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第4話

 野瀬がこなくなって、また二週間くらいが経った。  町内会長は警察に相談はしたが、あの夜以降奴らが現れないから現状放置。それどころか、この界隈でみかじめ料を取ろうという輩はいなくなった。結局全体の被害は他店でワインが数本、グラスがいくつか、椅子が数脚。そして俺のスマホと現金二万円だけだった。  野瀬が手を回したとしか思えない。でも、そのわりには静かだ。オヤジがもみ消したにしても、あんまりにも何もない。  昼起きて、俺はずっとスマホを見ている。野瀬の番号は知らないが、オヤジの番号はしっかり残っている。「何かあったら連絡しろ」と言われ、保険みたいに残していたやつだ。  気になって仕事にならない。どうにも気持ちが悪い。  考えて、俺は番号をタップした。考えたって答えなんてでないなら、そしてうやむやに出来ないなら、早めに確かめる方がいいんだろう。  それでも、五回コールで出なかったらやめよう。そのくらいにはヘタレだ。  だが、三コールで相手は出てしまった。 『おう、久しぶりだな畑』 「ご無沙汰してます、オヤジ」  電話の向こうの声は相変わらず元気そうで、落ち着いているのに気力に溢れている。俺の方が余程よれよれだ。 『なんだ、戻ってきたくなったか?』 「まさか。現役離れて何年になると思ってるんですか。四十も過ぎてやれませんよ」 『育てて欲しい奴もいるんだがな』 「勘弁して下さいって」  お互いに前置きにとこんな会話をする。でもこれ、いつ切っていいんだ? そしてオヤジ、案外本気っぽいのが怖い。 『で、京一の事か?』 「…………はい」  頃合いを見て、オヤジから声がかかった。ってことはやっぱり何かやらかしたんだろう。俺は自然と背筋を伸ばしていた。 「あいつ、どうしてます?」 『自分の仕事してるよ』 「……俺がボコられて、あいつ相手の組になんかしてませんか?」  言いづらい。が、言わないと意味がない。俺の問いかけに、オヤジは溜息をついた。 『心配すんな』 「それじゃ心配でしょ。あいつ、しつこかったのにあれ以来来てないんすよ」 『あぁ。実はな、お前をボコったのは最近ウチの傘下に入った奴らなんだ』 「はぁ?」  申し訳なさそうなオヤジの言葉に、俺は思わず素っ頓狂な声を出す。  だが、少し冷静になれば分かる事だ。この家は元々、オヤジの叔父さんって人が一人で切り盛りしていた店だった。そういうのって普通は、自分のシマに置くだろう。他のシマで商売するとなれば結構面倒だし。 「え、じゃあ……」 『野瀬がシメたが、内輪の話だからな』 「あいつらの上の奴はなんて?」 『指示はしてない』 「なんだそれ」  随分いい加減な解答だ。多分だが、好きにさせてたんだろう。下っ端が金欲しさに勝手にやった。だが上手くいくなら上前はねるつもり満々だ。  オヤジもそれを感じているんだろう。苦い声だった。 「殺ってませんよね?」 『その辺は心配するな。病院送りだが、喚くだけの元気はある』 「そう、ですか」  やっぱり、大人になったんだろうな。  でも、それならどうして顔を出さないんだ。  思って、俺はなんとも言えない気持ち悪さに胸焼けする。顔を、見たいと思っている。迷惑だとか言ってたのに。 『……京一な、お前をずっと待ってたんだぞ』 「……」  そんなの、分かってる。あいつがきて、分かった。 『お前がしょっ引かれて、荒れてな。プライドの高い奴が泣いて喚いて当たり散らして。ありゃ、見苦しいな』 「……っ」  そういう無様を、見せたくない奴だった。弱さとかを見せたくない奴がそんなに荒れるほど、俺に価値なんてあったのかよ。ただ面倒を見ただけだってのに。 『お前が帰ってきたら自分の所にちゃんとポジション作って、償いをしたいって言って頑張っててな。ガキみたいに、楽しみにしてたみたいだ』 「俺にそんな価値ないですよ。よれたおっさんですよ、今」 『言ってたな。小汚くなってたって』 「失礼な奴だな。まぁ、否定もしませんがね」 『それでも、中身は昔のままだってよ。世話焼きで、厄介事は全部自分で引き受けて、押しに弱くて、甘っちょろくて』 「あいつ!」 