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1章 第23話

*** 『危機感が足りないね、須賀くんは』  電話向こうで花見が笑う。夜も深く、十二時を回っているというのに電話に出た男は知り合って間もないというのにも関わらず、遠慮なく痛い所をついてくれた。 「まさか狩野くんに襲われるとは思わないでしょう」  そう自分に向かって言うように返事をして、先程のことを思い出す。  狩野の顏が迫って、口と口がくっつくと思い、目をぎゅっと閉じた瞬間、洗濯機がピーッピーッとエラーを吐いた。近付いていた唇も、ピタリと止まる。  顔を背けて洗濯機を見に行くというと、狩野は暫し考えてから俺から離れた。「別に急がなくてもいいか」と口にして。  寒気がして身震いする。急いでも急がなくても俺はお前を好きになることはないしお前に身体を許すつもりもないぞ。そう心の中で語り掛ける。現実には届かないが。  狩野が自室に戻ったことを確認して洗濯機の元に向かう。どうやら蓋が開きっぱなしだったことが原因でエラーを吐いたらしい。お前のおかげで俺の唇は守られた。ありがとう。  洗濯機を一撫でして部屋に戻って一息つく。百合と言い狩野と言い、面倒なやつばかりに好かれている気がするのだが気のせいか。  放置していた百合のメッセージに返事をしなければとスマホを開くと最近知り合った花見からラインが送られてきていて思わず開く。  あまり表立って接触しない方がいいとお互いに思っていたので、あのショッピングモールの時にこっそり交換しておいたのだ。  俺が送った挨拶に対する遅すぎる返事がつい数十分前に送られてきていたので百合に返信を送るついでに世間話でもと短めの言葉を送る。と、初めて送った時はつかなかった既読がすぐについて返事が返ってきた。  驚いて誤って通話ボタンを押す。すぐに切ろうとしたが、時すでに遅し。花見が応答ボタンを押したようで、もしもしと声が聞こえた。  特に用事はなくてかけ間違えたと言うと、花見は楽しそうに笑った。そうして他愛無い世間話をした後、なんとなくで狩野の話を切り出して、冒頭に至る。 『まあ、狩野君も男の子だからねえ』  電話口で花見が呟く。必要性があったので俺が変装をしていることだとかそういうことについてもざっくりと話したが、そこにあまり触れないでいてくれるのは助かる。詳しく話すには面倒だからな。 「男の子って…」 『彼、アルファでしょ? それは襲われるよ。例えば君がオオカミだとして、目の前に油断した獲物がいたらどうする?』 「どうするって、そりゃ……」 『襲わないわけないでしょ? それと同じこと。アルファの男はみーんなオオカミ。オメガはウサギだとでも思えばいい』  ウサギと復唱してなんとなく意味を理解する。自覚が足りないという花見の言葉にそう例えられればなんとなく自分が迂闊すぎることがよく分かった。  今までの人生は、男として生きてきただけで襲われることなんてほとんどなかった。まあ、たまに、ほんと極稀に女に間違われたのか電車で尻を撫でられたりとか、そういうことはあったけど、キスされそうになったりとか、それこそ貞操を狙われそうになったりだとかは皆無だ。  そもそも、人に告白されたのが久しぶりの経験だし、相手が男となると初めてかもしれない。 『よくわかってくれた? 須賀くん』  優しい声で花見が言う。はいと返事をすればよろしいと電話先でクスクスと笑われた。先輩というよりは兄のようなそれに少し心がむず痒くなる。 『そういえば、プレゼント。喜んでもらえた?』  ふと、思い出したかのように花見が言った。ああ、と呟いて渡したときの世良の顔を思い返す。喜ぶ、というにはあまりに寂しそうな眼を思い出して、胸に抱いた違和感がぶり返した。それをそのまま、言葉に乗せる。  花見はなにか知っているような口ぶりで返事をする。気になって、問いかけるが答えづらそうにするのでそれ以上俺はあまり深く切り込めない。  世良と花見がどんな関係なのか深くは知らないが、俺の知らない世良という一面を垣間見て、胸がちくりと痛んだ。 ***  狩野との一件から数日が経った。テスト一週間前になると自習時間が増える。この学園では特にその傾向が強い。  静かな空間で黙々と勉強する生徒たちは真面目で、噂好きの女子みたいな生徒たちもただ黙って自分の勉強に没頭していた。時折、友人同士でわからないところを教えあっている声が聞こえてくるくらいで私語が上がることはそうそうない。その状況下の中、悲鳴を上げたのは頼人だった。 「ああ~! 無理! つらい! ますみん助けて! 飢えで死んじゃうよぉ!」  悲痛な声を上げる頼人が俺の腕にしがみつく。