができました」
「あ、ああ、いや、気を使わないでくれ」
ニックはなぜだか顔を背けながらそう言った。
「あの講師とは知り合いだったんだね」
「ああ。彼は俺より三つほど年下で、父親がアメリカ人で母親が日本人のミックスだけど日本生まれ日本育ち。父親とは簡単な英語で話すこともあったみたいだが、もともとは日本語しか話せなかった」
「へえ、にしては英語うまかったな」
「父親の遺伝子もあったのだろうが、俺が発音を教えていた時期もあったんだ」
「そうなんだ! すごーい」
「いやいや、そういう意味じゃないよ、俺はただ仕事してただけさ」
「でも、僕も……ニックのお陰でラジオ番組に出演することにもなってさらに英語を磨けることになりましたっ」
「おめでとう、良かったね。それは純己の実力だよ。純己の努力が報われたね」
「ニック」
純己が呼び止めると、
「ん?」
と言いながらニックはおもむろに純己の方を向いた。
「ありがとう……僕はニックに感謝してます」
純己がそう言うと、ニックは立ち止まって純己を凝視した。その眼差しが射抜かれそうなくらいに真剣で純己はドキッとした。
ニックの真剣な顔ってやっぱりかっこいいかも……ああ、ないないだめだめ。
ニックは急に目を泳がせて、また表情に怯えが出た。
「す、純己、この後、じ、時間あるなら、か、か、カフェでも行かないか?」
「……え……」
これって……違う違う、普通によくあることなのに、変に意識するなんて……っ。
純己は急な誘いに戸惑って言葉を探していると、
「ダメか? あんなこと言ってしまった後だと、やっぱり嫌か? 嫌なら告白のことは忘れてくれていいんだ。ゼロから始めてくれたらいい、英語に関わる者同士として」
純己は、もうニックに告白されたことを気にしていなかったが、ニックはやはり気にしていたみたいだった。
「全く嫌じゃないですよ。今日は時間ありますし、ぜんぜん大丈夫です」
純己が微笑んでそう答えると、ニックは両手をポケットに入れて満面の笑顔になった。
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