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【番外】藤花の独白

私が彼を初めて見たのは、春も終わり、初夏の風を感じる丁度藤の頃でした。 夜々中の心地好い闇の中に禍々しい瘴気を含んだ真黒い深淵の闇の気配を感じて、月夜に微笑む花が顔を隠し、星々に手を振る葉が蕾み、誰とも分からぬ魑魅に備えたのです。 普段は朝夕厭わず愉快に踊り、高山の谺を真似て楽しむ木々の葉達さえも静まり返り、贄殿表はしんとしました。 その後、ほんのりと燻る様な臭いが漂い始め、私達は山火事を恐れたものです。 しかし、山火事を知らす烏を始め、獣も妖も一匹たりと騒ぐ事はありませんでした。 彼等もまた、得体の知れぬ何かへの恐怖を抱えて塒に隠れていたのでしょう。 なれど、私達の塒は私達自身、離れて仕舞えば迫りくる何かに荒らされ、乱され、そうして最後には殺されてしまうのです。 唯只管に、恐ろしく、緊張感が張り詰める居心地の悪い時が、どれ程続いたでしょう。 風通しの悪い、黴や胞子が根を張りジメジメと、ジュクジュクとした湿地に移植されてしまったような心地が続きました。 其れ、を漸く認識できたのは、私達が最早呼吸すら苦しくなってきた頃でした。 燻る様な臭いが強くなり、焦げ臭さが鼻を突き、眩暈を感じながら見据えた闇の先に欝々たる汚泥の様な湿った闇が蠢きました。 其れは生きているとも死んでいるとも見当つかぬ、人とも妖とも獣とも見当つかぬ、そんな不安定な暗黒でした。 非常にゆっくりと蝸牛か蛞蝓の様に緩慢な其れは、一つ近付く毎に苦痛と悲哀を訴え掛けました。 疫病神より尚酷い、悪気と遺恨を纏った害悪な者のように見えました。 私が其れを女性だと認識したのは、彼女が両の手に抱く赤子の姿が見えたからでしょうか。 それとも、彼女が歩いた道が瘴気に塗れ、葉が枯れ萎れる中で、赤子だけは元気な姿を保っていたからでしょうか。 何れにしても、彼女の深い母性と、それから慈愛の心が赤子に対してだけは窺い知れました。 「如何なされたのですか」 私の声は震えていなかったでしょうか、今となっては思い出すことも出来ませんが、彼女に声を掛けたのは私だけでした。 背後には、妹達が震えて怯えていたのです。彼女が藤の下を潜れば、妹達は瘴気に中てられて見るも無残に散ったでしょう。 彼女は、何も言いませんでした。 暗黒の中に白目と黒眼は確かに確認しましたが、私が見る限り口と思しき物が無かったからかもしれません。 何かを言おうにも伝える術が無かったからなのかもしれません。 目の前にやってきた彼女からは、燃え滓の様な臭いと、それから人の血の匂いがしました。 思うに、火事か戦か。けれども、最近の贄殿裏では戦は無いと聞いていましたから、多分彼女は火事に遭ったのだろうと思います。 高貴に振る舞いなさい、桜とも向日葵とも違う、凛とした強さを持ち、いついつの日もしゃんとしておりなさいと、かつて母は言いました。 故に私は、背筋を伸ばし起立して彼女と対峙したのですが、話すに程好いけれど、彼女の瘴気の範囲の内側に居続けるのは非常に不愉快でした。 爪の先が黒ずみました。いつか贄殿裏で流行った結核のように肺が痛み、息が苦しく意識がぼんやりとして、今にも卒倒してしまいそうでした。 しかし、私には妹が。彼女には胸に抱く赤子がいたのです。 「如何なされたのですか。人にありながら、人になく。私達の哀れむ心さえ身の糧にして、当に死の迎えが来たにも関わらず、拒む余りこの贄殿表に来たのでしょう。まだ生き永らえる我が子を抱いて」 暗黒の中に、目が二つ。その瞳が悲しみに揺れ、そして濡れるのを見ました。 最早、世は私と彼女の二人だけのような錯覚に陥りながら、爪の黒ずみがひたひたと指まで上がってくるのを感じながら、彼女を見詰めました。 矢張り彼女は、物一つ口にする事はありませんでした。 沈黙の時が流れます。 彼女も私も真摯に互いを見詰めましたが、それだけの事でした。何をするでもなく、何を仕掛けるでもなく。唯々立ち尽くし、見詰め合っているだけでした。 見ようによっては、困り果てているように見えたかもしれません。 そこで私は一つ、彼女に提案をする事にしたのです。彼女の琴線に触れるやもしれない、危ない賭けでした。 「赤子を。赤子を預からせてはくれませんか。貴女はもう、その子を持て余しているのではありませんか」 ずるり、と肉が骨から抜け落ちるような音がしました。彼女の暗黒は屹度、焼け焦げた彼女自身だったのでしょう。 赤子の将来を見るに見れぬ、悔やむに悔やみきれぬ母の念だったのでしょう。 何らかの理由で死に至ってしまった彼女の悲しみが、彼女の今の真黒い姿だったのでしょう。 指の一本一本も分からぬ炭のような手で赤子を私に差し出した彼女に、もう目はありませんでした。 