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第2話
その日のうちに勝手口は無事に直り、即金で払えた。野瀬様々だ。
そして翌日午後、今日も今日とて常連のオヤジが三人ばかり、狭苦しいカウンター六席の半分を占拠している。
「それにしてもこの店ボロいって。畑くん、本格的に建て替えとか耐震とか考えた方がいいよ」
無責任にそういうのは常連一号の大野岳、通称ガクさん。工務店の店主だ。
「先立つもんがないだろうよ」
「だって、昨日即金で修理費払っただろ。あの金はどっからだよ?」
「おっ、これかい?」
横から話に入ってきて、下世話に手でパチンコの真似をするのは常連二号、遠藤良太、通称リョウさん。趣味パチンコという可哀想な人だ。
「違うっての」
「じゃあなんだい?」
「知り合いに……まぁ、貸してた分が返ってきたみたいなもんだ」
「なんじゃそりゃ」
ガクさんもリョウさんも焼き鳥片手に焼酎を飲んでいる。が、一人冷静にこちらを見ているオヤジがいる。常連三号の佐々木達彦、通称たっちゃんだ。
「珍しいね、畑くんが昔の知り合いなんて」
「え? あぁ……」
言われると……そうだ。過去を語らないようにしてきたから、自然とそういうフレーズも避けてきた。だがこればかりは、そうとしか言いようがない。
「そもそもさ、畑くんが他人に貸す金あったのが驚きだよな!」
「大昔だよ。俺だって若い頃はちゃんと稼いでたんだよ」
あまり公には言えないけどな。
「何の仕事してたんだっけ?」
「付き人」
「付き人って」
「鞄持ちとか、車の運転手とか、雑用したりとか」
主にオヤジのな。
でもこのご時世、これが組のオヤジの事とは取らない。どっちかと言えばもっと高尚な感じだろう。
「落語家とか、政治家とか?」
「まっ、それを含めて言わない約束なんで」
「気になるな」
なんて、これも酒の肴。気軽に続けられる距離というのを知っているから、こっちが拒めばそれ以上詮索はされない。暗黙のルールだ。
「あっ、酒がなくなった。畑くん、酒とつまみ~」
「はいはい」
焼酎の水割りを手早く出して、コトコト煮込んだ鍋を開ける。いい色に煮込まれた椎茸とタケノコの煮染めを小鉢に適当に盛り付けて出し、シンク下からエイヒレを皿に盛り、七味マヨを添える。それらを出した頃、急に店の戸が開いた。
「あぁ、いらっしゃ…………」
入ってきたのは場違い感しかない野瀬だった。高そうなスーツ姿の奴が入ってきた途端、常連三人も呆然と口を閉ざす。いっそ「お店間違えてますよ?」と言いたい気分だ。
「……客?」
「客でしょう?」
「……何飲むの?」
「あ……生」
絶対に店のランク見て安パイいったな!
俺はサーバーからビールを注いで野瀬の前に置いたが……どうすんだよこの空気!!
「あと、煮染めも美味しそうなので一つ」
「あぁ……」
ヤバい、緊張する。俺の過去がどうのとかじゃなくて、この凍てついた空気が怖い。あの五月蠅いおっさん達が黙った。ってか、どういうつもりだあいつ!
「あ……なぁ、あんちゃん」
「!!」
ガクさん止めとけ! アンタが「あんちゃん」なんて言ってる相手、マジの筋物のインテリさんだから!
ヒヤヒヤしながら見るが、野瀬は気の抜けた柔らかい空気でガクさんを見て「はい?」と返している。それを見た俺は……安心したやら、寂しいやらだ。
昔のあいつなら絶対、ガクさんみたいな見知らぬおやじから「あんちゃん」なんて呼ばれたら青筋立てて睨み付けていた。妙に警戒心も強いし、プライドも高い。近寄りがたいネコみたいな部分があったんだ。
丸く、なるんだな。それを感じると、過ぎた十年を感じる。俺がギラついていたバカ者から無気力おっさんになったように、警戒心丸出しネコも大人になったみたいだった。
「もしかして、畑くんの知り合いかい?」
「!」
今度は違う意味で心臓が痛い。いや、野瀬は言わないと思うけれど、信じているけれど……でも怖いだろ!
