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序章 第1話
両親が事故に遭ったという連絡を受けたのは、まだ暑い夏の日のことだった。見たことのない電話番号に嫌な予感を抱きながら電話に出た俺の耳に、看護師を名乗る女性が二人の現状を伝えた。
着の身着のままで、慌てて駆け付けた俺の視界に映ったのは、ピーっという甲高い耳障りな機械音。それと、もう二度と目覚めない両親の、まるで眠っているだけのような死に顔だった。
「須賀 くん。元気がないね」
そう口にするクラスメイトを横目で見て、教室を出る。入ったばかりの高校生活は暗く、沈んだ気持ちで送ることになった。朝目が覚めても、家に帰っても、もう両親が暖かく声を掛けてくれることはないのだと思うと、気持ちが沈んだ。
笑顔の抜け落ちた顔で音楽室の前を抜ける。階段を下りて、化学室の前を歩く。どんよりとした気分で、俯く俺の耳に、三人か、それとも四人か、男女入り混じった声が届いた。
「イオガネ!セイイカ!タイナイキー!!」
なんの呪文だ。と思い顔を上げた、丁度その時だった。化学室の入り口が強く発光したかと思うとその光はみるみるうちに俺を飲み込んでいく。温かい光が、完全に身体を丸ごと包み込んだ瞬間、俺は意識を手放した。
———……一体、なにが―――?
次に俺が目を覚ました時、そこは少し薄汚れた路地裏だった。ここはどこだろうと、立ち上がって辺りを見回そうとしたが、ドクンと心臓が音を立てて急に痛みを訴える。
体が熱くなって、呼吸が荒くなり、心痛とは別に、じわじわと腹部を襲う鈍痛に堪らず、ぎゅっと胸と腹を抑えて蹲る。気持ちが悪い。飲み込み切れなかった唾液が、だらりと地面に流れ出る。はあ、はあ、と玉のような汗をかきながら息を乱していたが、次第に痛みは引いていき、呼吸が整う。
「なんなんだ……一体……」
ぽつりと零して、のろのろと立ち上がる。きょろきょろと辺りを見渡してみれば、少し先を歩いた先で路地を抜けて通りに出られそうだった。
ところで、さっきまで学校にいたというのに、俺は一体何故こんな路地にいるのだろう。疑問に対する答えを持つ人間はそこにはおらず、俺はふらふらと路地を抜ける。通りに出ると、人通りがそこそこあって、少し安心する。
ほっと胸を撫でおろしていると、ザアっと風が吹いて、髪がさらりと靡いた。すれ違う人間がちらちらとこちらを見る。中には凝視したり口笛を吹いたりしてくる者もいた。一体何だというのだろう。
なにかおかしなものでもついているのだろうか。ちらっとすぐ傍のガラス窓に目線を向けて、驚愕する。視界に入ったガラス窓の向こうの鏡に映る自分は、記憶している自分の姿と似ているが、決定的な差があった。
黒だった髪は透けるような天然物のプラチナブロンドに染まり、グレーの瞳はきれいな翠色の瞳に染まっている。顔立ちこそ変わらないが、あまりにも突然すぎる変化に驚いてガラス窓に両手をべったりとついて、凝視する。
まじまじと己の姿を見るが、やはり何度見ても変わりはしなくて、何が起きたか理解しがたい。先程まではいつもとかわらない日常だったのに。と、そこまで考えてふと、ひとつの考えが頭に浮かんだ。
「夢だ……これは」
呟いて、ふらふらと歩き出す。早く夢が覚めるようにと願って抓った頬は痛くて、なんてリアルなんだと思った。
***
夢を見ていると思って軽く五時間は経っている。
何故そこまではっきりと時間がわかるのかはさておき、俺は行き場を失って公園で時間を潰していた。冷たい空気が流れ込んできて、ぶるりと震える。持っていた硬貨では買い物ができなかった。
結論を言おう。ここは日本だ。だけど、俺の住んでいた日本じゃない。季節も、元々は夏だったというのにここはどうやら初冬のようだ。肌寒くていけない。
あの後、すぐ近くの駅を探して少し彷徨った後、俺がいつも使っている家の近くの駅に出た。じゃあ、一度帰宅する方がいいだろうと思って、家に向かったが、待ち受けていたのは“山岡”と書かれた一軒家の表札だった。
