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【番外】恩愛の絆
近頃、青藤は度々屋敷を抜け出しては妖達が眠る間中帰って来ないというのが常であった。
皆が起き出す前に帰って来たかと思えば、藤に身を潜め、妖達が盛んに行動する時分中、睡眠を貪っている様だ。
また、帰って来ぬ日も最近は多いらしい。
何をしているのか、何の目的があるのか、屋敷中の誰に問うても誰一人として知らぬ。
九十九神となった冊子を開いても、青藤の頁に詳細は全く更新されず、神同士謀り合って隠蔽しているのではないかと当主である狐の恩坩は狐疑していた。
初めの内は、普段の気紛れか息抜きか程度に捉えていたが、三日五日、七日を過ぎ、遂には一月となれば恩坩とて危ぶみ出す。
朝夕の喫飯にも顔を出さぬ上、言葉は愚か青藤の顔すら見掛けぬと各々に訝しがる妖達もまた、恩坩と等しく、近頃の青藤の挙動を狐疑していた。
「はっはっは!そりゃまた心配だろうが、誠、大藤守らしいではないか!なあに、神には神なりの務めがあるのだろう。それが済めばまた戻ってくるに違いないさ!」
「せめて何か言うてからにして貰いたいのだ、それが道理だろう?」
「御巡り、お前とて、何も言わず二百もの年月眠っていたと聞くが?」
「……誠、お前との合酌はつまらん」
縁側に腰掛け酒を酌み交わすは、恩坩と烏天狗の空知坊。
ぐうの音も出ない恩坩は、ふん、と鼻を鳴らした後、猪口に並々注がれた清酒を一気に飲み干した。
すると、気を利かせた空知坊は猪口へ酒を注ぐ。
「生涯一人身のお前には解せぬ気色だ」
「やれやれ左様な気色に苛まれた暁にゃ、この両翼腐り果てては嘴も欠け、天狗の肩書なども失い、素寒貧になろうな」
「は、この私が尾を失い、力を失い、素寒貧だとでも言うのか?この空狐様を目の前に小天狗如きが、よくもまぁ生意気な口を叩きよって」
「ええい下戸めが。たかだか愛でる者一人姿を見せぬ程度で小天狗なんぞを呼び出しおって、くだを巻きよる…その姿の何処に、由々しきお狐様の面影があると抜かすか」
何時何時乱闘騒ぎへと転ずるか。
不穏な空気が流れる縁側に近寄る者は誰一人として居らず、家神までもが恐れ慄き、ぐらぐらと屋敷を揺らす。
「狐坊!もう一升、早う持って来い!」
空知坊の言う通り、然程酒を飲まぬ筈の恩坩が、今宵目覚めるなり胃の腑に流し込んだ酒の量は既に三升。
自他共に認める大妖怪の肝の臓は、そこらの妖よりも立派であり、たかが清酒三升程度では傷みもしないが、唯一つ。
恩坩の酒癖の悪さが天下一なのだ。
憚りながらも、四升目となる酒瓶を運んできた狐坊は、うんともすんとも言わず縁側を去る。
滅多に酒に手出しせぬ恩坩が、見境なく酒を飲む時、近寄る者は数少ない。
狐坊も双葉も、いや、屋敷中の妖達が、以前止めに入り酷い目に遭うた。
こうなった恩坩は止められぬ。
やれ、次は煙管だ、霊草だ、と次々に非行に走り、悪酔いの上毒素が回り臥すに至る迄、延々とこの調子。
此処暫くで、すっかり依存しきった青藤の不在は、思いの外恩坩の精神を甚振ったのだった。
一方その頃、大広間に集った妖達は、乱暴狼藉をはたらく当主と、その女房に類する者の不在による、屋敷全体の雰囲気の悪さに打ち拉がれていた。
「誰か、青藤の在処を知る者は居らぬのか…、御巡り殿に酒を運ぶわしの身も考えてはくれんか…」
「わらわ達とて知らぬぞ…」
「そうじゃそうじゃ、青藤が居らねば、わらわ達とて退屈なのじゃぞ…?」
「おいら達も知らぬ!縁側の上には近寄りも出来ぬ!」
「おーさーよーもーしーらーぬーかーえー?」
「おーさーよーなーらーばー…しーっとーるーのーでーはー?」
狐坊の嘆息交じりの言葉に、双葉も鳴家も首を振る。
ぬぼぉ、と低く唸る様に言うのは、天下りと天舐め。
