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02
レイヴンは嘘を吐くのが仕事だった。
例えばそれは、諜報員のようなスパイ活動に似ていた。
レイヴンが勤めるルースターサーチは表向き良心的な調査会社を謳っていたが、『成果が出て警察にバレない程度ならば何をしてもいい』というような暗黙の了解のようなものがあった。
同僚の中には変装をして社会に潜り込み、必要な情報をクライアントに流す者も居た。レイヴンは仕事もプライベートもインドアだが、どうしても外出しなくてはいけないときは完璧なマスクを被る。
どう頑張っても改善されない食生活と睡眠不足のせいで消えなくなった目の下の隈は、化粧で隠すことができる。今の時代はカラーコンタクトも豊富だし、元々色素の薄いヘーゼルの瞳は印象に残ることも少ない。
派手でもなく、地味でもない特徴のない顔はどんな人間にも成り済ますことができた。
普段は黒づくめで死にそうな顔をしているくせに、派手なウィッグを被った変装もこなすレイヴンの事を、同僚たちは皮肉も込めて『極彩カラス』と呼ぶことがある。
大して親しくもない同僚にこう呼ばれることをレイヴンは良しとしないが、唯一それを許している人間が、三か月前に入社してきたフレダーだった。
「遅い出勤じゃないの極彩色。……どこ行ってたのよ」
前が見えているかどうかも怪しいもっさりした前髪に隠れた瞳からは、特別な感情は読み取れない。顎髭の上の口は大概小さくもごもごと開くだけで、無駄に吊り上がることも大きく開くこともなかった。
無駄に笑わない、という点ではレイヴンも同じだ。ただ男臭い雰囲気のフレダーより身長は高いはずのレイヴンの方が何故か女性的に思えるのは、纏う空気とホラー映画の吸血鬼のように青白い肌のせいだろう。
あえて化粧をせずに外出したレイヴンは、いつも以上に不機嫌を隠さない顔で自分のデスクスペースにボディバッグを投げた。
「うるっさいよ軽薄蝙蝠。仕事のついでにうまくもない最低な昼食をとってきたんだっつの」
「あー。例のダイナー……なんだっけ、あー、なんかこう甘そうな。蜂蜜的な」
「メイプル・ダイナー。オーナーはシェフのジョージ・メイプル。別にカナダ出身でもないし楓の樹液に纏わる何かがあるわけでもないしなんだったらメニューはユダヤ系ばっかだった。ベーグルはゴムみたいに硬いし珈琲は薄いし温いし不味いし店の中も暗いし誇れるのは量だけって感じで三十分でげっそり」
「浮気の調査じゃなかったっけ? わざわざカラスが現地入りなんて珍しいんじゃないの。いつもみたいにネットストーキングでどうにかなんなかったの?」
「ネットストーキングっつーなクソ蝙蝠。ハッキング」
「そっちの方が犯罪じゃん」
「言い方かっこいい方がマシ」
吐き捨てたレイヴンは、言葉と同じく吐くように噛んでいたミントガムをゴミ箱に吐き捨てた。
久しぶりに飲んだ珈琲で胃が気持ち悪い。普段水分を補給する際は炭酸飲料だ。酒もカフェインも嫌いだ。けれどメニューの中で一番安い飲み物がアメリカンだったのだから仕方がない。
結局飲みきれなくて冷えきった不味い珈琲は、あの男の制服に腹いせのようにぶちまけてしまった。まるでナンパの常套手段のようだったが、飲食店での接触はあれが一番簡単だ。
相席になって声をかけてはそれこそただのナンパになってしまう。余計なトラブルを招きかねない。
不健康が服を着ているような外見でもそこら辺の女よりはマシな顔をしている自覚はあった。
レイヴンは男性で、決して女性的な要素があるわけではない。顔の美醜で言えば整っている方だとは思うが、モデル並というわけでもないし、美形かどうかと問われれば否と答える。美人、という形容詞は自分ではなく、今日珈琲をぶっかけたあのブロンドの警察官に使うべきだ。
しかし、なぜかレイヴンは性別を越えて他人を魅了してしまうらしい。
こんな隈の浮いたガリガリな男の何がいいのか、自分ではさっぱりわからない。わからないが、世間がそういう目で見るのならば自衛は必要だ。気があると勘違いされて、後々面倒な事に巻き込まれるのはうんざりだった。
……もっとクール系を装った方がよかっただろうか。
いやしかし、あの警官は絶対に儚い大人に弱い。弱いものを守りたい、と思っているタイプだ。そうでなければあんな細いだけが取り柄のような女に恋をしたりはしない。
恋、という単語を思い浮かべ、ただでさえ剣呑なレイヴンの顔が渋くなる。
苛立ったカラスには誰も近づかない。レイヴンは自他共に認めるガキだ。苛立つ雰囲気の彼に鷹揚に声をかけるのは、同じ部屋を区切って使うフレダーだけだろう。
フレダーとレイヴンは、特別仲がいいわけではないという自覚がお互いにあった。しかし、特別仲が悪いわけでもない。
性格と職務スタイルのせいで、ルースターサーチ内で微妙に浮いているレイヴンとしては、仲が悪くない人間というのは片手で数える程しかいない。
レイヴンは誰に対しても興味はないし大概イライラしているし、そういう意味では差別をしない。そして同じくフレダーも、誰に対してもぼんやりとした適当な距離間を保っていただけだ。
「昨日はやっと報告書出せそうだっつってなかった?」
手元のキーボードを打つ手は休めず、視線さえもよこさないままフレダーはレイヴンとの会話を続ける。