俺の家は確かに一軒家だが、山岡なんて名前じゃないし、趣味の悪い水色の屋根なんてしていない。ご近所さんも全部名前が違うし、来る場所を間違えたのだろうかと俺は不安になって、高校のある場所に向かった。
だけど、道を歩く度、既視感が俺を襲って、言いようのない気持ち悪さが胸を襲う。辿り着いた高校は名前は少し違うが建っている場所は、間違いなく俺が通っていたあの高校と同じで、地名も多少漢字が違ったりはするが、ほぼ変わりなかった。
変化と言えば、その多少の地名や住んでいる人間のほかに、俺の過ごしていた街にあったショッピングモールとか、娯楽施設に入っている店が違ったり、とにかく些細な間違い探しみたなもんだけれど、確かに俺の知っている元居た日本とは少しずつ違っていた。
この公園に辿り着いて、たまたま歩いてきた老人に、現在の首相の名前を聞いたら、全然知らない名前を上げられて、驚きのあまり茫然として公園のベンチに腰を落として一時間が経つ。
長い夢だ。まだ覚めないのだろうか。と、考えて、嫌な予感が頭を過る。そもそも夢ではない現実なのではないかという、予感。
化学室の前で聞いたあの呪文のような言葉。あれは、黒魔術同好会が異世界に行きたいといいながらよく口にしている謎の儀式の言葉と同じだったのではないだろうか。場所も、黒魔術同好会が好き好んで化学部と同じ部屋を部室にしていると噂の化学室だ。ということは、あれは黒魔術同好会の声だろうか。
なんてことを考えていると、自分の前に黒い影が複数落ちていることに気が付く。
「あの……なにか?」
にやにやと下品な笑みを浮かべた男たちを見上げて問う。三人のうちの一人が、馴れ馴れしくも俺の肩に手を置いて口を開いた。
「お兄さんさあ、もしかしてオメガ? めっちゃ美人だし、俺たち超ラッキー、みたいな? てか、さむそー」
俺への問いかけというよりも、自分たちの間でも盛り上がっているその言葉に俺は引っかかりを覚える。聞き覚えのない単語があった。“オメガ”とはなんだろうか。駅に居た時もその単語をちらほらと見かけた。
見慣れない単語だが、それはそんなに重要な事なのだろうか。
「すみません。オメガってなんですか?」
「………………マジ? お兄さん箱入りオメガ? それとも記憶喪失にでもなってる?」
「イマドキお兄さんくらいで自分がオメガかわかんない人っていないよ? 知らないなら、俺たちが優しく教えてあげる~」
尋ねると、一瞬男たちは固まって、すぐわっと騒ぎ出す。ぎゃははと下品な笑い声が、不快に感じた。
急に手を握られて、抱き寄せられる。驚いて離そうと身体を押すが、相手の力が強く、それは叶わない。やめろ、はなせともがくが、馬鹿力なのかびくともしない。
綺麗な顔をしているね、と口々に褒める男たちの目に性的なものを感じて、背中に悪寒が走った。
「離せよ、はなせ!」
強い力で引きずられるようにして草むらに連れていかれそうになっていると、突然背後から缶ジュースが飛んできて、三人のうちの一人の頭に直撃する。いてえ! と声を上げた男が、振り返って文句を言おうとすると、投げた張本人であろう男が、煙草を指で弾きながら紫煙を吐いた。
すっかり陽が落ちて、闇に飲まれた夜の街の外套を背中に立つ。絵になるくらいイイ男だと思う。逆光だが、その顔立ちは男前だと思うし、筋肉も程よくついていて、、悪い大人という文字がとても似合いそうだ。
「無理矢理はよくねーだろ。お兄さんたち」
男は、不敵な笑みを浮かべて言った。落ちた煙草を靴底で踏みつけて、火を消して、ゆっくりと歩いてくる。その様子に、三人の男は、あからさまな動揺を見せた。
どうやら、この男前は世良 というらしい。三人のうちの一人がご丁寧に名前を呼んでいた。
その名前を口にした男たちは、少しずつ近づく世良に怯えたように、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「大丈夫か? えーと、」