『迷惑なのに、捨てずにいてくれたってよ』 「っ!」  違う、俺がちゃんとしてないだけなんだ。俺の事を、お前の事を、棲み分けを考えたら俺は切らなきゃいけなかったのに、懐かしかったり、慕われるのが心地よかったりして、アイツが言わないのをいいことにズルズル関係続けたんだ。 『なぁ、畑よぉ』 「……はい」 『お前は過去を切ったつもりだろうがよ、過去ってのは完全には切れねぇもんなんだよ。お前が切っても、相手が切りたくないと思って捕まえたら、逃げらんねぇんだよ』 「……はい」 『でもな、そうして残ったものは大事なんじゃないのか?』 「っ」 『薄情な世の中だ。義理も人情も時代遅れな世の中さ。それでもな、本物もある。京一が必死になって掴んだお前との縁を、少しは信じて繋いでやってはくれねぇか? こっちに戻れなんて言わないからよぉ』 「……っ! でも俺、アイツの連絡先知らないんすよ。頻繁に会ってたはずなのに、俺はアイツがどこで仕事してて、どこに住んでるのかも知らないんです。俺は……」  あいつを、捕まえていなかった。  この年でする後悔ってのは、でかい。取り戻す時間が若い時に比べて少ない。しかもじじぃになると頭が硬くて頑固で、動き出しが鈍い。俺は掴みたくても、尻尾すら掴めないんだ。 『それなら、多分大丈夫だろう。そろそろ周囲が何かやるころだろうし』 「はぁ?」  何を意味しているのか分からない。俺が声を上げた時、下でチャイムの音がした。 「あっ、すいません。誰か来たみたいで」 『あぁ。本当に困ったらまた連絡しろ』 「すいません、抜けたのに」 『なに、気にするな。お前は今でも俺達のお気に入りだ』  笑って言ってくれる、オヤジの気持ちが嬉しかった。  尚も鳴るチャイムは野瀬が押しかけてきた時の事を思い出す。下に降りてドアを覗くと、デジャヴかって奴がキッチリと立っていた。そして多分、あいつの関係者だ。  細くて背の高い男は長い黒髪を真っ直ぐ下ろし、手には白い手袋を嵌め、その手に何やらお菓子っぽい箱を持っている。色が白く面長で、鼻筋が通った狐目の男はのぞき穴をジッと見ている。 「畑智則さんですね? 野瀬京一のお使いで参りました、羽鳥凌と申します」  腰からきっちり会釈をする相手は、やぱり堅気ではない。だが俺はもう、拒むつもりはなかった。  ドアを開けると、男は思ったよりも背が高い。野瀬と変わらないだろう。 「あぁ、良かったご在宅で。少しお時間を頂きたいのですが」 「あぁ、構わない。上がってくれ」 「お邪魔致します。あぁ、こちらお口に合えば良いのですが」  差し出されたお菓子の箱はお高いデパ地下のシュークリーム。今の俺には高級品だ。 「あっ、上げ底とかないのでご安心を」 「んな心配してねーよ!」  野瀬か! アイツならやるな! 結局何だかんだと大金を俺の家に忘れていくからな! アイツの忘れた現金二百万、預かりっぱなしだぞ! 「……あー、アイツの忘れ物引き取ってくれないか?」 「二百万ですか? 貴方に差し上げると言っておりましたし、予定では後……」 「後ってなんだ! いらねぇよ! 第一、こんな大金どう処理すんだよ! 確定申告が怖いぞ!」 「おや、税金対策が大変でしたらこちらで処理いたしましょうか?」 「俺は堅気になったの!」  こいつらことごとく俺の言うことを聞かないな!  羽鳥は面白そうに笑っている。多分こいつは性格悪い。この反応を楽しんで遊んでやがる。 「お困りでしたらお預かりいたします」 「あぁ、助かる」 「でも、綺麗なお金ですよ? もったいない」 「俺の店で小汚ぇ金使ったらぶん殴るぞ」 「おや、口の悪い。平気ですよ」  クスクス笑う羽鳥に、俺はドッと疲れた。  羽鳥を上に上げて、シュークリームを皿に乗せてお茶を出した。お茶って言ってもペットボトルだが。  それにしても、野瀬といいこいつといい、俺の部屋にマッチしないな。  羽鳥の正面に座った俺は早速、羽鳥に視線を向けた。 「野瀬は、その……元気か?」 「は? 気持ち悪い事を聞きますね。そんなに余所余所しい感じなんですか?」 「あぁ、いや……そう、だな」  こいつ、口悪くないか? というか、性格悪くないか? え、何かした俺? 