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●兄は無視して歩いていく。

 人を思い切り殴ると、自分の拳も無事では済まないらしい。知玄(とものり)は本気の殴り合いなんか子供時代以来していなかったので、知らなかった。知玄は兄を休憩所の椅子に腰掛けさせて、兄の拳にできた擦り傷の手当てをした。 「要するに、お兄さんは誓二(せいじ)さんから二股をかけられた挙げ句に捨てられてしまい、やっと忘れかけてた頃に調子よくよりを戻そうと言われて、腹を立てたということですね」  知玄が兄の話を要約すると、兄は手当ての済んだ手をすっと引いて、知玄を見上げた。 「うるさい」  無感情な眼差しに、ゾクッと背筋が凍った。兄はさっさと二階に上がっていった。寝室のドアが乱暴に閉められる音が、階下まで響いた。  誓二さんの一件で兄は気が塞いでしまったのか、それとは無関係に体調が悪化したのか、仕事の時以外は寝込みがちになってしまった。  知玄と兄とは寝床を別けることになった。知玄としては、こういう時こそ兄の側に寄り添ってあげたいのだが、兄には「逆にしんどい」の一言で拒絶されてしまった。    二週間ほどが過ぎた。昼頃から降り続けていた雨は、予報通り雪に変わった。知玄が帰宅した頃には、一階の事務所の明かりは点いていたものの、従業員の姿は既になかった。  階段を上がりきったところで母に鉢合わせた。 「お帰り」 「ただいま戻りました。お兄さんは?」 「部屋にいるんじゃない? 調子が悪いって、昼頃に上がっちゃったし」 「へぇ……」  知玄は兄の部屋を訪れた。ノックしても返事はないが、幸い鍵は開いている。 「お兄さん」  布団の塊に声を掛けたが、やはり返事はない。そっと近付くと、布団の中からは浅い呼吸音が聞こえた。 「お兄さん?」  知玄は布団を捲った。少し身動いだ兄の首筋が見えた。最近までそこには血で描いた花のような痣があったが、今それは輪郭だけを残して薄く消えかけている。 「痣、治ったんですね」  すると兄はむくりと起き上がった。ベッドを降り、財布と車の鍵をポケットに入れ、部屋を出て行こうとする。 「どこに行くんですか」 「コンビニ」  体調が良くなく、しかも外は雪。そんな時に不要不急の外出などしなくても。 「なにか欲しいなら言ってくれれば、僕が買って来ますよ」  兄は無視して歩いていく。知玄は後を追った。 「お兄さん、ねぇお兄さんっ」 「ほっとけよ」  放っておける訳がない。かなり寒いのに兄はスエットの上下を着ているだけで、つっかけを履いた足は裸足。歩き方もふらふらとして覚束無い。(みぞれ)混じりの雪が、兄の肩を濡らしていく。 「せめて上着っ、」  知玄が兄に羽織らせようと自分のジャンパーを脱ごうとした時、兄はくずおれ、泥の中に膝を着いた。  絶え間なくびしゃびしゃと泥濘(ぬかるみ)を打つ水音は、他の全ての音をかき消そうとするが、それでも知玄の叫びは父母に届いた。事務所の戸が開く。室内から伸びた光が地面を照らした。

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