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第1話
オレ、八城秋良は、一枚の紙切れを握りしめながら、ホテルの入り口で立ち尽くしていた。
目の前の、ぴかぴかに磨かれたガラスのドアが、重厚な鉄の扉のように見える。
あと四、五歩前に進めばドアは自動的に開く。分かっているのだけれど、なかなか踏み出すことができない。
さっきドアマンに声をかけられて、一人で大丈夫だと断ったばかりだ。それなのに、なかなか入ろうとしないオレを、ドアマンが警戒している。さっさと中に入らなければ、不審者として通報されてしまう。
自分を落ち着かせるために大きくため息をついて、握りしめていた紙切れをそっと開いた。
『今日の二十二時、オリエンタルホテルの三十六階一号室にて待つ』
とても達筆な文字だ。他には、ホテルの住所と電話番号が書かれている。
三十六階ということは最上階。きっとスイートルームだろう。星が幾つも付くことで有名なホテルのスイートルームなんて、一泊十万は下らない。
(修行中の身だろ。なんでこんなホテルにしたんだ。オレは半分だって払えないからな)
オレは、心の中で紙切れを渡してきた相手に文句を言った。
冬月恭哉は、高校時代からの恋人だ。卒業間近に告白されて付き合うようになり、かれこれ四年になる。けれど、実際に恋人らしい日々を過ごしたのは最初の二年だけだ。
冬月が二年前からフランスへパティシエの修行に行っているので、遠距離恋愛状態なのだ。
東京で開催される大会に出るため、急遽帰国したのが五日前。
しかし、やっと会えたのは明日フランスに戻るという今日の昼頃だった。恋人のオレに会いに来たというよりも、オレの店――正確には父が経営しているレストランに挨拶に来た。
冬月は修行から帰ってきたらうちの店で働くことになっているので、時間を見つけて挨拶に来たらしい。
帰国したのはパティシエの技を競うコンテストに参加するためで、冬月は三位を獲得したらしい。まだまだ修行が足りないと嘆いていたけれど、フランスやイタリア、ドイツなど並み居る強豪国と張り合って三位を取得したのは凄いことだ。
オレとはゆっくりと話をしている時間はなく、挨拶と報告を終えるとさっさと店を後にしてしまった。
別れ際、こっそり手渡されたのがこの紙切れである。
メールじゃなくてメモ紙でメッセージを渡してくれたのは、少し嬉しかった。少しでもオレとの接触を図ろうとしてくれている証拠だから。
こまめにメールやスカイプで連絡を取り合っているとはいえ、まともに会ったのは二年ぶりだ。
ホテルに呼ばれたということは、色々と期待をしている。まさか、こんな高級ホテルとは思わなかったけれど。
仕事の関係で夕飯は済ませていると連絡があった。
すぐにそういう雰囲気になっても良いように、準備はしてきた。期待しまくっている自分が恥ずかしく思えたけれど、二年ぶりなんだから仕方がない。
そう、二年ぶりなのだ。こんなところで悩んでいる時間はない。
オレは覚悟を決めて、ホテルの中に入った。エレベーターのボタンを押す手が震えてしまう。
エレベーターに乗り込んでから三十六階に付くのは一瞬だった。
毛足の長い絨毯が敷かれた廊下を足早に歩き、一番奥にある一号室の前で足を止めた。
一号室なのになんでエレベーターから一番遠いんだろうとか、広さの割に部屋の数が少ないとか、余計なことばかりが頭の中を駆け巡る。
(三十六階一号室……)
間違いがないことを何度も確認してから、チャイムを押した。
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