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第1話
平和ってのは、退屈なものでいいんだろう。刺激的な毎日は若い頃の話で、四十を過ぎるとちと疲れる。
かといって足腰の立たない老人ほど暇だと生活がままならない。のらりくらりと日々をやり過ごし、どうにか最低限生きていけるくらいが、俺には丁度いい。
夕方五時から日付を跨いで深夜二時まで店を開き、次の日の仕込みを軽くして明け方四時から昼過ぎまで寝て過ごす。そんな生活を二年くらい続けている。
一階の店舗から二階に上がればそのまま住居という古い家はそれなりに片付いてはいるものの、所詮は独身男の生活空間。脱ぎっぱなしの服や、ゴミに出し忘れたビールの缶、灰皿には煙草の吸い殻があったりする。
万年床の布団に潜り込んだ俺は特に何を考えるでもなく、代わり映えも刺激もない日常を繰り返して生きている。
これが今。いつか人知れず枯れ果てて消えていくんだろう俺の人生だ。
◆◇◆
暑い時期もようやく落ち着き、金食い虫なクーラーともおさらば出来そうな九月の末。昼を過ぎてようやく寝床から這い出し、カップラーメンにお湯を注いでいる時に家のチャイムが鳴った。
時間は一時を過ぎたくらい。食材の配達には早い時間だ。かといってネット通販なんてご無沙汰でありえない。言っておくが、貧乏ギリギリ生活だが妙な所から金を借りたりはしていない。奴らの執念をよく知っているからだ。
ろくな奴じゃないだろう。そう思い居留守を決め込む事にしたが、再三のチャイム。訪問者はどうにも諦める気がないらしく、確信犯的に一定のタイミングで鳴らしてくる。それに、俺のほうがイラッとした。
くたびれたスエットに襟元の伸びたTシャツ姿で一階に降りてくる。そうして裏口ののぞき穴を見て、俺はグッと言葉を飲んだ。
そこにいたのは、到底こんなオンボロ居酒屋には似つかわしくない男だった。
短い黒髪を綺麗に撫でつけて整え、高級そうなスーツをビシッと着ている。こちらを見る眼鏡の奥の瞳は鋭く、まるで猛禽のそれだろう。長身で、服の上からだって鍛えられた体が想像できる。
が、間違いなく堅気の雰囲気はない。
俺はこいつを知っている。記憶の中の姿からは多少歳を取っているが、全体的にはそう変化はない。こちらを見る目すら同じだ。
そしてこいつが相手なら、住人が在宅済みなのも知れている。なんせ電気ポットもテレビも使っている。電気メーターがばっちりお仕事中だ。
「いますよね、畑さん」
「!」
静かな声音は心地よい低音だ。そして、少し元気がない。
「探しました。予定よりも早く、出てこられていたんですね」
そういえば、本来なら今年の夏が年季明けだったか。
ドアの向こうの男は、しょぼくれたガキのような顔をする。僅かに俯き、口元を引き結んで。いい男が台無しな顔を見てしまうと、このまま黙っているのも可哀想になってくる。
まぁ、黙ってるんだが。
「どうして声をかけてくれなかったんですか。迎えに行ったのに」
いや、それが困るから連絡しなかったし、勝手に番号変えたし、住所も変えてドロンしたんだけどな。
「番号変わってるわ、家はとっくに解約済みわ、いい加減手間掛かりすぎて腹が立ちました」
本当に腹が立ったのだろう、睨まれた。視線だけで射殺すような奴と対峙する胆力なんて、今の俺にはないっての。
「ねぇ、出てきてください。見つかったんだから、腹くくって話し合いましょう?」
嫌だ。
「…………ドア、蹴破ります」
ガチャ
こいつはやる。そして気が短い。それを知っている俺は素直にドアを開けた。こんなぼろ家でも修繕費ってのはかかって、案外バカにならない。毎日ギリギリ生活に発生する臨時出費ほど生死を分けるものはない。
目の前に立つ男は、知っている姿よりも随分立派になった。あの時はまだ甘っちょろいガキの顔をしていたのに、今はいっちょ前に男の顔だ。
「畑さん」
「お前ねぇ、どうして来たわけ?」
「迎えにきました」
「だから、来て欲しくなかったんだよ」
だからこそこっそりと痕跡消したってのに。
シャワー前の髪をガシガシかく俺に、目の前の男は酷く辛そうに眉根を寄せる。そりゃそうだ、こいつと今の俺じゃまったく似つかわしくない。
無精して伸びた髪に、同じく無精髭。おっさんの中でもあまり綺麗なほうじゃないのは理解している。ただ、底辺なら底辺らしくてもいいかと思ってもいる。生活こんなんで格好だけつけたってどうしようもないだろ。
それでも店をやってる手前、ちゃんと人前に立つときは清潔にしている。髭も剃るし、髪も結んでいる。手洗いも入念に、そして服装も板前スタイルだ。
「どうして、面会も応じてくれなかったんですか」
「いらないって意味だよ」
「戻らないんですか」
「その気がありゃ戻ってるだろ。俺は足を洗った。だからお前も気にすんな。じゃ」
そう言ってドアを閉めようとしたが、ガンッという音で阻まれる。ドアに手をかけバッチリ足を挟み込んで閉まらないようにした男は、俺を思いきり睨み付けた。
「話、済んでません」
「俺からはしまいだっての」
「落とし前付けさせてください」
「迷惑だ」
「俺の気がすみません!」
「お前事情なんて知るか!!」
両手でドアノブを持って閉めようとするが敵わない。こいつが馬鹿力なのか、俺が非力なのか。おそらく両方だろうな。
