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1章 第20話
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「おはよう。真澄くん!」
「やぁ、須賀真澄くん。おはようございます」
翌日、俺は驚きの光景に教室に入ろうとする足がぴたりと止まり、口をあんぐりと開けた。
目の前に、俺の席に腰かける百合とその前の席に腰かける副会長こと湊律。手を振る二人の表情は相反していて、かたや百合は満面の笑み。今までに見せたことがあるかというくらいの笑顔。これには原因が予想できる。昨日の弁当の件だろう。問題は副会長の湊だ。般若のような顔をしている。背後に鬼を背負っているのではないかというくらい恐ろしい空気に俺は背筋がゾワリと凍えるのを感じた。
出来ればこれは夢なのだろうと現実逃避したいところだが、残念ながら一時間と少し前に目が覚めたところだ。明確に現実であると黄色い歓声に傷む鼓膜が訴える。
息を飲んで俺は席に向かう。
「おはようございます。百合先輩。湊先輩」
一緒に登校していた頼人が後ろでごくりと息を飲む。緊張するよな、わかるよ。
「あ、これ。先輩と約束したお弁当です。どうぞ。お弁当箱は昨日新しく買ったやつなので返さなくて結構ですよ」
「ありがとー! 大事に食べるね。ところで真澄くん」
「はい?」
「昨日さ、花見と仲良さげになにしてたの?」
急に笑顔が消えてズシリと暗い影を纏う百合に俺は驚く。副会長もじっと俺を見ている。それが本題かと理解して俺は重い空気に不快感を覚えた。
俺が百合の問いにどう答えるかしばし考えを巡らせていると、般若の相の男がゆっくりと口を開く。
「昨日雅貴は僕との約束を放って君を優先したんですが、生徒会室に来てくれるっていう約束を放ってまで君を優先する理由って何ですか?」
「ちょっと、ふくかいちょー今俺が質問してんだけどー」
「うるさいよ。成瀬。で、どうなんですか?」
副会長が小首を傾げて言う。そんなこと俺が分かるわけがないだろう。というかそんな約束あるんなら俺はそっちを優先させることを強く勧めたよ。
さあ? と首を傾けて俺は「分かりません」と答える。俺は狩野じゃないから理由なんてわからない。聞かれても困る。
「真澄くん花見とは仲いいの?」
「君は雅貴とどういう関係?」
二人から同時に問われて俺はつい隠すこともなくため息を零す。ぎろっと鋭い目で見てくる副会長に眉を寄せて不愉快な気持ちを抱きながら答えた。
「花見先輩とは知り合ったばかりで仲いいわけじゃないです。あと雅貴くんとは友人です。優先した理由は雅貴くん本人に聞いてもらってもいいですか? ……他に、なにか質問は?」
少し強めの口調になってしまったがそうはっきりと答えると二人は黙って少し考えた後ニコリと笑みを貼り付ける。副会長のはいつもの胡散臭い腹黒い笑みだが、百合はもっと、そのさらに倍、胡散臭い。何考えているかわからない笑みだ。
「よく理解できました。ありがとう。須賀くん」
「オッケーオッケー、ありがと。お弁当美味しく食べるね、真澄クン!」
二人から手を握られた俺はゾワリと背中に鳥肌を立たせる。明るくニコニコと笑う百合と、優雅な笑顔の副会長は俺からするりと手を放して嵐のように去っていった。
***
「へえ、昨日買ったの。コレ」
「……いつも迷惑かけてるし、礼っていうか……その……やるよ」
昼休み。俺は世良のいる国語準備室に来ていた。
世良は俺の買ったピアスの入った袋を、自分の目線の高さに持ち上げた左手の人差し指と親指で、つまむようにしてぷらぷらとぶら下げ興味深そうに眺めている。俺はというと、断然食堂の方が安くて美味いのになぜか作る羽目になった自分の作った弁当を食べ終わり、箱を片づけていた。
今朝の話も、昨日のモールでの話も、世良の耳には届いている。というか、昨日の話は俺から話しているので知っていて当然か。
「開けるぞ。真澄」
「好きにしろよ」
素っ気なく言うと、そうかと世良は包装を開けて中身を取り出す。透明フィルムに入ったソレはシンプルだがしっかりとした作りで高級感を感じさせる深く鮮やかなエメラルドグリーンの石がついている。