記憶違いじゃなければ初対面なんだが。  だが、羽鳥は表情が崩れないままで俺に胡散臭い笑みを浮かべた。 「生きてますよ」 「え? あぁ、そりゃ」 「三十分に一回以上は溜息をつくウザい感じなんで、いっそ息の根止めてもらえないかと最近思い始めてはおりますが」 「え!」 「ウザいんですよね、辛気くさくて。それにあの方、面倒くさいんですよ。自分で『会わない』と枷を嵌めただけで、誰も『会いにくるな』とは言っていないのに律儀に頑固に守っていて。それで苦しんで不幸そうな顔をするのです。ね? 顔面はっ倒したくなるでしょ?」  すっごくいい笑顔で言いやがる。こいつ、ヤバい奴か?  でも……酷く胸が痛むのは俺が絆された甘ちゃんだからだろうか。これで「会いたい」なんて、どこの恋する純情乙女だ。そんなもの、とっくの昔に捨てたってのに。 「貴方に止められたのに、言いつけ守らず雑魚を半殺しにしたのを気に病んでいるんですよ。あぁ、違いますね。怒られるのが怖いガキ状態です。かっこ悪くてたまりません」 「さっき、オヤジに聞いた。そっちの傘下だったんだろ?」 「えぇ。シメたのも許可とっての事ですし、むこうのボスにも警告出しての事です。なので、これも仕事でした」 「それなら……」 「貴方との約束を破った。あの人にとってそれは、何よりも怖い事なんでしょうね。その結果、貴方が身代わりに捕まったので」  ズキリと胸が痛む。そんなに、あれはアイツのトラウマなのか。  あの日、他所の奴らが入り込んで好き勝手をしていると連絡を貰った。俺はその時違うトラブルに対応していて、手が空いている野瀬に出て貰った。様子を見ろと、指示をした。  が、俺が急いで処理して行った時、その場に立っていたのは野瀬だけ。複数いた奴らは全員地面に転がって、そのうちの一人が死んでいた。  状況はすぐに分かった。面倒見切れなかった俺の責任だ。この時あいつはまだ若くて将来は約束されている。経歴に傷を付けるわけにはいかない。そう、思って動いた。  アイツは、あの出来事をどれだけ後悔していたんだ。俺が、アイツを傷つけたのか。 「野瀬に、会いたいんだが」 「おや、話が早い。そのつもりでお話をさせてもらっています」 「じゃあ」 「あっ、でもちゃんと場所を整えてが宜しいので、明日。定休日ですよね?」 「あぁ」  場所を整える? どこか店に呼び出すってことか。確かにここに呼んだところで来ないだろう。それなら誰とは言わずに店で待ち合わせの方が上手くいく。羽鳥は参謀でその辺の調整もしているだろうから、仕事っぽい感じで自然にやれるだろう。 「じゃあ、それで」 「畏まりました」  丁寧に頭を下げた羽鳥は用事は済んだとばかりに立ち上がる。そしてさっさと帰っていった。残されたのは痕跡のみ。一瞬封筒が置かれていないかと警戒したが、それはなかった。 ==========  その日の営業を終えて無事に暖簾を降ろす。明日は定休日で、野瀬に会いに行く。仕込みもないからゆっくりと寝られると表の鍵を掛けた時、背後に一台の車が止まった。  黒塗りスモークのフーガ。あまりにいかつい。少なくとも近くに駐車とかしたくない車だ。  そこからやっぱり黒塗りの羽鳥が降りてきて、キッチリと腰を折った。 「お迎えに上がりました、畑さん」 「え? いや、明日……」 「明日、ですよ」  確かに日付変更線を跨いだ。明日だ……けど。 「さぁ、参りましょう」 「いや、今店閉めた所で……」 「閉めたのならば大丈夫ですよ。何せやる事が沢山で、本当であれば二ヶ月ほど時間が欲しいくらいですし」 「二ヶ月! 一体何をする気なんだ!」  何用の二ヶ月だよ! え? 教育とかされるわけ? ってか、今から何をするつもりなんだこいつ!  そうこうしている間に黒服が二人降りてきて俺の両脇を抱える。あれよあれよという間に俺は車の中だ。 「あっ、でもまだ火の点検とか」 「鍵、これですね?」 「……あぁ」 「頼む」 「はい」  黒服が一人、店の鍵を持って降りて店の中へと入っていくのを、俺は呆然と見た。 「戸締まりと火の点検、ついでに留守番もさせるのでご安心を」 「いや、ご安心をって……」 「出せ」 「はい」 「ちょっと!!」  