「須賀です。助けてくださって、ありがとうございます」
「世良だ。気にすんな」
一目で男だとは分かっただろうが、どう呼ぶべきか思案している様子の世良に名を名乗って礼を言う。ぽんぽんと頭を撫でた世良は、俺のあまりの軽装ぶりを見て不審に思ったのか、家出か? と問う。
いや、と歯切れの悪い返事をする俺に何かを察したのか、公園の入り口に視線をやって、そこに止めてある車を指す。
「行くとこねえならついてこい。ここじゃ寒いだろ。車に上着もあるから貸してやる」
二本目の煙草を出して、口に咥えながら、世良はそういった。
一瞬、何を言っているのか分からなかったが、顔を傾げた俺を見て、鼻赤ぇぞと笑う男に悪意も下心も感じない。どうせ、いくところもないし、と思って、俺は世良の後を追った。
***
あまりにも軽装の俺に、こっちが冷えると言って適当な店で世良が用意した服に着替えて、ファミレスでご飯を食べる。俺の持つ金は使用できないため、すべて世良の奢りだ。
順を追って話をしていこうという話になって、俺は今までのことをありのまま話すことにした。信じてもらえるとは思わなかったが、助けてもらった上に服まで買ってもらって一飯奢って貰っているのに、何も事情を話さないというわけにはいかなかった。
なにより、この男なら信じてもいいかもしれない、という勘が働いたのだ。それに、いつまで経っても覚めないこの悪夢の中で、一人でいるのは心細かった。
世良が「仮にその話を信じるとすると」と、前置きをつけて話をする。俺は頷いて次の言葉を待った。
「お前は行き場もないし、自分のバース性もわかってない。そういうことになるんだな」
「ああ。そうだ……ところで、そのバース性ってなんなんだ?」
世良の言葉にこくんと頷いて、俺は首を傾げる。ずっと気になっていたことだ。先程からたまにぽろぽろと、世良がオメガだのアルファだの、ベースがどうのと言っているのが引っ掛かる。あの不良たちも世良も、やたらと聞きなれない単語を言う。
俺は料理を持ってきた店員に礼を言ってパスタに手を付けながら、自分の元居た世界ではバース性などなかったということを伝える。聞き覚えのない単語だと言うと、世良は難しい顔をして黙ってしまった。
しばらく何かを考えていた様子だったが、やがてはーっと深くため息を吐いてステーキに手を付ける。
「お前の話を総合して考えたが、どうやら信じた方がよさそうだ。いいか、須賀。バース性ってのはな……」
――俺はカチャンと音を立ててフォークを落とした。はっとして紙ナプキンを手に取り口を拭く。
世良の言葉によると、どうやらこの世界には男と女だけではない性別があるようで、生まれつきエリート体質のアルファと、平々凡々なベータ、そして繁殖のための性、オメガの三つに分かれているらしい。中でも、アルファとオメガは特別で、番という関係を結ぶことができたり、オメガの男性は子供を孕むことができるとかなんとか。他にも色々言われたが、あまり深く考えたくない。
そして、どうやら目の前の男、世良はアルファらしい。確かに容姿もいいし圧倒的なできる男の風格がある。人の上に立つ人間と言われればそうだろう。
「須賀。遠い目をしているところ悪いが、行く当てがないと言っていたな」
「あ、ああ……」
「なら俺のところにこい。俺が面倒を見てやろう」
「いいのか?」
「構わんさ。そうと決まれば明日病院に電話してバース検査の予約をするかな」
世良が強引に話を進める。迷惑を考えて断ろうとも思ったが、当てがないんだろうと言われればそうなのでここはありがたくその提案に乗ることにする。
世良は一体どうしてこんなにもよくしてくれるのだろう。普通は面倒だと警察にでも届け出るだけで済ますだろうに。という俺の思考を読んだのか、世良はふっと笑って、「お前が知り合いに似ているから世話を焼きたくなっただけだよ」とくしゃりと頭を撫でてきた。
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