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【番外】狐の十戒

「どうだ、こちらの世にはもう慣れたか」 「何を今更」 窓際の文机で物書きをしていた恩坩が不意に顔を上げた。視線の先には窓に腰掛け月が照らす庭を堪能する青藤の姿。 ふと何かを思い出したかの様な恩坩の口調に青藤はくすりと笑う。 こちらの世、所謂妖の世に来てもうどれ位になるだろうか。最早数えるのさえ億劫になる程長い間暮らしている気がする。以前の暮らしの事などもう忘れてしまいそうだと考えながら青藤は目を細めた。 「私が来て、もうどれ位になるだろうか」 「さあな、皆目見当もつかん」 「ならば、お前は。お前はどれ位おるのだ、ここに」 「……」 答えぬか、それとももう忘れたか?そう言いながら振り返った先、無表情の恩坩を見る。思わず溜息を洩らそうと、苦笑いを浮かべようとその表情は変わらない。 御法度な話題だったかと少々の反省をしつつ、青藤は恩坩へと歩み寄る。 その間に、警戒する様な、怒気を含んでいる様な雰囲気を纏う恩坩に肩を竦めて、頬へと手を伸ばした。 「何よ」 「……煩わしい事を聞くな」 「知りたいのよ、私は。私は、私と会う前のお前を一つとして知らぬから」 「何も無く、知らぬ間に随分と時が流れた。過去の日など全て平々凡々に過ぎん」 「嘯くな。見え透いた嘘を」 ゆら、と揺れた瞳を見逃さない。 淋しゅう思うた日もあったのではないのか。初めて恋に落ちた日もあれば、息苦しい程の失恋をした日も。酷く幸せで浮かれた日もあるのではないか。 深く問い詰めようとした時、珍しく泣きそうな恩坩の顔に胸が締め付けられた。 「大事な奴でも亡くしたか?そんな顔をしておるよ。昔の人を思い出している様な、そんな顔を」 「山ほど失うた。もう飽いた、それ程失うたが、それが何だと言うのだ。なぁ、青藤」 それを聞いてお前の何になる、と。続く言葉が聞こえた気がした。 「その中に、恋い慕う者も居ったのか」 「無論」 「そうか」 沈黙が流れた。 青藤は微笑を浮かべ恩坩の頬を撫でる。その柔らかな表情とは裏腹に心中には様々な感情が渦巻いていた。 少しばかり妬ましい。今尚恩坩の心の中に居付く影が。今は恩坩は私の恩坩なのに。未だ嘗て抱いた事のない嫉妬と独占欲が腹の底でぐるぐると蜷局を巻いている。 美しかったか、私より。青藤花魁より、美しゅうて目が痛む程だったか。 意地の悪い愚問は喉に瘤を作って表に零れ出る事は無かった。 「二度も三度も、何度も失うた者が」 忘れられぬよ、と獣の目をした恩坩が沈黙を破った。 嗚呼、愛しさが垣間見える。憎い目だ。 ぱしん、と。 相変わらず獣の様な目をした恩坩が頬に当てられていた手を乱暴に掴み己の懐に青藤を閉じ込める。 「兄と共に山に捨てられ、兄が獣に喰い殺されるのを目の前に、兄の名を叫び泣く小僧も。身を毒に犯されても身を売り続け、遂に果てた格子に囚われた花魁も」 「……っ、」 「親に捨てられ身も心も粉にしながら給仕をし、最期は主人に嬲り殺された坊主も。縁側で仲良う毬遊びをしていたのを、山賊に斬り殺された哀れな姉妹も」 「っもう、」 「お前が聞いた事だろう。責任を持って聞かねばならぬ、それが道理だ」 顔を伺う事も許されぬ儘、刃を思わせる鋭い口調で恩坩が紡ぎ出した言葉。 遮れば、更に鋭さを露わに咎められ、青藤は身動き一つ出来なくなった。 嗚呼、恩坩、お前という奴は。 「下人として買われ、幼き身に鎧一つ与えられぬまま討ち死にした男子らも。私を庇うて死んだ武者も、垢塗れで飢えて死んだ屋無し子も、皆」 「…っ、ふッう、ぅ」 「嗚呼。妖に攫われ山中で泣き、妖の世に馴染み切れずに息絶え。