引き剥がそうとするが意外にも力が強い。どうやら、最近テスト習慣だというのに一向に勉強の進まない頼人を心配した志波に言われて、彼の寮部屋に泊まりに行っているらしい。BL関係の本や作業は全面禁止だということで、圧倒的萌え不足だという。だから我妻と田島と俺を見る目があんなにも血走っていたのか。  志波とその同室者の川谷のいる部屋に帰るとすぐに参考書を開かされるんだとか。おかげで頼人の苦手としていた化学の問題集が綺麗に解けているので効果は抜群というところか。  毎日、志波が張り付いて教えてくれるらしいが、彼に用事ができた際は川谷がその役を担うらしい。それがまた恐ろしいのだと頼人は泣く。部活では見せない恐ろしい一面を僕は見たと大袈裟になく頼人に、苦笑を漏らす。それはいいのだが、お前今自習中だぞ。絶対二人の耳に入るからな、これ。 「僕は萌えがないと死ぬ……」 「そんな大げさな」 「大げさじゃないやい!」  えーんと机に突っ伏す頼人に、クラス中が驚いた様子で見ている。呆れた様子の田島も困ったように笑う我妻もコイツを止める方法を思いつかないらしい。  はあ、と深くため息を吐いて頼人の頭を撫でると、頼人はうう~と唸りながら鼻水を啜った。落ち着いたのか静かになった頼人を撫でながら俺はプリントに目を通す。その様子をじっと見ていたクラスメイト達はしばらくして興味を失ったように目線を自分たちの作業の方へと戻した。 「お前な、授業中に騒ぐなよ」 「うう、だって……もう勉強したくない……」 「はー……八十点超えたらご褒美やるから」  小声で頼人に注意すると泣きそうな声で弱々しく答えるのがあまりに哀れで、つい甘やかす発言をしてしまう。ピクリと反応した頼人の頭に犬の耳が見えた気がする。 「ご褒美なに?」 「あぁ? ……えーっと……」  顔を上げた頼人の問いに対する答えを考え込んでいると、頼人がくすっと笑った。 「ありがと。ますみん。頑張るね」 「…ああ」  嬉しそうな頼人がまた教科書を開いて勉強に取り掛かったのを見て、俺も自分の作業に戻る。その後はもう頼人も騒ぐことはなく、ただ静かな自習時間が過ぎた。  今の状態の頼人に狩野とのことなんて話そうものなら大変すばらしい奇声を上げるだろう。なんて考えながら問題集の問いを解く。志波が口止めしてきたのはこの為だったのか。だんだん頼人の反応を想像できるようになってしまっている自分がいることに気が付いた俺はそれがいいことなのか悪いことなのか考えて、首を傾げた。 *** 「へーこの子が須賀君かあ」  そんな穏やかな時間を過ごしていたというのに、何故俺は今こんなところにいるのか。  まじまじと俺を見る鏡を合わせたようにそっくりな二つの顔が興味深そうに呟く。生徒会の補佐をしている一年の双子という印象しかなかったので実際に面と向かって話すのはこれが初だ。  双子こと青井兄弟に挟まれて座るふかふかの革張りの上質なソファー。上品で落ち着きのある室内に豪華な調度品。そう、ここは生徒会室だ。  今日の授業がすべて終わって、寮に帰ろうかというところで、突然現れた百合に引きずられるようにして連れてこられた俺は誰もいないその部屋のど真ん中にある客用のソファーに座らされた。飲み物を入れに隣室の給湯室に行った百合を待ちながらそわそわとしていると、そこに突然この兄弟を含めた生徒会役員が戻ってきたというわけだ。 「確かに整った顔をしているね。新(あらた)もそう思うでしょ?」 「そうだね。眼鏡が邪魔なくらいだと思うよ樹(いつき)」  互いの名前を呼びあう二人は、明るく元気があって満面の笑みを浮かべている方が弟でアルファの樹で、落ち着きがあって静かな笑みを浮かべているのが兄でオメガの新らしい。とても良く似ているので口調や仕草で判別するしか方法はない。彼らが本気を出せば、どちらがどっちなのかわからなくさせることも容易だろう。  クスクスと笑う双子にどう接するべきか悩みながら、俺はこの状況をどう切り抜けるか考える。書記の唯川がじっとこちらを見ていたのか、視線を上げた俺とバチっと合わさった。 「あ……」 「お待たせー真澄くーん!」  何かを言おうと口を開いた唯川の声を遮るように給湯室から百合が姿を現す。こちらの声は一切聞こえていなかったようですぐに表情から笑みを消して「なんで皆いんの」と生徒会の面子に冷めた声をかけた。 「何故って、ここは生徒会室ですよ。僕らの仕事場じゃありませんか」  声を上げたのは湊である。呆れた様子で大げさにため息まで吐いて見せるので百合が少し苛立たし気な表情を浮かべた。  副会長って、王子だとかなんとか言われているけど、結構腹黒いよな、どうでもいいことを考えながら、俺がここに連れてこられた理由を知る方法はないものかと唸る。