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ライカンスは嘘が嫌いだ。
このことを彼は極力公言することにしている。正義感溢れる警察官をアピールしているわけでも、誠実な人柄を自ら主張しているわけでもない。ライカンスは仕事に関しては真面目な自信があったが、誠実で正義感あふれるナイスガイではない自覚くらいはある。
嘘が嫌いだ、と声に出すのは単に名前の事で揶揄われるのが心底嫌だからだ。
「ウォルフェンソンなんて古めかしくて真面目そうな苗字はまあいいよ。別に嫌いじゃない。ただそれにクライヴなんて名前が付いたら最悪だってことに気づかせてくれたのはクソみたいな同級生達だよ。バカ共は馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返すわけだ。CRYWOLF(狼少年)!」
いつものこぢんまりとしたダイナーのカウンターで、ベーグルを齧りながら零した言葉は荒くなる。ライカンスが見た目よりも大味な性格だと知っている旧知の同僚は、美貌に似合わず口を大きく開ける金髪の青年を苦笑いで眺め、ライ麦のサンドイッチを齧った。
「いやぁ、久しぶりにその口上を聞いたよ。相変わらず君は、ライカンスなんていう格好いいあだ名を使っているんだなぁ」
「格好いいかね。いい加減恥ずかしい気もしてきたけどなぁ、今さらクライヴなんて呼ばれても反応できる気がしない。ここんとこ分署に居てもライって呼ばれるしさ」
「クライウルフ(狼少年)はダメで、ライカンスロープ(狼男)は大丈夫なのかい?」
「その質問二年ぶりだな、ドニー。二年経っても答えは変わらないさ、『狼男は月夜に変身するだけで嘘を吐く生物じゃない』」
気安い苦笑を漏らしたライカンスに対し、ドニーは窮屈そうに座ったスツールの上で柔和な笑みを浮かべた。
懐かしい質問をするドニーとは、同じ十七分署で働きながらもここ最近は時折挨拶をする程度の間柄だった。ライカンスとドニーが相棒としてシフトを組み、街のパトロールを務めていたのは二年前の事だ。その頃のライカンスはまだ新米で、随分とこのおおらかな男に助けられたものだった。
三十歳を前にして、また彼とパートナーになるとは思ってもいなかった。昨日までの相棒は、今はおそらくベッドの上でうなっていることだろう。
ライカンスの相棒であったリックがぎっくり腰で勤務困難になった、と知らされたのは今朝の事で、その場で相棒の交代を言い渡された。
リックは今朝、ベッドから転げ落ちて腰を痛めてしまったらしい。一体何をやっているんだあの馬鹿は、とライカンスは笑えない。つい頭より先に身体が動くライカンスは、冷静で判断を間違えないリックにかなり世話になっている。
一回りも年上の相棒のメールには、しばらく自宅バカンスだなと返信し、二年ぶりにきっちりと顔を合わせたドニーとがっちりと握手を交わしてからまだ五時間程しかたっていない。
ライカンスが彼と行動を共にしない間、随分と贅肉が増えたように思う。この二年間一体何を食っていたんだと問い詰めたい気持ちはどうにか抑え、彼の珈琲の横にあったチョコレートシロップをさりげなく奪った。
ライカンスは嘘が嫌いだが、肥満も嫌いだ。
美醜がすべてとは思わない。自分の顔も持て囃される割に好きになれない。灰色に近いアッシュブロンドを長く伸ばしているのはファッションではなく、括った方が管理しやすいという理由と短いと童顔に見えてしまうからだが、妙に似合う長髪が色気のようなものを出していると言われる。身長や生まれ持った造形には恵まれているとは思う。しかし見た目と性格は別のものだ。そうは思うが、どうも贅肉のたるみを見ているとなんとも言い難い気分になる。
犯罪大国アメリカ。そしてこの国は肥満大国でもある。
ベーグル&ロックスを齧りながら、明日からは彼にもベーグルを勧めようとライカンスは決意した。
ライカンスが朝からの第一勤務シフトで入っている際の昼食は、大概はこのメイプル・ダイナーで取ることにしていた。
比較的小さな店だったが、他のダイナーと同じくうまくもないがとにかく安い。ベーグルに関しては中々の味だったので、アメリカ人としては珍しくピザとコーラを好まないライカンスにはうってつけの店だった。
