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びっちがヤクザの正体に気づくはなし
あの地獄のような悪夢から数日が経った。
心無しかまだ腰が痛む気がする。あれからも散々あいつの気が済むまで抱かれて、すぐ意識を飛ばした俺が次にみたのは翌日の夕日だった。
しかも、体は清められていたけれどあいつの姿はどこにもなく、ベッドサイドの机の上に諭吉が何枚か置かれていた。
これがどうして怒らないと言えようか。
「俺はデリヘルか」
大学からの帰り道、小さく呟いた愚痴は白い吐息とともに夜空へ消えて行った。
理系学部の俺のゼミはもちろん実験ばかり。俺はまだ大丈夫だけど、4年の先輩なんかは毎日死に物狂いで研究に勤しんでいる。
今日も、泊まり込みで何日も家に帰ってなさそうな先輩たちを尻目に早々と自分の研究を切り上げて帰ってきた。
「………」
1人になると、つい考えてしまう。
この前のアレは何だったのか、と。
気を失って会話ができないとしても、お金を置いて出て行くなんて非常識過ぎる。援交じゃないんだし、せめて書置きは残していくべきだ。
「…ハァ」
そこまで考えて、ふと思い直す。
…そういえば、寝てる間に勝手に襲いかかってきたんだった。
そう考えると、こちら側には何の非も無いじゃないか。
ふつふつと怒りが湧いてくる。
『いつか大変な目に遭うよ』
先日、悠に言われた言葉を思い出す。
警告通り、パパ活の相手探しなんて早く辞めておけばこんなことにならなかったのだろうか。
カンカンと錆びれた外階段を上がり2階へ向かう。
バッグの中から鍵を探そうとして下を向いていた視線の先に、古ぼけたアパートには似つかわしくない磨かれた革靴があった。
「よォ」
心地よいテノールボイスがやけによく聞こえた。
寒くて空気が澄んでいるからだろうか。しらん。
「…なんでここにいんの」
今1番会いたくなかった。
「この前、仕事から戻ってきたら消えてたからな。また会いに来た」
そう言って少し口角を上げた男の頬には朱が散っていた。
照れているわけではなさそう。
こいつ…
「…いつから居たの、ここに」
「さあな。ついさっきだろ」
なんてことないように言葉を躱す男にため息をついた。
バッグから鍵を取りだしてガチャリと回す。ドアを開けて男に向き直った。
「…入れば」
言っておくけどまだ怒っている。怒っているけど、ここで風邪でも引かれたら気分が悪いから入れてあげるだけ。それ以外に意味はない。
そんな俺の気持ちが伝わったのか、苦笑いをしながらドアをくぐった。
「男の一人暮らしの割には綺麗にしてんじゃねえか」
「お金が無いから、ものが少ないだけだよ」
ヒーターをつけて、部屋を温める。
急須で入れた日本茶を出すと、一口飲んで「あ゛〜うめぇ」とおっさんのような声を出した。
「…いや、ジジイか」
「オイ、なんか言ったか」
「別に。ていうか、それ飲んだら帰ってよ…京」
湯のみに口をつけながら、視線がちらりとこちらを向いた。
「へぇ、覚えてくれてたんだな」
「…パパ活相手の名前を覚えるのは常識だから」
あの日、お金を置いて部屋を出たのだからそういう意味で俺を抱いたのだろう。この際援交でもパパ活でもなんでもいい。
「これからパパとして会うなら、勝手に会いにこないで。てかなんで俺の家知ってるんだよ」
「いや、今日来たのはそういう目的じゃない。誤解しているだろうと思って…やっぱり案の定だったしな」
自分が何を誤解しているというのだろうか。
「あの日、お前を抱いたのはパパ活としてじゃない。お前のことは前から知っていたんだ。それからずっと…お前に触れてみたかった」
そう言って俺の頬に手を伸ばす京。
まだ冷たいその手を振り払うことは出来なかった。
「どういう事…?」
ずっと俺のことを見ていたということだろうか。それなら、何故、初対面のような振りを。
「後腐れない奴しか選んでいなかったからな、ユキは。だからそういう奴らの振りをしたんだ」
…ナチュラルに言っているけど、つまり俺を騙していたという事だ。顔が良いからそこに全部もっていかれそうになるが、落ち着け。こいつは顔がいいだけの性格ヤクザだ。
「仕事で部屋を出ないと行けなくなった時、お前が起きたら腹が減ると思ってな。あれは飯代のつもりだったんだ」
「…ご飯代で5万って」
価値観の違いがエベレスト級なんだが。
「とにかく、誤解させたんなら謝る。悪かった」
真顔で謝られると、こちらも許すしかない。一件落着ではないが、デリヘル扱いされてなかっただけマシだと思うことにする。
「…はぁ。分かったよ。犬に噛まれて忘れることにするから」
「犬…?」
ピクリと京の眉が動いた。
「え」
あ、やばい、なんかやらかしたわ。
よく分からないけど、本能的にそう感じた。
目の前の犬を刺激しないように、ゆっくりと立ち上がろうとすると、机の上に置いた手首を掴まれた。
「ヒッ」
「お前…俺の気持ち分かってて言ってんのか?」
「そ、そうだよ。京もわかってたじゃん、俺は後腐れない人間としか寝ないんだってば」
その鋭い視線が痛い。俺は何も悪くないのに、何だか悪いことをしている気分にさせられる。何だこれ。
でも目の前の怒り顔に向かってそんなこと言えるわけが無い。
「いや、だから、なんて言うか…」
「お前がパパ活してんのは金がねえからだろ。これからは俺がお前に関する全てをサポートする」