それさえわかれば、事と次第によっては適当な理由をつけて教室に戻れるのに。 「会議があったんじゃないの? 会長と副会長別々にさー。書記と補佐はその手伝いで出てったんでしょ。戻ってくるの早すぎない?」 「風紀委員長に急用が入ったので会議は明日になったんですよ。別に急ぎの内容でもないですしね。あなたこそ、ここに一般生徒を連れ込んで何をしようとしていたんです?」  それだ。聞きたかったことを聞く副会長に俺は内心ありがとうと感謝しながら耳をそばだてる。ここに連れてきた目的さえわかれば後はどうとでもなると妙に自信を持っている俺をよそに百合は「副会長には関係ないじゃん」と唇を尖らせた。 「関係あるな。ここは生徒会室だぞ」  口を挟んだのは会長の原田だった。それまでプリントを見つめ、黙っていた男が突然口を開いたので俺は驚いてその赤茶色の髪の男を見た。目が合って、にやりと笑われる。  原田は俺から百合へと視線を移すと、「理由もなしに一般生を連れ込むのは感心しないな」と言った。 「ふーん。会長だってセフレ連れ込んだことあるくせに。副会長もこの前狩野君呼んでお茶してたじゃん。それは問題ないんだ?」  百合が冷たい目で二人に向かって言う。その内容はどうやら真実のようで二人の顔に痛いところを突かれましたと出ている。わかりやすすぎる反応に俺はなんとも言えない声を漏らした。 「まあ、別に気にしないで仕事しててよ。皆には関係ないから。俺は真澄くんとお茶したいだけだし。桔平ぇー双子どかして」  表情にいつもの笑みを貼り付けた百合が紅茶の乗った盆を持って歩いてくる。指示された唯川はこくりと頷くと青井兄弟を俺から引き離し役員用の席に座らせた。  桔平と名前で呼ぶだけあって、百合と唯川は仲がいいのだろう。生徒会の面子は全員Sクラスなのでクラスも役員も同じということから仲が良くなったというとところか。百合が親しくしているのは親衛隊の幹部と唯川くらいと聞いていたので少しだけ興味深い。 「さ、真澄くん。邪魔者はたくさんいるけど気にしないで。お茶しよ」  にっこりと微笑んで紅茶の入ったカップを俺の前に置く。邪魔者と言われた生徒会の面々は平然とした顔で業務に戻っていく。唯一原田だけがムスッとした顔でこちらを凝視していた。  気まずい思いを抱きながら俺は一先ず紅茶の入ったカップとソーサーを持ち上げる。俺の分にはあらかじめミルクを入れてくれているようで、優しい薄茶の色合いは見慣れたものだ。そっと口付けて一口喉に流し込むと牛乳のまろやかな味わいが口の中に広がる。生徒会の人間が飲むものなだけあっていい茶葉が使われているのだろう香りもコクも深い味わいがある。これは美味い。今まで飲んだ中でも屈指の美味さだ。淹れた人物が百合というのが納得いかないが、用意した百合自身の腕も相まって素材の良さが出ている気がする。  当の百合はというとニコニコと上機嫌にストレートの紅茶を飲んでいる。本当に一緒に茶を飲みたいだけだったのだろうか。訝しみながら俺は静かに紅茶を飲む。 「真澄くんが紅茶が好きって言ってたからぜひ飲んでほしいと思ったんだよ。おいしーよね。これ」 「そうですね」 「ふくかいちょーが毎回お取り寄せしてるやつだから真澄くん気にいると思ったんだー」  ニコニコと笑いながら言う百合の言葉に驚いて紅茶を吹き出しそうになる。それってつまり副会長の私物ってやつじゃないのか。目を見開いてカップを持つ手を震わせる俺を余所にパソコンとにらめっこしていた湊が呆れた様子でため息を吐いた。 「お高い物ですから美味しいのは当然でしょう。ちゃんと本場から取り寄せていますよ」 「お高い…本場…」  副会長の言葉に気が遠くなりそうだ。この人のお高いという言葉は俺の想像を優に超えていくだろう。なんだか味も分からなくなってきた。  俺なんて小学生の頃から安い紅茶しか飲んでない。市販のよくある銘柄のよく知った味を思い出して恋しく思うと同時に、世良の家で飲んでいた物を思い出した。紅茶を飲むときはいつも世良がネットで注文してくれたよく知らない銘柄の物を飲んでいた。  美味しいから特になにも気にしていなかったけれど、あれももしかして高級なやつだったりするのか。  うんうん唸っていると突然ドアをノックする音が響いた。どうぞと入室を促す会長の声に従って扉が開かれる。失礼しますと口にして、そっと入ってきたのはふわふわの黒髪に栗色の瞳。  可愛らしい容姿に、小さい身長。以前一人で俺を呼び出したあの生徒だとわかって俺は驚きに声を出した。

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