走り出すフーガ、遠ざかる俺の店。俺が手を伸ばしても戻れない。俺はそのまま訳も分からず拉致られたのだった。  その後、俺は裸に剥かれてとにかく全身磨かれた。採寸され、整体でゴキゴキ体を伸ばされ、サウナに、オイルエステ。フェイシャルエステ、ネイル、散髪までされて体中ピッカピカにされた後で何やら水を飲まされたが……まさかの下剤飲まされて、更にその後で腸内洗浄までされるとは。  そうして現在午後三時。仕立てられたスーツを着せられた俺は別人状態だった。 「元々の素材は良かったのですね。安心いたしました」 「お前なぁ……」  鏡の中のそいつ誰? と、俺は真顔で言いたい。  丸まっていた背中が伸びて身長が少し伸びた。髪は短く綺麗にカットされて耳が見えるくらいスッキリ。フェイシャルエステで下がっていた頬の辺りは引き締まって肉が上がった。むくみまで取れたから目も大きい。腹の中も綺麗になって、なんだか気分もスッキリだ。 「背中は丸まっていましたが、腹は出ていなかったようですし」 「健康を考えてそれなりに柔軟と筋トレはしてたんだよ」 「それを聞いて安心しました。後でスポーツジムの年間パスお渡しいたしますね」 「行く暇が……」 「体を錆び付かせてはいけませんよ」  にっこり笑って言う羽鳥がいっそ怖い。多分拒むと今日みたいな事になるんだろう。 「スーツまで仕立てたのかよ」 「フルオーダーは無理でしたので、仕立てを直した感じです。お似合いですよ」  スリーピースのダークブラウン、裏地はオシャレにチェック。中は白シャツで、ネクタイはやっぱりブラウン系で纏められた。ピンもつけられ、明らかに俺じゃない。更には放置状態だったピアスまで付けられている。赤い小さな一つ石だ。 「昔みてー」 「だらしない生活をやめれば、今頃このような状態だと思いますが」 「気楽な独身生活だぞ。俺はそんなストイックじゃねぇよ」 「残念です。数時間前の貴方は非モテでしょうが、今の貴方なら女が寄ってきますよ」 「それも面倒なんだよ」  俺の言いように、羽鳥は今度こそ諦めて溜息をついた。 「店までお送りいたします。うちの持っているバーですので、お代はお気になさらず」 「はいよ」 「……面倒な上司ですが、一途でもあるのです。貴方に置いて行かれたと知った時には酷く傷ついた顔をしていました」 「…………」 「よろしく、お願いします」  頭を下げられた俺は、整髪料の匂いのする頭をかく。そして黙って、送迎の車に乗り込んだ。 ==========  到着したバーはオシャレで、かつ高そうだ。まさに大人の社交場。  車を降りて中に入るとまず足音がしない。毛足の長い絨毯が音を吸収している。 「いらっしゃいませ」  程よく暗い店内のオープンスペース。出迎える黒服の店員に名前を告げるととても丁寧にお辞儀をされ、店の奥へと案内される。どうやらオープンスペースの奥は個室になっているようで、そこへ続く通路には店員が立っていた。  普段の俺ならきっと浮いていた。けれど今の俺はこの空間にも馴染んでいる。背を真っ直ぐに正して進んだその先、「VIP」と書かれた扉の前で店員は止まり、ドアをノックした。 「お客様がお見えです」 「入ってもらえ」  知っている声よりも少し低く、硬く、元気がない。  店員が俺に道を譲り、俺はドアを押し開けた。  中はそれほど大きくはないが、上等な革張りのソファーセットに調度品がある。そこの一つに座っていた野瀬が俺を見て目を丸くして思わず立ち上がり、ドアとは違う方向に逃げようとした。おいおい、そっちに何があるんだ。 「逃げんな野瀬!」 「!」  俺の声にビクリと震えて足を止めた野瀬の顔は僅かに赤い。そしてそれ以上にアワアワしている。悪戯のバレたガキじゃないんだ、落ち着けっての。 「まずは座れ」  声を抑えた俺が伝えると、野瀬はろそろと控えめに座るが……プルプルしている。  なにこいつ、怒られるとか思ってるわけ? ってか、怒られ待ちにしてもその反応は子供だろう。今時小学校高学年でもこんな待てしないっての。  ザワザワする。野瀬は十分大人で、決して可愛いとは言えないのに、今の俺には可愛く映る。