それでも頑張って引っ張ったドアノブが悲鳴を上げる。そしてガコンと、突然折れた。後ろに倒れる勢いで引っ張った俺の体はそのまま倒れていく。このままなら板間に後頭部強打は免れない。
が、そうなるよりも前に目の前の男が俺の腕を引き、腰を支えて引き上げた。素敵なレディにこそ似合うだろう優雅さだが、現実は汚い四六のおっさんだ。
「……って、ドア!!」
「あ……」
「あ、じゃねーぞクソったれ!!」
思わず恫喝の声が出た俺に、男はしょんぼりと肩を落とす。そして徐に懐に手を入れると財布を取り出し、中の現金を無造作に引っこ抜いた。
推定、十万以上ある。
「あの、これで」
「いや、多いだろ!」
「残りは気持ち……」
「重いわ!!」
リアルな金額に引く俺だった。
何にしても入ってきてしまった男、しかもドアの修理費を出してくれるという奴を追い返す事もできず。いや、追い返そうとしても多分何だかんだで押し切られるし、正直疲れた。とにかく上げる事にした。
勝手口から住居の二階に上がると一間になっている。テレビの布団も全部ここ。トイレと風呂だけは一階に降りなければならない。
これでもゴミが散乱しているようなゴミ屋敷ではないが、気を遣わない男の部屋だ。掃除だって店が休みの日にやる程度だから週に一回程度。掃除機も週に二~三度かければいいレベル。到底こんな上物に「適当に座れ」なんて言えない。
煎餅座布団を払って、ローテーブルの上に置きっぱなしの空き缶とペットボトルを片付け、吸い殻を片付けた。
「まぁ、座れよ」
部屋を見回す男に声をかけ、小さな冷蔵庫から未開封のお茶を出す。男は大人しく座布団に座った。
「で? どうして来たんだ」
改めてそこから。俺はドアの修理をお願いするのに工務店に連絡しながらだ。幸いこの工務店の主人がここの常連で、メッセージアプリでもやり取りしている。お願いしたら今日中にしてくれると言ってくれた。
「迎えに行ったら、貴方はもう出所したと言われて慌てて探しました」
「あのな、面会も断って出所も知らせなかった意味を考えろ。お前、頭いいだろ」
「それでも、貴方に会わなければいけなかったんです。これは俺のケジメです」
「そういうのいいから。俺は足を洗った、今は堅気だ」
「でも、貴方が刑務所暮らしをしていたのはそもそも俺が!」
「俺がヘマしたからだ! ガタガタ言うな!!」
俺の怒声に、男はビクリと体を震わせる。どうにもこいつを前にすると昔が戻ってくる。こんなんじゃダメだってのに。
溜息をついて、俺は背中を丸めた。
「野瀬、お前が何か気に病む必要なんてない。もうとっくの昔に済んだ話だ。俺は俺の意志で足を洗って、オヤジも同意してくれた。何を求める事もしないし、全部墓まで持って行く。心配するな」
「そういうつもりじゃありません。貴方が何かを喋るなんて思っていません。ただ、俺の気が済まないんです」
「真面目だねぇ。でも、迷惑だ」
「畑さん!」
「元ヤクザの構成員だなんて、知られたくないんだよ。店やってんだぞ? そんなの知れたら商売できないだろうが」
控えめだが、背中にはまだ墨が入っている。これを消すには費用も体力も時間もかかる。それを考えると消すのを諦めた。べつに水泳が好きなわけでも、公衆浴場に行くわけでもない。気をつけていれば日常にそう不便もない。
不良少年から順当にその道に入り、オヤジに気に入られてそれなりにやっていた。が、今から十年くらい前にヘマをして捕まり、長く刑務所で過ごした。
まぁ、よくある抗争の一歩手前、小競り合いの果てに相手を殺してしまったという話だ。捕まった俺はそのまま十年の刑期だったが、模範囚であったことで刑期が短くなった。ついでに更生プログラムの一環で調理師免許も取れたから、こうして店をしている。今では綺麗に足を洗い、生活している。一切切れていたはずだった。
野瀬は俯き加減でいる。俺の言うことが理解出来ない奴じゃない。
野瀬は俺がまが構成員をしていた時の舎弟だ。とはいえ当時から学があり、将来有望株だったが。おそらくそのうち立場が逆転しただろう。
若くてガキだったこいつを叱ったり、尻拭いをしたりしていた俺は思った以上に慕われた。「兄貴、兄貴」と俺の後をついてきていた時代が懐かしい。ただ、この時代からこいつはちょっと頑固で、律儀な奴だった。
ただそれも昔の話。刑務所に入った時に、俺は過去の縁を可能な限り切った。オヤジにもそう願い出て認められた。そうしてこの店と家を貰った。お勤め料と退職金みたいなものか。その話の後は会っていない。そしてこいつにも場所を知らせないで欲しいと言っておいた。
はずなんだが……。
「俺の話は以上だ。もう来るなよ」
「……また来ます」
「だから来るなっての」
立ち上がった野瀬は俺の最後の言葉には返事をせずに出て行く。それもまぁ、仕方がないか。溜息をついた俺はふと、テーブルの上に置かれた封筒に気づいて手に持ち、中を確かめて声にならない悲鳴を上げた。
ざっと五十万は入っている。何用で持っていたんだあいつは!!
「……ドアの修理費だけもらおう」
流石に勝手口がセキュリティフリーは勘弁してほしい。俺はその分だけ拝借することにした。
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