青藤の良き理解者であり、恩坩と同じ程に信頼関係を築く佐代に一同の目が集まる。
「し、知らぬわよぅ…っ」
びくりと跳ねた、襖の影は儚げに揺れる。
御巡り家の一大危機の今、嘘を吐ける程度胸が据わった妖ではない。
何時の間にか、風呂場より広間へと上がってきた垢舐めさえもが大きく項垂れた。
縁側からは未だ、恩坩の怒声にも似た荒々しい声が聞こえてくる。
最低でも三日三晩は、狐坊は寝ずに酒を運ばねばならぬだろう。
双葉や鳴家などの他より幼い妖も、喧しさと恐ろしさに眠れぬと見える。
佐代や垢舐めとなれば、心配でおろおろとするばかりで、矢張り眠れぬ。
兎にも角にも、屋敷中がざわめく日々が続く様である。
さて、恩坩の終わらぬ酒の席が二日目に差し掛かった夜。
前日の空知坊からの話を聞き付け、本日は恩坩と同格の空狐である美叶璃という雄狐の遠来である。
この美叶璃という者も、また秀でて美しい身形であり、妖艶さ漂う風貌。
銀糸の如き頭髪が麗しく、慇懃な態度が全ての者を魅了するのだが、恩坩よりも後に空狐となったと聞く。
「酒色に沈溺されておられる様ですが、お加減は如何ですか兄上」
「…美叶璃か、」
「然様。今朝早くに空知坊の遣わした鳥より、其方の有様を悟った故に。兄弟の危急存亡の時とあらば、この美叶璃、至急駆け付けねばと」
「大袈裟な。まぁ飲め、久々の顔だ。美味い酒になる」
「欣快の至り、一つ賜りたく存じます」
大力を留める髪紐を解けば恩坩の髪も、美叶璃と同じ白銀となる。
縁側に空狐が二人、肩を並べて酒を酌み交わす姿は、例え後ろ姿でも神々しい。
それはそれは珍しく、先日とはまた違った畏怖の念を覚えた屋敷中の妖が縮み上がる程。
「聞く所に縁れば、大藤の守男神が行方知れずとの事でありますが」
「ああ」
「其方の連れ合いは、出奔が好みと見えます。流石の兄上とて、持て余していらっしゃる様で」
「元は人の子、此方の世を深く知らぬ内に神と位置付けたが失策だった」
「何れ戻って来ましょう。此方へと参る際、折しもくだんと出会しまして、大藤の守の帰着に関する吉報を頂きました」
「無縁な事だな」
「ふふ、旧態依然なお方、辺幅を良く飾られる」
兄と慕う美叶璃を、弟分として取り扱う恩坩。
同腹の兄弟の様な二人に、縁の先の若々しい花木が笑っている様である。
しかし、厳かに進む話の傍ら、恩坩は無作法に酒瓶から直接酒を胃の腑へと流し込んでいた。
美叶璃が七升、恩坩が十升と五合の清酒を飲んだ頃。
白み始めた空が、早朝を教える。
「兄上、小生はこれにて」
「ん」
「小生の連れ合いも兄上と同じ気色の様でありまして、裾を濡らす姿が目に浮かぶ様です」
「溺愛されている訳か」
「それは、青藤様とて同じでありましょう。兄上をこの様に焦がれさせて、罪作りな方だ」
「喧しい」
「…失敬。それでは」
瞬く間に狐の姿と変化した美叶璃は、一蹴りの間に遠くへと駆けていった。
一人となった縁側で、恩坩は残りの五合を飲み干しに掛かる。
『此方へと参る際、折しもくだんと出会しまして、大藤の守の帰着に関する吉報を頂きました』
美叶璃が伝えた事に、ずっと左胸が痛みっ放しだ。
くだんの言う事に嘘はない。
故に、期待ばかりが募り、気が狂いそうな程に青藤を焦がれる心が激しく動く。
悩ましく、悩ましく、苦しい。
それを打ち消さんと、煙管に霊草を詰め火を灯す。
芥子より即効性のある高揚感に酔いながら、思考を虚ろにしていく。
然もなくば、平常を装ってはいられなかった。
「──……、恩坩?」
「ッ、」
目映いばかりの陽の光が縁側に降り注ぐ。
虚ろな世界に、薄紫が良く似合う者の姿が映った。
「…、酒と、まやかし草……、」
「青、ッ」
徐々に歩み寄って来る青藤の其の顔が険しく歪んでゆくのと同時に、恩坩は立ち上がった。