そう見えている事がそもそもヤバい気がして踏みとどまるよう警報が鳴っている。こいつは元舎弟で、今は…………今は?  俺とこいつの今の関係は、なんだ? 知人? 常連客? 昔馴染み? どれもしっくりこないのは、どうしてなんだ? 「畑さん?」 「ん? あぁ……」  待てに耐えきれなくなった野瀬が声をかけてくる。俺はそれに答えて、正面のソファーに座った。 「ご注文は?」 「今はいい。後で」 「畏まりました」  一礼して去って行く店員。こういう時の声はボスっぽい。表情も締まる。にもかかわらず、二人になった途端にへにょっとするな! 「あの……怒ってますか?」 「はぁ? 何に怒るってんだ」 「あの……貴方の言いつけを破って雑魚を半殺しにしたので」  あいつら、二万円の代償が半殺しかよ。随分高く付いたな。  目の前の野瀬は肩も落としている。俺はそんなこいつを、怒ることなんてできやしなかった。 「怒らないよ。第一、オヤジからの仕事だろ」 「知ってたんですか?」 「お前がどうしてるか気になって、ちょっとな」  心配になったと、言わずに伝えた。伝わった野瀬は途端に恥ずかしそうな顔をした。なんだよそれ。 「……俺に怒られるのが怖くて、店に顔出さなくなったのか?」  聞くと、野瀬は黙って頷く。俺はと言えば「マジか……」という感じだった。 「あのなぁ!」 「だって、貴方に怒られるのが一番キツいんですよ」  そう言って、野瀬は俯いてしまった。 「貴方の言う事を聞いて様子見だけをしていたら。挑発になんて乗らなかったら。冷静で、いられたら……」 「お前、いつまで過ぎた事言ってやがる」 「俺の中じゃ、過ぎてないんですよ。あの日のあの後悔の中にずっといるんです」  辛そうな声音は、まんまなんだろう。俺は八年償って、出所して、第二の人生歩み始めて。そういう区切りもあったけれどこいつは、ただただ反省待ちしたまま「許す」も「許さない」もないまま今まできてしまったのかもしれない。  俺が、悪いんだろうな……。 「野瀬」 「はい」 「あ…………もう、いい。許すし、恨んでない。だから、その……ただいま」 「! あっ……おかえり、なさい」  驚いたように目を丸くしたこいつの「おかえりなさい」は、泣き笑いみたいだった。  酒と、適当に食いものが運ばれてきて、昔よりは多少上品に飲んだ。俺は昔と同じくブル・ドッグで、野瀬はルシアン。カプレーゼ、アンチョビパスタ、マルゲリータ、ナッツ、オシャレな料理も食べながら俺達は色々話した。半同居みたいに入り浸っていた時代の話、その頃にやったバカに、離れてからの話。懐かしいばかりの青春とその少し先。  野瀬はまるであの頃のままで、酒を片手に饒舌になっている。多分酔いが回ってきたんだろう、こいつは話したがりで少し甘えてくる。俺は、それをいつも受け止めていた。  家が家だ、甘えなんて知らなかったんだろう。一緒に飲んでいるときこいつはよく「畑さん、優しい」と体重を預けてきた。大型犬に懐かれたみたいで、くすぐったかったっけ。  気づけば二人でいるには十分なスペースがあるのに、俺達は隣り合って近い距離で飲んでいた。 「俺、畑さんに憧れてたんですよ」  どこかぼんやりとした声で、野瀬は突然そんな事を言う。俺はというと、それが少しくすぐったかったりする。 「憧れる所あったか?」 「ありますよ。俺、本当に惚れてたんで」 「惚れるって……」 「あっ、嘘だと思ってますね? 俺の腰に、鷹の彫り物あるの覚えてます?」 「ん? あぁ」  確かに、野瀬の腰の右側には鷹の刺青がある。もう時代にも合わなくなってきたし、無理に入れる必要はないと俺も若頭も言ったが、こいつは頑固に入れると言った。  丁寧な和彫りで、時間もかけて、墨の一色だが深くて細かいいいものができた。広げた羽根を僅かに畳みつつ鋭い足で獲物を捕らえる寸前の鷹は、こいつみたいだと思った。 「あれ、畑さんが俺に似合うって言ったから、鷹にしたんです」 「はぁ?」 「場所も、一緒がよくて」 「おいおい」  確かに俺も同じ位置に彫り物がある。ただ、柄は金魚と蓮だ。金魚はこれでも「財」に纏わる縁起物で、「蓄財」や「富」の意味を持つ。