知玄(とものり)は膝の上に置いた手の甲に顎を載せ、闇の中で煙草を吸いながら話す兄を見詰めた。 　自分だったら、元カノからの久しぶりの電話がそんな報せだったら、きっと嫌だと思う。だが、元カノの結婚を語る兄の口調は、嬉しそうにすら聴こえる。付き合っている間ずっと、兄はなぎさちゃんのことをそれは大切にしていたものだが、その頃とあまり変わらないテンションで、今、話している。 　何で別れちゃったんだろう、あんなにおしどり夫婦みたいだったのに。ずっと疑問に思っていたことだが、この様子からして、少なくとも噂はやはり噂でしかなかったのだろう。 　兄の方からなぎさちゃんのことを手酷くフッたのだと、知玄は同級生の女子達から聞かされた、というより詰られた。とばっちりで酷い目に遭ったとちょっと兄を恨んでしまったことが、今更恥ずかしくなる。 　本当はきっと、何か事情があって別れざるを得なかっただけなのだろう。だが、人々はそう思ってはくれなかった。恋人をとことん大切にするいい男から、ワガママなクズ男へと、兄の評判は物凄い勢いで落とされた。 　人目憚らずに彼女と手を繋いで歩いていた兄の周りには、常に沢山の女子が群がっていた。いつか自分が彼女の座に収まれることを期待して。しかしいざ空席が出来ても、そこに座ろうとする女子はいなかった。なぎさちゃんと同じ目に遭わされるのを畏れて。 　中学時代、兄弟の自転車置き場として使われていたこの場所で、時々兄が煙草を吸っているところに出くわした。 『見つかっちゃった』 　煙草を咥えたまま口を動かすので、口調が剽軽(ひょうきん)な印象になる。 『どうした？』 　そう言って見上げてくる兄のことが、大人っぽい余裕があって格好いいと知玄は思った。 　当時と今との落差がえぐい。煙草を指先に挟んだまま、その手を眉間に押し当てている兄は、暗闇の中で一人で泣いているように見える。何で？　と思う。兄に対してではなく、世界とか運命とか、そういったものに対して、無性に腹が立つ。 　可哀想、とは何かが違う、この気持ちを何と言えばいいのかわからない。自分のことを「俺の番」なんて可愛い呼び方で呼んでくれる人のことを、こんな風に独りにしておいてはいけないと感じる。 「あ、そういやお前、何か聴いて欲しいことがあるとか言ってなかったか」 　兄はあっけらかんとした口調で言ったが、知玄は首を横に振った。 「もうどうでもいいです。それよりお兄さん」 「何？」 「僕、一歩踏み込んでもいいですかね？」 「はぁ？　踏み込むってなに」 　ぴょんと間合いを詰めてコンクリの床に膝をつき、知玄は兄を腕の中に抱き込んだ。 「泣きたかったら僕の胸を貸しますので、存分にどうぞ！」 「いや、俺こんなことで泣かねぇし」 　むしろお前がどうしたんだよ、何か嫌なことでもあったのか？　と、兄の手は知玄の背中を、あやすようにとんとんと叩いた。