薄手のモッズコートを投げるように脱ぎ捨て、パソコンの電源を入れたレイヴンは煙草に火をつけた。
フィルターを噛む癖は直らない。口に何かを入れていないと落ち着かない癖も直らない。
「また浮気候補が増えたんだよ。これで六人目だ。大概の調査はこんな時間かかんないんだっつの。ダイナーのウエイトレスの浮気相手なんて所詮そこら辺のおっさんだろ、なんて思ってたら大間違いだった。次から次へと男が出てくる。なんでおれがこんな本気出して女の男関係調べなきゃいけないんだっての!」
「まー、仕事だからだよなぁ。身辺捜査、浮気調査、なんでも承りますが当ルースターサーチの謳い文句でしょ」
「もっとクソみたいに楽か、クソみたいに難しいかどっちかにしてほしーんだよ。頭を使う場面なんか一切ない」
「100ピースor5000ピース?」
「ジグソーパズルは嫌い。見てるだけで鬱になりそう。あれだって頭なんか使わないただの根気作業だろ。パズルならせめて虫食い算もってこいって話」
「『孤独の7』みたいな依頼なんてそうそうないだろー。探偵は殺人現場で密室トリックを破るんじゃなくて、女と男の尻を追いかけてホテルからでてきた彼らにカメラのフラッシュをあびせるのがお仕事なわけだ。それは俺たちも同じね。そんで、大好きなハッキングを仕込んできたんでしょ? 例のカラスのお気に入りに」
「……お気に入りじゃない」
苦々しくフィルターを噛むレイヴンにも、フレダーは物怖じしない。ここで彼は初めてキーボードを打つ手を止め、回転椅子ごと振り返った。
「毎日ストーキングしてるのに?」
「してない。見てるだけ」
「それを世間一般ではストーキングってーのよレイヴン」
「興味があるわけじゃない」
「でも一日中監視してるんでしょ?」
「……音声は拾ってない。だから今日盗聴器を制服に仕込んできた。これで勤務シフトが確実にわかるだろうし、もしかしたらリサとメイプル・ダイナー以外での接触があるかもしれない」
「あ。キミのお気に入りのオオカミさんも彼女の浮気相手候補なんだ?」
「ダイナーの常連は元々全員候補者だよ。……本当は一回リストから外したんだ。それなのに昨日、リサは彼の携帯に連絡を入れている。そしてその後彼は外出した。どこに行ったかまでは追えていない。報告書は五人でまとめる気でいたんだ、まさかまだ男が出てくるとは思っていなかった。ああ、もう、さっさとこの件にカタを付けておれは別の仕事やりたいんだよ! 女狐の浮気相手を数えるなんてもう飽き飽きだ!」
「その上その浮気相手にレイヴンお気に入りの金髪狼がいるんじゃぁなー」
「だから! お気に入りじゃない!」
叫んだ勢いで煙草の煙を思い切り吸ってしまい、体を折り曲げて噎せてしまう。
死にそうな息をするレイヴンを暫く眺めたフレダーは、呆れたように首を傾げた。
「やー、キミってば本当になんかこー、意味わかんなくておもしろいよなぁー。知らない人間を監視してないと落ち着かないとか。水が嫌いで暗いとこもダメとか。そんなに人間が嫌いなのに仕事はちゃんとするところとか」
「……人間が嫌いだから仕事すんだよ。誰にも頼らずに一人で生きていくには金がいるだろ」
「それこそハッキングとかで自宅仕事したらいいんでないの」
「裏家業は面倒くさい。おれは馬鹿だから、一人で世界と対峙なんかできないし、人間と対峙したくないの。雇われてる方が楽。死ぬより生きてる方が楽。だから毎日働いてる、でもいい加減あのリサとかいう女の浮気相手のリストアップは飽きたし疲れたし嫌になった」
「依頼人だって別に彼女の夫ってわけじゃないんでしょ?」
「愛人。つかパトロンか? 現在のリサ・ソーウェルの生活費も依頼人のミスター・アンダーソンがすべて出している。住居であるアパルトメントも彼の持ち物。彼らはリサの前職である食品工場で出会い、そしてアンダーソン氏は彼女との不倫の末、妻と離婚している。実質リサはこのおっさんを寝取ったようなもんだよ。それなのに彼女は現状五人もの男と定期的に安ホテルにしけこんでる」
「その六人目がライ――なんだっけ?」
「ライカンス。本名クライヴ・ウォルフェンソン。二十八歳。住居はチェルシー。両親はブルックリンの郊外に在住。妹が二人。うち上の妹はすでに結婚している」
担当している仕事の情報は基本的には暗記している。
すらすらと彼の情報を零すレイヴンだったが、ライカンスに関しては仕事でなくとも多少の情報を持っていた。
レイヴンは医者が嫌いだ。信用していない。だから自分の状態がどのようなものであるかわからないし、正式な病気かただの性癖なのかもわからない。
水が苦手でバスタブに張った水を眺めているだけで吐きそうになる。これは多分病気の一種だ。
暗所もだめだ。おそらく名前を付けるならば暗所恐怖症というやつだろう。吐くとは言わずとも、落ち着きがなくカタカタと指先が震えだす。部屋の電気は基本的にはつけっぱなしだ。夜の停電さえなければ、これはあまり気にならない症状ではあった。
食べ物の好き嫌いも激しい。しかし食べたら死ぬものがあるわけではないので、アレルギーではないのだろう。これは嗜好の問題だ。病気ではない。
さて、では、『他人を監視していないと落ち着かない』というのは、果たして何かの病気なのだろうか?