ただ目を伏せているだけだったのかもしれません。 先程まで目があった位置には、唯々暗黒の闇があるだけでした。 私は、彼女から赤子を受け取りました。 その時、彼女の手だったものが触れた両の手が腐るのを感じながら。 彼女は屹度、時機に何者でもない何かになるのでしょう。 赤子を受け取った後も、彼女は微動だにしませんでした。 唯、私の目の前に暗黒が佇んでいたのでした。 今にも意識を失ってしまいそうな感覚を必死に繋ぎ留めながら、胸の中の赤子に視線を落とすと穏やかな顔で眠っていました。 目鼻立ちの整った美しく、愛らしい赤子でした。 汚れてはいるものの、少しも焼けた形跡のないお包みに包まって眠っていました。 「藤の花稚児達よ、妹よ。どうか姉さまの頼みを聞いてはくれませんか」 「はい姉さま」 「姉さまのお頼みなら」 「私たちは喜んでお聞き致します」 「よい子達。どうかこの人の子を貴女達で囲っておいてくれませんか。もうすぐいつものあの狢がやってくるでしょう。そうしたら、人の子を見せて、お巡りを呼びに行かせるのです。彼ならきっと、人の子を大事にしてくれるでしょうから」 「はい姉さま」 「私は、彼女と泉へ身を清めに参ります。この事は内密に。悪名高い妖怪が攫った子を置き去りにした、と伝えるのです。彼女に汚名を与えてはなりませぬ。哀れな優しき母君に」 「はい姉さま」 「姉さまは、いつお帰りになるの、」 「あたし達の姉さま」 わらわらと集まった妹達の頭を撫でるのは憚られました。 何故なら、もう既に私の手は私の手ではなかったからです。 もう感覚がありませんでした。赤子を抱きながら垣間見た自分の指は、手は、彼女と等しく真黒い暗黒でした。 いつ戻るのか、と問う妹達に妥当な返事は出来ない儘、赤子を藤の根元に寝かせました。妹達には微笑みを一つ。 妹達は不安を滲ませながら見上げていましたが、上手く答える事は出来ませんでした。 愛しい愛しい妹達を残して遠出をするなど、姉様にとっても辛く寂しい事。更に、この手はもう呪いの様な物を受け、感染力を持っているのです。何か、それっぽい、優しい嘘の一つ掛けてあげられる程聡明だったら良かったのにと歯痒い思いを覚えながら、唯、微笑むしかなかったのでした。 それから、私は未だに立ち尽くす彼女を振り返り、此処から少々離れた泉へ向かう事を改めて心に決めたのでした。 「母君、清めに参りましょう」 「青藤、まだ聞きますか?この藤女の些細な思い出話を」 「今日はこれ迄で良いよ。続きはまたの機会に」 藤の根元に背を預け、片膝を立てて座る青藤の頭上、藤棚に腰を掛ける藤女。 名は藤花(とうか)と言うらしかった。 長く伸ばした前髪は彼女の顔の右半分を覆い隠し、両手には絹の手袋があった。 曰く、生まれつきに酷い火傷の痕があるらしい。 彼女が彼女として初めて目覚めた時、それは藤の朽木に百年振りに芽生えた新芽だったらしい。 けれど確かに、彼女には前代の彼女の記憶があって、前代の彼女が呪いの様なものを受けたと同じ場所に火傷の痕があったと謂う。 花の精霊、と言うのはそういうものなのですよ、と藤花は綺麗に笑った。 「私を恨んでおらぬか、憎くはないか」 「いいえ、私は。それに私等の守神様をお恨みするだなんて」 遠くを見詰めながら問う青藤に、またもや藤花は綺麗に笑って答える。 「美しゅう育ったのだね。それで、私等を護る神になってくれたのだね。いとしい青藤、さぞ母君もお喜びになられる事でしょう」 前代の言い回しを真似た藤花を見上げた筈が、そこにはもう藤花の姿は見えず、葉や花や蔓の間から月夜が覗いているだけだった。 彼女の“口止め”は、森中に、そして恩坩が愛用する付喪神が憑いた冊子にまで届き、彼女本人が口にするその日まで、誰も何も語る事は無かったのだそうだ。 前代の彼女の記憶、今宵青藤に語って聞かせなかった中には、謗り言も多くありました。 泉で、何故私が、何故私ばかりが、と啜り泣いた事。 黒ずんだ肌は決して治らず、何度も何度も自害を考えた事。 二度目に会った彼が憎く、恨めしいけれど、体のいい死の理由になるからと救った事。 身も心も穢れてしまった事を気に病んでいました。 だけどね青藤、次また同じ様な事があった時。 きっと貴男も前代の彼女と同じ様に、私達を守ってくれるでしょうから。 だから、私達は貴男を盾に、そしてお巡りさえも盾に、守られた庭で健やかに育ち安らかな眠りに就くのです。 私達は貴男を憎んだり、恨んだりは致しません。 頼り、にしているのです。 藤棚で一人きり、姿を現した藤花はそんな風に心内で語り続けて月夜を見上げたのでした。 綺麗に笑って。

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