時々何考えてるかわからない言動をするし。
俺の視線は煮染めの上で彷徨った。傍目からはどれを盛ろうか迷っているように見えたかもしれない。だからと言ってここで野瀬を見たら何かあるんだと感づかれる。そういう人のスキャンダルには敏感なんだ。
「あぁ…………高校の時の先輩なんです。お世話になって」
「へぇ、高校の! でも、歳離れてないかい?」
「俺の兄が同級生で、一緒に遊んで貰ってました」
「あぁ、あるなそういうの。男兄弟で仲いいとな」
リョウさんのナイスな横やりに、俺は酒一本つけたい気分だ。流石にそれは不自然だから、この人の好きな味付き卵、今度サービスしてやろ。
「はいよ」
「有り難うございます」
小鉢を出すと素直に受け取って一口。途端、野瀬はとても優しい目をした。
思いだした。まだこいつが二十代の舎弟だった時、時々だけど料理を作ってやった。キッチリ習ったわけじゃないけど、当時から俺は何かを作るのが好きだった。
大抵が他の奴と喧嘩した時とか、上手くいってないとき。そういうのに気づいて作ってやると、こいつは嬉しそうに食ってたっけ。
「へぇ、高校の時のか。でも、なんで突然?」
「仕事とかでしばらく連絡とってないうちに、疎遠になってしまって。この間、偶然会ってここで仕事をしていると聞いたので」
「あっ、もしかしてドアの修理代?」
「ん?」
横を向いて首を傾げる野瀬に、ガクさんはニカッと笑って自分を指さしている。
「あのドア直したの俺なんだ。近くで工務店してんだよ」
「あぁ、なるほど。畑さんに会って、そういえば以前借りたままだったのを思い出しまして。昨日、お返ししたんです」
「なるほどな。本当にその頃はちゃんと稼いでたんだな」
ニヤリとリョウさんまで笑って俺を見る。俺はというとあまりそこを掘り下げて欲しくないから、適当に視線を逸らした。
「なぁ、昔の畑くんって、どうなだったんだい?」
たっちゃんが問いかけると、野瀬は少し困ったみたいな顔をする。ビールを一口飲み込んで、ちょっと考えて。でも俺の所からは奴の顔が丸見えだ。
妙に嬉しそうな顔してんじゃねーよ。
「かっこよかったですよ」
「かっこいい!! 畑くんが?」
「頼りになる先輩で、バカやると必ず怒ってくれて」
「はぁ……想像できないな」
「今はすっかりよれたおっさんになってて、俺が驚いてるんですが。でも、本当にあの時は俺の憧れだったんです」
……なんて顔してやがるんだ。
恥ずかしそうに、嬉しそうに、本当に憧れを語るみたいな顔で俺の話をしている。当人目の前にしてだ。俺まで耳が熱い気がする。
「荒れた時期もあって、喧嘩もして。畑さんは絶対にきてくれて、助けてくれたんです。怒って、心配してくれたんですよ。そういうの、いい思い出です」
「いい男じゃん、畑くん」
「よっ! 男上がるね!」
「よせよ、もう……」
顔全部が熱い。手で扇ぐと、常連三人に加えて野瀬までとても自然に笑った。
その後、午後十一時に酔っ払いおっさんズは帰っていって、店は俺と野瀬だけになった。ビールから日本酒に切り替えた野瀬がチビチビと飲む。カウンターを挟んで正面に俺も座って、ビールを飲み込んだ。
「で、何の用だよ」
「飲みに来たんです」
「場違いだろうが。店間違ったくらい浮いてたぞ」
最初は、な。一時間もおっさん達と飲んでたら、いつの間にかこいつは馴染んだ。馴染めるようになったんだ。
その間にも常連な客が来て野瀬に驚いて、三十分くらい飲んで食べて梯子しにいく。そいつらとも野瀬は楽しそうにしていた。
「けっこう、人くるんですね」
「ん? あぁ、まぁな。殆ど近所の常連だ」
「……人がまったく来ないなら、俺の店とか誘ったのに。これじゃ、誘えません」
「…………」
なるほど、閑古鳥が鳴いてりゃ手元にと思ったのか。だがおあいにく様、これでもそれなりに売り上げはある。派手な事はしないが、地道に毎日頑張ってるわけよ。
「畑さんの人タラシ」
「人聞きの悪い言い方するなや」
拗ねたガキみたいな事を言う。溜息をついて切り返す俺はビールを飲み込んで、奥へと行って戻ってきた。手にはあの封筒だ。
「ほい、忘れ物。ドアの修理費だけ貰ったからな」
「全部あげます。そのつもりで置いていきました」