フィルム越しにそれを天井の明かりに透かして煌々と輝く石を眺める世良はどことなく寂しそうに見えた。
「世良……?」
「ありがとな。真澄。人からピアス貰うのなんて久しぶりだわ」
「ああ、うん……選んだのは、俺じゃないけど……」
「そ? もしかして花見? いいセンスしてるな。ハハハ」
不思議に思って声を掛けようとしたらまるでその空気が嘘だったかのようにいつも通りの世良がそう笑った。どことなく違和感を覚えて、だけどそれをうまく口にできるわけもなく俺は世良の横顔を見る。
いつもと変わらない余裕にあふれた大人の顏。そこに寂しさや哀愁なんてものは微塵も感じられない。ただ、違和感だけがある。そんな気がした。
俺は形容しがたいそれを胸に抑え込んでなかったことにする。気のせいだったのかもしれない。
世良は俺のあげたピアスを準備室の私物化した机の引き出しにしまうと豆を挽き終えたコーヒーメーカーからカップを取り出してミルクと砂糖を加え俺に差し出す。自分の分は後回しで入れるのはいつものことだ。
家のコーヒーメーカーならコーヒーサーバーが付いているので楽なのだが何故か世良はこっちを持ってきた。いつも使うならこっちがいいと言っていたが気に入っているのだろうか。俺はあまりこだわらないからどっちでもいいんだが。
「最近は色々大変なのね真澄クン」
「茶化すなよ」
「ははっ。テスト気ぃ抜きすぎるなよ。程よくいい成績でいてくんねーと担任としては辛いもんがあんのよ」
「わかってるよ、勉強してるって」
肩を竦めてため息を吐くと世良が俺の頭を撫でる。
「困ったらいつでも相談に乗るから。あとフォックスも無償で話聞いてくれるし頼れるときに頼っとけ」
にっと笑う顔が視界一杯に広がってなんだかむず痒い気持ちになりながら俺は小さく返事をする。俺と世良のいる国語準備室にはコーヒーの香りが充満していて、少しだけ心が安らいだ気がした。
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「我妻、そこ数式間違えてるぞ」
六時間目が自習になったのでうちのクラスは仲のいいグループで固まってテスト勉強を始めた。俺と頼人と我妻と田島は俺の席の周辺が空いたのでそこを陣取って参考書を広げる。
俺は教師毎に作った対策ノートとテスト範囲を照らし合わせていく。授業中の話や小テストの内容から大体の傾向を予測したこのノートがこの学校でどれくらい通用するかは分からないが、中学の時にはこれが赤点だらけだった友人の、赤点回避の助けになっていたから、できれば活躍してくれることを願うばかりだ。
ちなみにノートの中身を見たクラス首位の我妻が分かりやすいと絶賛したので放課後数ページ、頼人と田島が自分用のコピーを取ることになった。
「ますみんってほんと苦手科目が何か分かんないくらいなんでもほいほい解いちゃうよねー」
頼人が感心したような声を上げる。俺はきょとんとして自分の苦手な科目を思い浮かべてみたが、テストに全くと言っていいほど関係なくて小さく笑みが零れた。
三人は俺がテストも授業も態と手を抜いているのを知っているので何が得意で何が苦手なのかすぐにピンとこないのだろう。頼人に至っては国語も数学も得意なんだもんなーと言いながら腕を組んで勉強そっちのけだ。
俺は一つ息を吐いて対策ノートとは別に数式を書き込んでいたルーズリーフに落書きを始める。
「俺が苦手なのって、美術なんだよな。絵のセンスだけはほんとにねえの」
そういうと頼人がクスっと我慢しきれなかったように笑う。俺の芸術的な絵を思い浮かべたなこいつ。
「アハ、ますみんの絵が壊滅的なのはわかる。画伯だよ画伯」
「確かに。須賀の絵は酷いな」
「分かる。須賀くんの絵は一周回って芸術だと思う」
「悪かったな。壊滅的な絵で」
散々な言われようにムッとして、猫を描こうとしていた手をぴたりと止めた。
ガタガタに歪んだ線で描こうとされていた猫の輪郭はそもそもそれが猫なのかすらもわからないくらい奇妙だった。
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