我が情けで甦生させ元の世に戻せば鬼に巣食われ再び息絶え、それでもと掛けた我が最後の情け諸共山藤に吸い尽くされた美しい人の子が」 忘れられぬ私の心、お前には解せるのか青藤。 酷く傷付いた口振りで、何時の事やら昔失うた人々の事を語りつくした恩坩の腕は状況に似合わず酷く優しかった。 嗚咽が意図せず漏れた。 「恩坩」 「何だ」 「私にはわからぬ」 「……ッ」 「だが皆居るよ。皆居るじゃないか」 お前の手の届く、所に。 胸の中から恩坩を押し倒し、虚ろな目をした恩坩を青藤は見詰める。 色濃い後悔が伺えた。何を今更。 「皆、お前を頼り、甘え、此処にまだ居るじゃないか…っ」 「皆勝手に私が、」 「甘んじて受け止めておる。皆。皆、お前と。恩人の恩坩と新たな生を共にと好んで此処に居るのよ」 「ちが、」 「違わぬ。違うなら何故此処に居座るか。お前が拘束しての事か。恩坩。皆、今が程良いから此処に居る。お前の優しさに甘え、謝意を胸に、此処に留まっておるのよ」 改めて死にたいと嘆いた奴は居らぬだろう、と優しく問い掛けると、お前以外には、と涙声の返事があった。 つられて、青藤も目に一杯涙を溜めながら微笑う。 「私は今、私の意志で此処に居るよ。居り続けておるよ」 「もう去らぬか、」 「もう去らぬよ。宵が去り、朝が来ようと」 私は此処に居るよ。 覚悟、とは。 改めてした覚えもなく、決意した訳でもないが、何時の間にやら出来ていた。 優し過ぎる、狐の為に。人一倍寂しがり屋で、傷付きやすく、時に責任に押し潰されそうになる強く、そして弱い狐の為に。此処に居ようと。思う。強く。強く。 私は此処に居るよ。居り続けるよ。 覚悟は出来ておるよ。 お前と半永久的に続く生を重ねて行きたいのよ。 泣きじゃくる恩坩を抱き締めて眠った。どちらが先に寝付いたのかは知らぬ。 ただただ、愛しゅうて愛しゅて堪らず、初めて内に隠すものを吐露した狐を慰む為に。 自分の欲故に勝手に生を繋げてしまった、と自責するのを断固否定する心を伝える為に。 青藤は必死に、恩坩を抱き締めて眠った。 翌日、屋敷の主とその伴侶にあたる者は一切、姿を見せなかった。 営んでいるのか、と余計な節介を働いた双子が様子を伺うが、その様な感じではない。 運ばれた飯にも手をはつけられておらず、ほんの一寸も襖は開かかぬ。 そして、中は営むどころか、しん、と静まり返っている。襖を開けようにも酷く強い結界の所為でびくともしない。 双葉達は首を傾げ、佐代を頼るが佐代も分からぬわよう、と降参で部屋に入るのは困難な様だった。 「珍しいのう」 「まったくじゃ!」 「どうしたのかしらねえ」 一方、其の問題の部屋の内では布団に包まった家主と、文机に向かう伴侶の姿。 起き掛けに、すっかり拗ねた様子の恩坩が、今日は一歩も部屋から出ぬ、お前が出る事も許さぬ、と言うたのを青藤は律義に守っている。 背後の襖越しに聞こえる滑稽な会話も全て聞こえている。 だが、くすくすと一人笑いながら、偶にはこんな日も良いだろうと暢気なもんだ。 分厚過ぎる冊子を捲り捲り、ふむふむ等と感心する余裕さえある。 薄暗い部屋で読み物をするのは難儀だが、漸く上ってきた朝日が随分と読み易くしてくれた。 それが合図だとばかりに引き出しの中より半紙を取り出すと筆を滑らせた。 その日最後の食事を狐坊が運ぶ。今じゃなくとも、後に腹が空くやもしれぬからと。 全くこの屋敷の妖は全て節介焼きである。 恩坩用のいなりと、青藤用の白飯と焼き魚を載せた盆を床に置く。 その時、襖に挟まれた半紙を見つけたのだった。 屋敷の主とその女房にあたる者が一切姿を見せなかった日の明くる夜。 足音一つ立てぬ高貴な歩み方の男を筆頭に屋敷中の妖が列を連ねて主の部屋を訪ねた。 常日頃は襖を開ける前に一声掛けるのだが、それも今は邪魔臭い礼儀に過ぎない。 