95 / 114
番外編 悪夢の始まり
公私共に過ごすようになって三年目に突入した。医師免許も無事に取得した。
当初の予定通り、前期、後期臨床研修医では、目標が決まっていたので、奥山の元、外科医を目指して、特に心臓循環器を中心に、最初から他を目もくれず学んでいた。
奥山も大学の講師を最低限に抑えて、病院に入るようになっていた。こんなオレが、奥山目当てに大学に入ったことと同様に、その道では有名な医者で、繊細な手術の成功例をたくさん出していた。その噂が広まり、奥山目当てに遠方から外来に訪れる患者も少なくない。
「高宮、次のオペの患者 のカルテに目を通しておいてくれ。来週、執刀するんだが、おまえ、俺の補佐に入れ。」
突然の大役に目を丸くしながらも、
「わかりました。」
とカルテを受け取る。カルテの名前、住所、年齢を見て、オレは目を見開き、呼吸を忘れた。
岩切真也……27歳……胸部大動脈瘤
現住所……………
躰がガタガタと震え出した。呼吸をしてない上に、一気に血の気が下がりチアノーゼを起こしていた。
「……?おい、高宮?……どうした?」
倒れる寸前の、その様子に気付いた奥山が、目の前に立つが、呼吸も、瞬きもしないオレには、その存在にも気付けず、カルテを見つめたまま、何も答えることが出来ない。
返事をするどころか、意識が遠のく。
頬を軽く叩いても、硬直した身体は動かない。かなりの強さで背中を叩かれて、やっと、呼吸を取り戻した。
「…かはっ…ゲホ、ゲホ…」
倒れかけた躰を支えられながら、急激に肺に空気が入った所為でむせかえってしまった。ハァハァと息を切らせて、呼吸をしていくうちに、唇の色は回復したようだ。その冷たさが温かみを帯びていく。
「……PTSDか?それにしても、名前を見ただけで過呼吸と貧血になるほどとは、相当だな。放置してたらおまえ、心肺停止で死んでたぞ?
……この患者……おまえと同い年か。なにかある相手か?」
本当にこの人はストレートだ。
「……同じ高校の……やつ。」
「……お前を裏切った奴らのどれかか?」
「……コイツが筆頭だった……高校で、最初に出来た友達のはず……だった男……」
徹が最期に敬吾に頼んだ書類の存在を知ったのは、敬吾との関係をもってから、半年も経過した頃だった。そこには生徒の名は記されていなかった。
その書類の内容を見て、ほぼ、すべての過去がバレていることは、オレも承知しているが、親兄弟はともかく、遠く暮らす田舎とは、すでに、決別しているつもりだった。
けれど、また、こうやって、目の前に現れるとなると、躰が拒否反応を起こす。
ちゃんと話さなくては、と、口をパクパクさせているオレを見て、奥山は怪訝な顔をしているが、すぐには話し出すことが出来ない。
「とりあえず、座って落ち着け。何か言いたいんだろ?でも、話はうちに帰ってからでいいよ。誰が、いつ出入りするかわからないような場所で話したくもないだろう?」
医局の中にあるソファに座らされ、正面に屈んで手を握られた。奥山の専門は外科だが、こういう時に、やはり、本当に医者なのだと思い知らされる。
軽い心理学も、弁えている。特に鬱になった時に、培わせてしまったものなのだろう。
「日勤の終了まで、あと30分ってところか。おまえはそのままここで休んでろ。今、急に動いたら、逆に明日が辛くなるぞ。俺は残りの仕事を片付けてくるから、後のことは気にしなくていい。」
そう言って、医局をあとにした。オレは、カルテを片手にその内容に目を通しながら、約10年の時を経て、再会することになろうとは思いもしなかった。
一通り目を通して、目を瞑る。あの時のことを思い出さなければならないのかと思うと憂鬱ではあるが、一通りのことを知られている奥山を、パートナーに選んだのもオレ自身だ。いつかは、話さなくてはならないであろう内容には違いなかった。
下手に目を瞑っていた所為で、現実から逃げるように、うとうとし始め、ほぼ眠っていた。
再び、医局に奥山が戻ってきた時には、予定の30分をはるかに超えていた。
ともだちにシェアしよう!