「え」
「食事も、洋服も、学費も、全て用意する。家も新しい家を用意するから引っ越せ」
「え、いやちょっと、」
急展開過ぎて頭ついていかないんだが。
おい、じりじり近寄んな。
「おい、逃げんな」
「え、ま、待って、」
でも、分かっている。京は、俺に猶予なんか与えてくれる男ではない。
「待っ…」
頬に添えられた手が首元に回り、そのままぐいっと引き寄せられた。
「んぅ……っ!」
慌てて引き離そうとするけど、びくともしない。俺の唇を塞いだ男は、俺を掻き抱くように強く抱き締めた。
その強さに怯んだ一瞬、視界が反転した。
「………!?!?」
何で京の後ろに天井が見えるんだ。
何で俺の頭を支えてるんだ。
何で俺の服に手を入れてるんだ。
「…ユキ」
何で、そんな目で俺を見るんだ。
その真っ直ぐな視線の裏に隠れた、ほの暗い炎。
冷たい瞳は誰よりも俺を捕らえて離さなかった。
「…京」
その時、確信した。
────────ああ、俺はもう、この男から逃げられない。
それは、諦念のような、絶望のような。
けれども、男の視線に背筋がぞくりと震えた。
「…………きょ、う、」
先程と真反対のことを考えてしまうくらいには、この瞳の熱に、侵されていた。
伸びてくる腕に、近づいてくる顔に、俺は全てを受け入れるように目を閉じた。
覚えているのは、激しく攻め立てられたこと、散々鳴かされたこと、最後は気を失ってしまったこと。
あと、寝てる時に抱きしめてくれた、その体温。
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傍にあった体温が無い。
そろりと手を伸ばすけれど、シーツは冷たくなっていた。
でも、どこからが電話をする男の声が聞こえた。
仕方なく、うっすらと瞑っていた目を開ける。
「…ああ。そうしてくれ。俺はしばらくそっちには行かねえからな。…ああ、何かあったら連絡しろ」
ベッドの端に座って、誰かと話している京。
今日は…ちゃんといるんだ。
そんなことで嬉しくなってしまいそうな自分を抑制する。
伸ばしかけた手も、寒くてまた布団の中に引っ込めた。
今日は、一段と空気が張りつめていて寒い。布団はふかふかだけど、俺まだ裸だからね。
頭まで布団を被ろうとして、ふと京の背中を見つめる。
薄目で捉えた京の背中は、黒いタンクトップを着ているようだった。
あれ…京、もう服着たんだ。でもなんで半袖…
「………え?」
思わず声が出た。めっちゃ掠れてたけど。
薄目だった目がどんどん開いていく。脳が覚醒するにつれて、その存在をちゃんと確認できるようになった。
それ、…それって、
「…いれずみ…!?」
タンクトップだと思ってたのは、真っ黒な刺青だった。
俺の声に気づいたのか、電話を終えた京が振り向いた。
「起きたか」
待って。今まで全然気がつかなかった。ていうか、やっぱりヤクザだったのか。京の背中に入ってるのはゴリゴリの龍。天に向かって昇ってしまっている。しかも、右上の方に『四鳳会・朝霧組』って入ってるんだけど。もうヤクザしかいないじゃん。最初の紳士はどこ行ったんだ。
起きたか、じゃねーよ。
先にヤクザって言えよ…!
「京…ヤクザじゃん…」
色々考えて、結局口に出したのはそれだけだった。
でもこの一言に色々詰まっているのを察して欲しい。察しろ。
「………」
「………」
緊張感漂う空気。数秒後、それを打ち破ったのは京だった。
「……ああ。それが?」
こいつ…!
清々しいほどの笑顔で返しやがった。騙し討ちみたいな真似したの、絶対わざとだろ。
「おい、ヤクザだって分かったからって逃げんなよ」
「………………………ウン」
熟考。めっちゃ熟考してから、取り敢えずそう言った。
ここでいいえなんて言ったら監禁されかねない。
「まあ、元からお前を手放すつもりも逃がすつもりもないけどな…茉白」
「エ゛」
茉白って。今、ましろって言ったかこの男。
何で…知ってるんだ。それは俺の…
「ーーー本名だろ?瀬田茉白」
「セタマシロ」
「何でオウム返しなんだよ」
ふは、と笑う京。いや笑ってんな馬鹿???
驚きと恐怖で言葉が出ません。京の本気を見た気がして恐ろしいわ。
昨日の瞳は、やっぱり本気だったんだ。
ちょっと選択早まったかも。いや、確実に間違ったわ。
「クーリングオフ…」
「あ?」
「ナンデモナイデス」
…まあ、考えるのは後にしよう。寒いし。
「…何で入ってくんの」
「お前が寒がるから」
もぞもぞと布団に入ったと思ったら、後ろから抱きしめてきた。昨日の、朧気な記憶に残っているのと、同じ体温。
ヤクザで、俺の事脅すし逃がしてくれる気無さそうだし、俺に決定権を持たせてくれないくせに。
「…あったかい」
「そうか」
真顔で俺の盾になりに行くような部分もあって。
そういうのに、少し、ほんの少しだけ、絆されたんだと思う。
サイコな一面(8割)を除けば、もしかしたら上手くやれるかもしれない。パパ活分の費用もなんか補ってくれるらしいし。
逃げられないとわかっているなら、せいぜいこの男に甘んじてみよう。
そう考えて、俺は再び男の腕の中で目を瞑った。
………このクソヤクザが我慢できなくて、俺の寝込みを襲ったのはまた別の話。
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