普段は礼儀正しく由々しい筈の男は無言で無理矢理に襖をこじ開けた。 文机に向かう主。窓に腰掛け月夜を眺めるその伴侶の背。 絵になる光景だ、と男は瞬刻見惚れた後口を開いた。 「兄上。小生は、こうして今、この場の如く兄上の背を追い生きて参りました。畏れ多くも其方は小生の夢であります、希望にあります。小生は何時の日も兄上、貴方様の弟であります。存命の限り、小生は貴方の弟でありとう御座います。どうかこの若輩者に是認を」 「お巡り、お巡りはわしを殺したりはせんじゃろ?わしの飯を美味しいと食うてくれるじゃろ?わしはそれが嬉しいんじゃ!食うてくれぬとも、わしは飯を作り続けるぞ!お巡りの為に、お巡りを思うて作るぞ!良いじゃろ?…良いじゃろ?」 「お巡りぃ。私は幸せなのよう?格子はもうないでしょーう?専用の部屋も頂いたわよう。幸せだわよう。まだ居てもいいでしょう?時々、お伽を聞かせる位しかないけれど、私はここが好きなのよう」 「やかま、しい」 文机を前に、皆には大きく見える背中が揺れていた。それを横目に青藤が微笑んでいる。 ふたば、と青藤が声を出さずに双子へと合図を送る。喋りたくてうずうずしている様だったからだ。 「お巡り!らしくないぞ!わらわ達のお巡りじゃないみたいじゃな!毬で遊ばぬか?わらわ達と遊んでくれぬか?ずっとじゃ、ずっと、ずうっと!」 「お巡りはわらわ達と遊ぶと決まっておるのじゃぞ?そうじゃぞ?それがわらわ等を助けたお巡りの仕事じゃろ?」 「やーいやーい、お巡りめ!辛気臭いぞ!どーれ、おいら達が元気づけてやろうか!」 「戦いは嫌だーい。おいら達はいつでもお巡りと幸せに楽しく居たいんだーい!許せー許せ―!」 「今まで通り勝手に、すれば良いじゃないかッ。喧し過ぎて物書きが全く進まぬ!」 「恩坩、皆皆、お前の為に心内を語り、お前の傍に居させてくれと言うておるのよ」 振り向き、皆に顔を見せる事はない。 しかし、不器用で寂しがり屋な恩坩の耳には皆の声と思いが確と伝わった。だからこそ振り向く事が憚れる。 青藤は唯事の成り行きを見守った。 「美叶璃、お前は私の弟だろう。今更な事を言うのも大概にせねば其の首喰い裂き庭に飾るぞ。狐坊、最早お前の飯でなくば喉を通らぬ。その位分かっての我が給仕ではないのか。佐代、暫くお前の伽草子を聞いておらぬが?お前が噺を語り尽くす前に私が死なねば良いのだがな。双葉も鳴家も存分に遊べ、時には相手もしてやろう。皆皆好きに致せ、今まで通り。先もその先も、またその先も」 御意、飯ならもう出来ておるぞ!、良かったわあ、ならば今から遊ぶぞ、やーい遊べ遊べ! それが、皆皆の答えだった。 少しばかり曇掛かっていた恩坩の心に光が差す。 目尻を流れた一筋の涙を背後の連中には知られぬ様に指で拭うが、その全てを隣に居た青藤だけは確と見ていた。 そうして、部屋に訪れた妖を見詰め、ありがとうと呟く。 「皆、此処におるな。恩坩の為に。良かったな、恩坩」 「……うむ」 それからは、昨日が嘘の様に鬱陶しい程の賑やかさであった。 狐坊の用意した飯を食うや否や、恩坩は双葉に手を引かれ、鳴家に追いかけ回され、床につけば今度は佐代が伽を語った。 「恩坩、私も皆も覚悟はしておる。お前の覚悟は出来ておるな?」 「無論」 「なら良い」 ふふ、と今回人一倍恩坩に世話を焼いた青藤が笑った後で恩坩に覆い被さった。 「どれ、相手をして貰うたのは何時だったろう?」 「皆目見当もつかぬ」 「惚けるな」 私の一生はだいたいxxx年からxxxx年。あなたと離れるのが一番つらいことです。どうか、私と暮らす前にそのことを覚えておいて欲しい。

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