黒一色で入れた蓮の下を、赤と黒の金魚が泳ぐ。黒は邪気払いだ。  けど、まさかペアルック感覚で墨入れたとは知らなかった。 「だから、何かがっかりしたんですよ」 「あ?」 「会いに行った日。俺、凄くドキドキしてたのに。出てきたのがヨレヨレの小汚いおっさんで、一瞬人違いかと思いました」 「おもくそ失礼だな!」  まぁ、否定もしないんだが。  野瀬は楽しそうに小さく声を上げて笑う。思いだしたのか、俺をトロッとした目で見上げながら、随分上機嫌で。 「待ちわびた分、美化上乗せしてたんでしょうね」 「悪かったって」 「……でも、安心しました」 「は?」 「俺、今の貴方には変な気起こさないだろうなって、確信できて」  俺は、ドキリとした。  「安心した」と言いながら、そのくせ野瀬は残念そうな顔をする。その意味はなんだ。本当に安心したなら、もっとそれっぽい顔をすればいいだろうに。 「俺、不安だったんですよ。再会して、昔のままの貴方が出てきたらきっと、好きになるんじゃないかって」 「お前、そっちの人間だったか?」 「女性ですね」 「俺が安心したわ」 「でも、別に恋とかしてたわけじゃなくて、なんとなく流れとかが多かったから。その可能性も、否定しきれなくなってましてね。憧れ拗らせた挙句惚れるって、逃げ道ないじゃないですか。マジで、震えてたんです」  手にしたグラスの中で、カランと氷が揺れる。俺は野瀬の横顔を見つめたまま動けなくて、俺の方なんか見ないで手の中のグラスに視線を落とすこいつの苦笑を凝視していた。 「それで出てきたのが、無精髭に髪伸びっぱなしで猫背の貴方でしょ? ないなって思ったら、気が楽になりました」 「俺、そんなに汚かったか?」 「少なくとも抱きたいとは思わないレベルで」 「そりゃ幸いだわ」 「……でも、やっぱり畑さんは畑さんで」 「ん?」 「俺の事叱ったり、遠慮なかったり」 「あー」 「気に掛けてくれて。そういう時間が心地よくて、たまらなくくすぐったくて。二度、惚れました」 「お前、大丈夫か?」 「ダメかもしれませんね」  言いながら、また楽しそうにクツクツ笑う。俺はそんなこいつの事を突き放す気持ちはなくて、でも受け入れてやるほどの度量と覚悟もなくて、ただただ扱いに困っている。  空いたグラスを見つめて、野瀬はまた同じ物を頼む。俺のもついでに。そうして届いたものをまた、チビチビと飲んでいる。 「正直自分でも驚くんですよ。これでも女性はグラマラスな人ばかりだったのに」 「おっさんだぞ」 「枯れてますね」 「失礼な奴」 「事実ですし」  確かに、事実だな。 「思えばあの当時、貴方には沙也佳さんがいて、俺はそこにお邪魔していて、入り込む隙なんて出会った時からなかったから、こういうの気づかなかったんでしょうね」 「いなかったらどうするつもりだったんだよ」 「ぶち犯す」 「鬼畜!」 「あっ、ははっ。まぁ、それは冗談ですけど、多分気づけたんじゃないですかね。憧れなんてキラキラした青臭い気持ちとは少し、違うんだって」  俺、奥さんいて正解だったわ。今更になってそう思ってしまう。  実際、俺だって相手は女性だ。妻と呼べるくらいの人がいて、娘もいるんだからそうだろう。事実、男相手に妙な気分になったことはない。少なくとも、今までは。 「今の枯れ畑さんとなら、俺はこの妙な気持ちを気のせいにして、新しく先輩と後輩か、常連の一人としてやってける。そう、思っていたんですけれど……」  グラスから俺に、視線が移る。その濡れた哀しそうな顔、こいつは自覚あるんだろうか。泣く一歩手前みたいな寂しそうな目は、俺に何を訴えているんだ。 「……次、行きませんか?」 「え?」 「美味い蕎麦の店、知ってます。日本酒も」 「おぉ。でも、足……」 「歩いて行ける距離ですし、帰りはうちの者に送らせるかタクシー使います。もう少し、付き合ってください」 「まぁ、それなら……」  時間はまだ十時前だし、正直美味い蕎麦は食いたい。飲み直すのも悪くない。  俺はその誘いに乗って上着と持つと、意外にもしっかり歩く野瀬の背を追いかけた。

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