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【番外】葵(NL)

あの日、青藤が姿を消した日。 七宝屋のみならず七珍中が大騒ぎになった。 足抜けの予兆なども無く、増してや青藤は床に臥していた。 そう遠くには行けぬだろうと踏んだ穢多役人が近辺を探すが足跡一つ見付けられず。 綺麗に格子が取り外された窓には、改めて格子が取り付け直された。 葵は一番に穢多頭に呼ばれ、行方を知らぬかと何度も何度も同じ質問を受けた。宛ら取り調べの様に。 知らないの一点張りに穢多頭の方が負けて、やっと解放されたのは青藤が姿を消して丸一日が過ぎた真夜中。 直ぐに青藤の部屋へと走り、狂った様に青藤を探し、泣きじゃくる姿を見て皆は憐みの目を向けた。 葵、お止め、と女将が止めたところで駄々を捏ね、決して部屋を出ようとはしなかった。 「葵、貴方の姉さまは無事ですよ」 そんな時、聞こえた声はとても優しかった。 けれども疑心暗鬼になっていた葵は喰って掛かった。 「あんた誰ね!」 「あんたがねえさんばどっか連れてったと?!」 「返して!ねえさんば返して!ねえさんがおらんと!おらんと…あたいっ」 姿を見せぬ相手に向かって畳を掻き毟って泣き喚いた。 丁度、青藤がお巡り家で二度目の眠りから覚めた頃。 丁度、青藤が恩坩と初めて対面した頃の事だ。 「貴方の姉さまは、我が兄上の下へと行かれました、」 歯切れの悪い、その優しい声は唯事実を述べるだけで下手な慰みも憐みも葵に向けなかった。 押し黙った後、嗚咽を押し殺して泣こうと矢張り慰みも憐みも向けなかったが、月明かりの下俯く狐の影は葵が泣き疲れて眠る迄其処にずっと在り続けた。 明くる日、葵は熱を出した。 切な希望により青藤の部屋に敷かれた布団で一日眠った。 夜半、眠り過ぎて目が冴えた葵はぼうと天井を見上げていたのだが。 「葵、もう直、外で花魁道中が始まります。行っておいで。姉さまの最後の道中を見ておいで。確とその目に姉さまを焼き付けてくるんだよ」 昨晩と同じ優しい声がそう語り掛けた。 姿は相変わらず見えなかったが、未だ高熱がある事など忘れたかの様に跳ね起きた葵は部屋中の小物を急いで集めて七宝屋を飛び出した。 そうして、青藤の最後の花魁道中を一目見るべく一行を待ち、青藤を見る事が出来た。 然し、肝心の青藤は最初、目も合わせてくれず、漸く葵を見たと思えば頭を撫でた。 それだけだった。 手鏡も煙管も簪も受け取ってはくれなかった。 受け取ってくれなかった小物を両手一杯に抱えて葵は部屋へと戻り、再び泣いた。 いつもの様に優しい声色で葵、とは呼んでくれなかったねえさん。 どこか厳しささえ感じたねえさん。 然様なら、の一言さえ、交わしてくれなかったねえさん。 けれど、とても美しかった。 人ならず者に囲まれて、堂々と歩く姿は今まで見たどのねえさんよりも美しかった。 儚かった。 悲しかった。寂しかった。されどねえさんが、ねえさんらしい顔をしていた。 つん、と澄ました顔をして、高飛車な風を装って、人を見下しながらも一番に自分の存在を憂いていた。 そんなねえさんらしい顔だった。 「青藤殿は本はお優しい方。言葉を交わせば、葵を連れて行きたいと思う心に蓋が出来なかったんだろうね。だから姉さんを悪く思ってはいけないよ。恨むなら、私をお恨み。最後に会わせた私をお恨み。」 今夜も月明かりで影を落とす狐の優しい事優しい事。 布団に入る事なく、窓に寄り添って眠った葵は翌朝、昨晩の事が全て夢だったかの様に布団の中で目覚めたのだった。 狐はその後も屡葵を訪ねてやって来た。 「あのね、ねえさんもね、時々お狐さんが夢に出てくるとよ、って話してくれよったとよ」 「それは私ではなく兄上の事でしょう。兄上は青藤殿の事をとても大事に思っていましたから」 「ねえ、お狐さん、ねえさんは元気と?」 「お元気ですよ。とても人の子だったとは思えぬ程すっかり馴染んでいらっしゃるとの事です」 「わあ、すごい。ねえさんはやっぱりすごか人ね。あたい嬉しい」 「お狐さん、私ね、もうすぐ引込新造になるんですって」 「それはめでたい。青藤殿に一歩近づいたのですね」 「まだまだよ。それに、……私もねえさんの様になれるかしら」 「葵ならなれますよ、以前よりずっと美しくなられた」 「……あのね、お狐さん。明日から私、」 愈々突出しを翌日に控えた日。 一人前の遊女になるお披露目を翌日に控えた日。 普段と同じく影ばかりの狐が葵に怖ず怖ずと声を掛けた。 「葵、窓を開けては貰えませんか。最後に一目、貴方の顔を見せては頂けませんか」 最後に一目、という事は。 彼はもう私を訪ねては来ないだろう、と察した葵は静かに窓を開けた。 赤い格子の先に見たのは、美目麗しい銀髪の男。 「お狐さん、どうしてねえさんは、こんな所に来てしまったの、」 「……葵、」 「お狐さん、どうして私は、一人の単なる女でいられないの」 「あ、おい、」 「出来る事なら、私、お狐さんと結ばれたかった、」 赤い格子を掴む白く細い指が小刻みに震えるのを見て、美叶璃は眉を顰めた。 そうして、いつか、恩坩がそうした様に一つ一つ丁寧に格子を取り外し、葵の体を抱き寄せたのだった。 「お狐さ、」 「美叶璃。私の名は美叶璃です」 「美叶璃様、私を置いて行かないで。ねえさんと同じ様に、私を攫って、お願い、美叶璃様っ、」 仕方ないですね、と暫時の沈黙の後呟いた美叶璃が小さな体を抱き留めて、七宝屋を後にしたのは丁度零時を過ぎた頃。 葵が十七を迎えたその日の事だった。

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