「貰えるかよ、こんな大金」
「……今日の売り上げ」
「売り上げてねーのにんな大金貰えるか! 実績伴う金しか受け取れない!」
「じゃあ、その分食います」
「おーい、現実見ろ? 無理だろ?」
こいつ、滅茶苦茶な事を言うようになったな。
「……」
封筒の中はまだぎっちり札束。でもこのままじゃ野瀬も引き下がらない。本当に面倒くさい頑固野郎だ。
考えて、俺はあいつの前で中から二万だけ抜き取り、暖簾を下ろして鍵をかけた。そしてどっかりとアイツの前に座って、日本酒の瓶を置いて残った料理を盛り付けた。
「お前の金で俺も食わせて貰う。お代は貰ったから、後は返す」
「いや、でも……」
「これ以上は譲らん! いいから食え、飲め」
空のグラスに酒を注いで、俺も飲む。野瀬は黙ってそれを受け取って飲み込んで、料理を口に運んだ。
野瀬は口数少なく飲んだ。そうして少し酔いが回る頃、俺をジトリと睨んだ。
「どうして畑さんは俺をなじらないんだ」
「あ?」
そりゃ一体、どういう意味だっての。訳が分からん。大体、俺はこいつを恨んでないし憎んでもいない。それでなじれって、どういう意味だ。それともこいつは俺を女王様かなんかと間違ってるのか。
「俺のせいで、人生棒に振ってるじゃないか。昔はいいスーツ着て、舎弟何人も連れて、若頭やオヤジと一緒にやってたのに」
確かに、そんな時代もあった。学のない俺だったが、オヤジ達は気に入って良くしてくれた。曰く、「お前は人当たりが良くて面倒見がいい」とのこと。将来は幹部の端っこくらいには置こうか、なんて酒の席の冗談もあった。
でも、今にして思えば俺にはそんな器はない。過剰評価だと思っている。もしくは冗談だ。
「そっちが幻影だろう」
「……俺も、畑さんはもっと上に行けると思ってた。腕っ節も強くて、面倒見がよくて、器用で」
「はいはい、お前酔ってるから」
「俺が、殴り殺したんすよ。シマに入ってきたチンピラに加減できなくて、止まんなくて……本当なら俺が」
「止めろよ、済んだ話は」
ちびりと飲む俺の前で、野瀬はだらしなくカウンターに伏せている。眠いんじゃない、愚痴り顔を見せたくないというこいつのプライドみたいなもんだ。愚痴ってる事に変わりないってのに。
「アンタが行くまで手を出すなって、言われてたのに。安い挑発に乗った挙句」
「事故でもあるって。殴って倒れて打った所が悪かった。三流シナリオみたいなオチだろ」
「それでもアンタが尻拭いして捕まる必要はなかっただろ!」
ドンとカウンターを叩く拳。ガタンと揺れた食器。それでも野瀬は顔を上げない。
「もっと下がいたでしょうよ……」
「現場を知ってる方が辻褄合わせやすい」
「……俺の親父が何かしました?」
「若頭はなんもしてねぇよ」
「マジか……俺、何かしたと思ってぶん殴った」
「おま! 命知らずか!」
「ボッコボコにされて部屋にぶち込まれました」
カラカラと自棄クソに笑う野瀬に、俺は「笑えねぇ……」と呆れる。ここの親子喧嘩は一般家庭のそれとは違うだろう。見たかねぇ。
野瀬のコップに酒を注ぎ足す。それに気づいて僅かに顔を上げた野瀬の頬は上気していて、目は僅かにトロッとしている。匂い立つような色気ってものは男にもあって、おそらく今のこいつがそれなんだと感じた。
「……沙也佳さんとも、別れたんですよね」
「…………あぁ」
その名は、正直まだ少し痛い部分だった。
俺には、妻と呼べる相手がいた。内縁で、籍は入れてないが二十代で一緒になって、娘もいた。お互いちょっと世間からはみ出して、知り合って、意気投合した仲だった。
ガチャガチャした女性だったが、結婚したら不思議と落ち着いて、娘ができたら母親になった。それを、俺は不思議に思って見ていたんだ。
でも、捕まるって時に持ってる金を全部渡して別れた。冷静に、考えちまった。職業だけで苦労かけてるのに、更に前科持ち。そんな俺についてきて、この後沙也佳も娘も幸せになれるのかって。事件で逆恨みした奴が襲うかもしれない。事件を嗅ぎつけたマスコミとかが騒ぐかもしれない。そう考えたら「待っててくれ」なんて、言えなかった。
俺から別れを告げた時、沙也佳はグッと拳を握って……凄く時間を掛けて頷いた。でもあの目は、俺を恨んだみたいに鋭かった。
