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第7話

 引退を考えていると最初に伝えたのはルリちゃんだった。最初から事務所に旨を伝えることも考えたが、その前に個人的な相談を挟んでおきたかったのだ。  プライベートで訪れた個室タイプの創作料理屋で、司は意を決して口を開いた。引き留められることは覚悟の上での相談だったが、司の話を聞いたルリちゃんは少しもうろたえることなく平然としていた。 「だと思った」  そうぴしゃりと言い放つと、ルリちゃんは大皿に乗った料理を小皿に少し取って司に寄越してきた。あっけらかんとした態度に、司の方が面食らってしまう。 「いやいやいや。打ち明けるの結構緊張したんだけど」 「アタシにとってはそこまで重大発表ではないわよ。だって司ちゃん、付き合ってる人いるでしょ」 「え、バレてた?」 「むしろ隠し通せてると思ってたことに驚くわ。1年くらいずっといるでしょ」  自分はそんなに分かりやすかったのだろうかと頭を抱えていると、そのことを察したルリちゃんは「ま、気付いてるのはアタシくらいなもんでしょうね」とフォローを入れてくれた。本当にルリちゃんは人のことをよく見ている。  動揺を鎮めるためにアルコールを一気に流し込むと、司は今日までにじっくり練り上げた考えをゆっくりと吐露し始めた。さっきまでしらけた顔をしていたルリちゃんも、一応司の話を真面目に聞いてくれる気でいるようだ。 「今の恋人と長く付き合っていこうって考えた時に、やっぱり仕事のことがネックになって」 「男優業一本でやっていくつもりならそうでしょうね。だけど司ちゃんなら、今いる業界を踏み台にしてもっと広く活躍できるでしょ」 「それはそうなんだけどさ……」  グラスの淵をなぞりながら言いよどむ司を見て、ルリちゃんが大きくため息をつく。どうやら司が言外に滲ませた本音に気付いたようだ。 「まぁ……恋人と一緒になって、平穏無事に暮らしていきたいって気持ちは分からないでもないけど」  呆れたようにそう言うと、ルリちゃんはテーブルに肘をついて薄暗い照明をぼんやりと見つめた。憂いを帯びた横顔は、‘’彼女‘’の決して平坦ではない人生を物語っていた。それなりに長い付き合いの司にすらほとんど何も教えてくれないが、そうすることでかえってフラットな関係を築けているのだと、司はそう考えている。 「……で、男優を辞めた司ちゃんは何をして生きていくの」  物憂げな雰囲気から一変して、鋭さをまとったルリちゃんがぴしゃりと言い放つ。口には出さないが、「まさかパラサイトする気じゃないでしょうね」と言いたげなのがなんとなく伝わってきて、司はうろたえた。確かに今の仕事以外まともに経験したことがない身では、そう思われてしまうのも無理もない。 「知り合いの店を手伝うことになったんだ」  司がそう言うと、ルリちゃんはどこかほっとした様子だった。彼女が厳しい態度をとる時は、いつだって心配の裏返しなのだ。  知り合いの店というのは、正確には博臣がメニューの監修を務める洋風居酒屋のことだ。来年度にオープンを控えていて、年明けを目処に従業員を募集する際に、そこで司を雇っても構わないと言ってくれたのだった。ありがたい申し出に、司は何度も頭を下げた。  業界を引退することを博臣に伝えた時、博臣は最初自分が司のことを養うと言って聞かなかった。実際、博臣は同年代と比較するとそこそこの稼ぎを得ているし、司は司でしばらく生きていけるだけの蓄えは持っている。  だけど司が望んだのは、これからも博臣と共に生きていくことなのだ。パトロンの類ならいざ知らず、恋人と暮らしていくのだ。一方的に依存する関係ではいたくなかった。  人に寄り掛かることしか知らなかった自分にそう教えてくれたのは、他でもない博臣だったのだ。  オレンジががった照明の下で、司はルリちゃんにぽつぽつと胸の内を吐露した。ルリちゃんにしてみれば稚拙な考えかもしれない。そう思いながらも、自分なりに真剣に考えて出した答えなのだ。ためらいはなかった。  しかし司の予想に反して、ルリちゃんは何食わぬ顔で一品料理をつまんでいた。 「いやいやいや。俺の話聞いてた?」  食い気味に詰め寄ると、ルリちゃんは司の顔をじろりと見つめて口を開いた。呆れているはずなのにどこか恨めしそうなのは気のせいだろうか。 「聞いてたわよ。なんというか、お幸せにって感じ」  社長には早めに言うのよ、とだけ付け加えて、グラス内のビールを一気に飲み干したルリちゃんの、なんとたくましいことだろうか。ルリちゃんのやさぐれっぷりを見て、司は初めて自分がしていたことが相談に見せかけたノロケであったことに気が付いた。急速に酔いが回ったかのように、かっと顔が熱くなる。  しばらく黙ったままでいると、ポケットの中でスマートフォンが振動した。取り出して確認すると、画面にはメッセージアプリのポップアップが表示されていた。送り主は博臣だ。 『遅くなる?』  簡素なメッセージすら嬉しいだなんて、本当に自分はどうかしている。思いっきり頬を緩ませていると、一連の流れを静観していたルリちゃんが「彼氏でしょ」と口を挟んできた。 「なんて送られてきたか当ててあげよっか。おおかた、『まだ帰らないのか』とかそんな内容でしょ」 「遅くなるか聞かれただけだって」 「そんなの暗に『早く帰ってこい』って言ってるようなものよ。しばらく既読付けずに放っておいたら、今度は電話がかかってくるんじゃないの?」  ルリちゃんの提案は投げやりなものだったが、ふと魔が差して、メッセージを開かないままスマホをポケットに戻してみる。すると10分くらい経った頃だろうか。振動するスマートフォンを取り出して画面を見ると、本当に博臣から電話がかかってきた。思わず目の前のルリちゃんと顔を見合わせると、すっと目を細められた。完全に呆れられている。 「出て来たら」  促されるままに個室を出ると、司は簡易スリッパを履いたまま人気のない場所まで移動する。その間も博臣がずっと電話を切らないでいることすら嬉しい。なんて言ったら、また呆れられるだろうか。  本当はポルノスターの仕事を続けても良かったのだ。自分の仕事にまったく引け目は感じていないし、永遠とはいかなくても、まだまだずっと人を惹きつけられるという自負もある。噂されているように、ポルノの枠を飛び越えての活躍だって夢ではないのだ。  だけどそうした未来は、司にとってあまりにも現実味のないものだった。だって業界の華である司の素顔は、やきもち焼きな恋人からの電話ひとつで舞い上がってしまうような、ただの幸せ者なのだから。

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