二日半に及ぶ飲酒と、霊草の所為で随分と素寒貧な形となった自分に、青藤が蔑む様な目を向けている様な気がした。
「め、ぐる……ッ?、やめッ」
大きく振り被られた拳に殴られると覚悟した青藤は咄嗟に、頭を隠して屈み込む。
が、予想に反して、来ると思われる衝撃は一向に来ない。
恐る恐る目の前の恩坩を見上げると、拳を振り翳した儘の体勢で今にも泣き出しそうな顔をしているではないか。
「恩坩、」
立ち上がり、然程身丈の変わらぬ男の手を引いて抱き寄せると、崩れそうに脱力するものだから、少々慌てる。
肩口に顔を埋めた恩坩の嗚咽が聞こえる。
大の妖怪様様が、背中を震わせながら泣いていた。
「……す、まなかった」
「う、っく…ぅ、ふッ」
「御免、御免」
恩坩の荒れっぷりも、空知坊や美叶璃の来訪も、御巡り家中の妖達の騒ぎも。
何一つ知らないお気楽な青藤は、ただただ恩坩の背を撫で、慰める。
「夜通し、飲んでいたのか…?酒とまやかし草の臭いで鼻がもげそうなのだけれど、」
「お、前がッ…、」
「あ、ああ、ご、御免御免、兎角、今日は恩坩と眠りたいのよ、私とて…ね、?」
がくがくと震える恩坩に戸惑いを露にした所で状況は何一つ変わらない。
縁の先で、恩坩が落ち着くまでと立った儘抱き締め続けるしか青藤には選択肢が無い様だ。
どれ程経ったろうか、漸く落ち着いた恩坩が自ら体を離して、やっと青藤は解放されたのだが、俯いて長い髪で顔を隠した恩坩は何も言わず、屋敷の中へと入って行く。
縁側には空の一升瓶が山程転がっていた。
常人離れしたその酒瓶の量に、やっと事の重大さに気付くが、其れを飲み干した張本人に問い詰めた所で、今は何の返答も得られないだろう。
尚且つ、一月もの間、無断で姿を隠していたのが原因であろう事も分かっているから、ばつが悪い。
悩ましい展開に、青藤は髪を掻き乱しながら、屋敷に入った。
少し先を千鳥足で歩く後ろ姿の痛ましさと言ったら、何とも言い難い。
するり、と開いた襖を潜るや否や、またも崩れる姿に慌てて駆け寄る。
「めぐ、」
「…青藤」
「あ、あぁ、ん、ん?」
「っ、んでも、ない」
部屋の入り口でへたり込んだ弱々しい恩坩の姿に、青藤は再び髪を掻き乱したが、ふと懐に手を突っ込み、中から何物かを取り出す。
そして、其れを恩坩の首へと掛けた後、白銀の髪を撫でて遣った。
「藤雲石と狐水晶…それから持参した翡翠を砕いて作った、首飾りだよ」
「解せぬ、」
「一つ位、恩返しをしたかったのよ。いつも恩坩には世話になりっ放しでは、私とて肩身が狭い」
「解せ、ぬっ、解せぬ、」
「お前の誕生日とやらも、私は知らぬし…、二百年と少々分の恩だ。恩坩とて、時には恩恵を受ける側にも回って欲しいのよ」
薄紫の玉と、透明な水晶の中に金の針状の鉱物が金色の毛の様に広がった玉。
そして、青藤が大切にしていた翡翠の玉。
三つが連なった胸元の飾りを握り締め、またも恩坩は嗚咽を漏らした。
その様子を背後から眺めていた青藤は、己の襟元から同じ型の首飾りを引っ張り出すと、目を細めて微笑む。
「揃い物なのだよ、恩坩」
「ッ、く」
「恋仲らしく、揃い物の一つや二つ、身につけていたいじゃないか」
「こ、の…大馬鹿者めッ、がっ」
狐の大妖怪ともあろう者が、威厳の欠片もない悪態を吐いている。
それがまた可笑しくて青藤は笑った。
「休もう。私も寝る間を惜しんで製していた故、疲れたのよ」
恩坩へ肩を貸し、狐坊が用意していてくれたのであろう床へと体を滑り込ませると、恩坩の腕が絡み付いてきた。
息苦しさを覚える程に、きつく絡み付く腕も、一時すれば緩んでゆく。
久方振りの安らかな眠りが、二人に訪れた朝だった。
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