「しかし素敵なお店だね。こんな店がミッドタウンの端にあったなんて知らなかったよ」
「……パトロールの区域に入ってるだろ。同じ分署なんだから。確かに二年前はまだここは骨とう品やだか不動産屋だったけれど」
ふわふわとした見た目と同じように、のんびりとした口調で語るドニーに少々の不安が募り、思わずライカンスは眉を顰めてしまった。
「まさかパトロールをサボってたわけじゃないよな? 相棒は刑事に昇進したミスター・ロックスだろ?」
「勿論さぼってなんかいないよ。でも、全部の店の中に入ることはないから、メイプル・ダイナーがこんなに落ち着ける場所だなんて知らなかったんだよ。ロックス氏はとても真面目で、とてもきびきびした人だったし……真面目って言ったら、ライだって随分真面目だけれどね」
「相棒の胃を痛めない程度に気楽に街の平和を守りたいって俺も思ってるよ」
「いや、真面目なのは良い事だよ。僕は街の人たちからも『おまわりさんちゃんと走れるの?』なんて言われちゃうもんだから……狼王子の足を引っ張らないようにしなきゃ」
「王子なんてガラじゃねーけどなぁ」
俳優じみた外見のライカンスの事を面白がって、このあたりの人間は彼の事を狼さんだの狼王子などと勝手な事を言う。
ライカンスの少々ガサツな言動を知っていて尚そのように言うのだから、親しみを込めた嫌味のようなものだと本人は受け取っていた。
若いライカンスは、すっかり地域になじんだ警官として受け入れられていた。
最近は『狼さんは赤ずきんちゃんを見つけなくていいの?』などとおせっかいを焼かれる程だ。いい歳だし結婚はしないのか、と言われる事も増えてきた。先ほどもデリの店主に見合いを勧められるような言葉を投げかけられ、ドニーに笑われたばかりだった。
誰かいい人いないの? と言われる度に頭にちらつく顔はある。
その女性はいつも儚く、まるでライカンスの理想を絵に描いたような慎まやかな笑顔を絶やさない静かな花の様な人で、そして彼女は今珈琲を啜るライカンスの目の前のカウンターの中に居た。
リサはこのメイプル・ダイナーのウエイトレスの女性だった。
一目惚れに近しいものがあった。元々ライカンスはメイプル・ダイナーの常連ではあったが、半年前にアルバイトとして雇われたリサに一目で参り、それからは特にあしげく通うようになった。
元相棒のリックは勿論そんなライカンスの機微には気が付いており、ことあるごとに告白しろとむやみやたらに背中を押して来たものだ。
自分の顔と性格を信じろ、とリックは言った。顔は良いらしいが、それは誰しも好みがある。性格は良いのか悪いのか、自分では判断しがたい。警官向きなクソ真面目さは持ち合わせている筈だ。何しろライカンスは嘘が嫌いで犯罪や理不尽なことが死ぬほど嫌いだ。マーベルコミックの登場人物になるのが子供のころからの夢で、漫画家になってヒーロー物を描くかそれとも警官になるかで本気で悩んだことがある。
ただし、真面目だからと言ってそれが良いこととも限らない。
特に警官においては、怠惰なくらいが寿命を延ばすと言われることもある。
戦場の兵隊よりはましだが、それでも銃弾が頭を貫通する危険はいつどんな瞬間でも存在する。そんな街の、そんな職業だ。NYの犯罪率は下がったものの、他国に比べればアメリカの治安は良好とは言い難い。
そうあることではないが、殉職する同僚を見送る機会もあった。その家族の涙を見たライカンスは、恋愛の向こうにある結婚というものに少々の二の足を踏んでしまう。
ヘタレで臆病で馬鹿だ、と思う。嘘が嫌いだ犯罪が嫌いだなどと言うのは簡単で、結局自分の人生すら考えることができない。
リサの事を好きだと思う自分と、好きだからどうしたいのだろうと思う自分がいる。ライカンスの恋愛は昔からふんわりとした憧れのようなものばかりで、大概は一目惚れからの進展がなく終わった。
恋などしている時間はない。それでいいじゃないか、と臆病者の自分が叫ぶ。
狼が来たぞ、と叫ぶ代わりにそんな耳座触りの良い嘘を叫ぶ。
嘘が嫌いだ、などと言っておきながら、結局自分に良いように言い訳をするその言葉は決して真実ではないことを知っている。