『ヘタレ』と、出て行く俺の背中に呟かれた言葉。俺はそれに、返す事ができなかった。
「……やっぱこの金、置いていきます」
「あ?」
「ってか、足りないんでこっちも置いて行きます」
懐からまた新しい封筒。厚みからいって昨日と同額くらいある。
「いらねぇ」
「何でです。俺のせいで貴方、十年棒に振ったでしょ。大事なもの全部手放して、残ったのがこの店って」
「バカにするのかよ」
「……俺、ずっと後悔してたんだよ。なんで兄貴ばっか……」
クシャリと握られた封筒。「クソ」と呟く野瀬の声。澄ました仮面が剥がれたこいつは、けっこう知ってる顔をする。
「別に、十年棒に振ったなんて思ってねぇよ」
「……え?」
俺の言葉を信じてないのか、野瀬は訝しげに眉を寄せる。でも俺は本心から、そう言えるのだ。
「両親と折り合い悪くて高校中退した俺は、学がない。器用にしてたって、金を稼ぐ知恵はない」
今のヤクザは金が稼げなきゃ成り立たない。弱い奴を狙った犯罪も横行しているが、うちの組はそれを嫌う。言えない事もあるだろうが、真っ当にも稼いでるはずだ。
でも俺は古いタイプで、知恵はない。今の時代から置いて行かれている。そう、最近はひしひしと感じる。
「ムショにいる間、けっこう勉強した。今の高校生って、随分難しい勉強してんのな」
「え? いや……」
「それに、更生プログラムで手に職つけられるようにって、色々やった。お陰で調理師の免許も取れて、今はこうしていられる。出てきて二年、細々とだけど生活して、ガクさん達みたいな知り合いも出来た。そんな、悪くなかったよ」
手放したものは多かった。でも、新しく手にしたものも多い。だから、棒になんて振ってはいない。無理してしがみつくよりも、今の気ままな生活の方が俺には合っていると思うんだ。
野瀬は納得していない顔をしている。でも、目の前の焼き鳥にかぶりついて、一言「うま」と呟いた。
「……俺、また来てもいいですか?」
「まぁ、客としてなら。あっ、高いスーツ着てくるなよ」
「仕事上がりなんでそれは無理」
こいつ、仕事上がりかよ……。
「……貴方の邪魔、しませんから。今の生活怖そうとか、秘密をばらそうとか、しませんから。だからもう少し、いてもいいですか?」
泣きそうな声と顔で言われたら、俺はどうすりゃいいわけよ。ダメって言ったらお前、そのツラどうなんの。
結局は絆されるんだろうと思う。強引に来られると流される。甘っちょろくて、お手軽で。特に昔の知り合いとか、関わりたくないと思っていたのにいざこうなると懐かしくて……ちょっと可愛くもあって、許してしまうんだ。
「約束、守れよ」
「はい」
「あと、バカみたいな金置いてくのやめてくれ」
「融資ってことで」
「無利子無担保無制限無期限なんて、お前の商売じゃないだろうが」
そして返そうとすると受け取らないんだ。そういうのは融資って言わないで、譲渡っていうんだぞ。
野瀬はクツクツと笑って、だらしなくカウンターに潰れる。このまま寝てしまいそうなこいつの肩を、俺は慌てて叩いた。
「おい、起きろよ! 俺じゃお前を運べないっての」
「ここでいいです」
「いいわけあるか! 連絡先!」
「ここで寝ます」
「頼むから人の話を聞けっての……スマホ!」
「捨てました」
「バカか!!」
どうしても出す気はないようだ。
溜息一つ。俺はカウンターから出て野瀬の脇に腕を入れて担ぎ上げる。正直運動不足な四十代には腰にくる。が、まだ意識のあるうちじゃないとどうにもならない。幸い明日は定休日だ。
担いでどうにか狭い急階段を登って、布団に転がす。高そうなジャケットは脱がせて、ネクタイは緩めて。
背中を少し丸めて眠そうにするこいつは……ちょっと幼く見えた。
「ったく、なんなんだよ……」
刺激なんてない、お決まりな毎日。繰り返すだけの日常。の、はずだったのに。野瀬の出現ですっかりしっちゃかめっちゃかで調子は狂う。
でも、なんでだろうな? 懐かしくて、ほんの少し楽しい俺も確かにいるんだよ。
寝息が整ってきたのを見て、俺は後片付けに下に降りていった。
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