デザートのアップルパイまで食べているドニーにさすがに呆れつつ、リサの持つ珈琲ポットのおかわりを辞退して、ライカンスはいつも通りの昼食休憩から午後の勤務へと気分を切り替え始めた。
犯罪の多い街といえど、そうそう毎日殺傷事件があるわけではない。だが、小さないざこざは抱えきれない程湧いてくる。人口も多ければ観光客も多い。道に迷った人間はとりあえずライカンスのNYPDの制服を目印にするだろう。
冬を目の前に、制服は半そでから深い紺色の長袖のシャツになった。今日もこの紺色のシャツを目印に、様々な問題が押しかけてくることだろう。
気合を入れ直し髪の毛をきっちりと結び直す。随分と伸びたブロンドはもうどのくらいの長さか自分でもよくわかっていない。腰までは流石に届いていないとは思うが、肩口はとうに越している筈だ。
いい加減切るかな。せめて女と間違われないくらいに。
そんなどうでもいいことを考えつついつもの料金を払い終えたところで、ダイナーの入口から隣の花屋の主人が駆け込んできた。
「ライカンス! よかった今日のシフトは君か! パトカーが止まってたから飯時かと思って、いや申し訳ないんだが腹を満たしたらちょっと来てくれないかうちの前の駐車違反の車の件で喧嘩がおっぱじまったんだ……!」
顔面蒼白の花屋の主人は穏便な人だ。もう食い終わったよと返したライカンスは今行くと席を立ち――。
「っ、あ……!?」
店の奥から歩いてきたらしい人物とぶつかった。
お互い避けようとしたのが災いして、思い切り体のバランスを崩す。その結果ライカンスはよろけてドニーにぶつかり、奥から出てきたその人が手に持っていた冷めた珈琲を思い切り胸にかけられてしまった。
「……すいません……! あの、ああ……どうしよう、珈琲が……」
男性の声だった。
恐らくライカンスよりは年下だ。少年とは言えないだろうが、男と表現するのも憚られるような中世的な青年だった。随分な猫背だが、長身のライカンスとほとんど視線が変わらないように思える。
ブルーブラックの髪の毛がふわりと揺れた。
染めているのかもしれない。黒、というには薄いし淡い色だ。そういえば最近はデニムカラーの髪色が流行っていると誰かの雑談で耳にしたような記憶もある。どうでもいいことは割合流してしまうので、頭の奥に引っかかっていることも稀だ。特にファッションや美容などにライカンスは疎い。流行のファッションと化粧を身に着けた女性より、素朴で少し野暮ったい感じの女性の方が好ましいと思っているからかもしれない。
髪の毛は染めているようだが、勿論男性は化粧をしていない。
しかし、ハロウィンのメイクをしているのかと思うほど真っ青な顔で、目の下にはくまがくっきりと浮いていた。
慌てたように目を伏せ、長いまつげが不健康そうな青白い肌に影を落とす。
しきりに彼が珈琲の非礼を詫びている間、ライカンスはぼんやりとブルーブラックの髪の青年を観察していた。
「――いや、俺も急に立ち上がったから。あー、珈琲申し訳ない。リサ、ゴメン彼に珈琲淹れなおしてもらってもいい?」
「いや、ぼくは、その……もう、帰るところだったので……それよりもクリーニング代を……」
「大丈夫だって、元々この制服割と黒いし全然目立たない平気平気。血で汚れるよりはましだ。俺はやけどもしていないし体に穴も開いてない。ただ紺色のシャツが濃紺になってちょっと水っぽくなって肌寒くなっただけ。ものすごく悪いと思っているならじゃあ、あー三日にいっぺんくらいはこの店で飯食ってるから。そん時に珈琲奢って」
「……じゃあ、せめて、連絡先を」
そう言って彼が渡したのは小奇麗な名刺だった。
それを読み上げる前に、外からライカンスを呼ぶ花屋の声がする。そういえば仕事があるんだった、と思い出したライカンスは胸のあたりの冷たさを無視して、じゃあ、と店の中に手を上げた。
後についてくるドニーも、また来るよとカウンターに金を置いたのが見えた。
青年がどんな顔をしていたのかまでは、確認しなかったが。
「……で、誰と誰が何でどうもめてるって?」
外に出たライカンスは、胸にぶちまけられた冷めた珈琲の事など、本当にすぐに忘れてしまった。
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