それとも個人的な嗜好や性癖の問題なのだろうか?
レイヴンは医者が嫌いで、そしてこれからもその類に世話になる気はない。その為この問題には一生答えが出ないものだと思っている。
病気だろうが、病気でなかろうが、知ったことではない。
他人を監視していれば落ち着くのだから、それをやればいいだけのことだ。改善も治療もどうでもいい。レイヴンの自室のデスク上の液晶パネルの一台は常に、誰かの生活をリアルタイムで映し出す『監視用』となっていた。
そして半年前から、その監視用画面に映るのはライカンスこと、クライヴ・ウォルフェンソンだった。
――動くな。
そう叫んだ声が今も耳から離れない。
風が攫う髪は、灰色の毛並みのように輝いた。
レイヴンに対して発せられた言葉ではなかった。それは逃走する宝石強盗への言葉であり、警告だった。レイヴンはただ、偶然そのミッドタウンの交差点を歩いていただけだ。
動くな、という彼の叫び声で、レイヴンの身体は動かなくなった。
魔法のように心地よい声だった。声に色がつくのならば、それはきっと彼の髪の毛のように光る銀灰だろう。硬く、鈍く光る鉱石のような声だ。一度耳に入ったその鉱石は、しばらく耳の外に出て行ってはくれなかった。
ミッドタウンの街角で金髪の警官の声を聞いた次の日、レイヴンは持てる力の全てを動員して彼が十七分署に勤める三歳上の独身男であることを突き止めた。
クライヴ・ウォルフェンソン。彼を知る人間は、しかしこの名前を呼ばない。
丁度、レイヴンの事をレイモンド・ストークスと呼ぶ人間が居ないように。
嘘の名前を使う狼は、その口で嘘が嫌いだと吹聴しているらしい。それを知った時レイヴンは、笑いだしたいような気分になった。
嘘を吐き、嘘を暴くことが仕事だ。本当の自分など、どこに置き去りにしてきたかも思い出せない。塗り固めた嘘で、レイヴンは真っ黒なカラスになってしまった。
嘘が嫌いなオオカミと、嘘だらけのカラスなんて最高だ。
けれど、絶対に彼とは話が合わないだろうし、絶対に自分は彼の事が嫌いになる。それは逆もそうであろうという確信のようなものがあった。
レイヴンがプライベートで『監視』対象とする人間は、別に好意を持った人間というわけではない。誰でもいい。老人でも、子供でも、女でも、男でも。
レイヴンの性的な指向は同性愛よりではあったが、だからと言って監視対象を男性ばかりにすることもなかった。この監視するという行為には、恋愛感情など関係ない。これは最早、レイヴンが生きているうえでの本能のようなものなのだ。
ただ誰かの生活を監視していれば満足する。その相手と近づこうなどとは露ほども思わない。
本来ならばライカンスとも一言も喋る事はなく、次の監視ターゲットに興味が移るまでただひたすら彼の生活を覗いている筈だった。
ライカンスがリサ・ソーウェルに恋をし、リサが彼に近づく事がなければ。
「…………ほんっとマジ最悪」
噛みすぎて台無しになったフィルターを吐き出し、灰皿に押し付けた。
頭が痛くて笑えて来る。実際は笑顔など変装するとき以外は浮かべた記憶はない。笑わなくても生きていける。頭が痛くても、薬とサプリメントがあれば生きていける。
レイヴンがライカンスの個人的監視を続けるかどうかは別にしても、ルースターサーチの仕事はこなさなくてはならない。
リサ・ソーウェルの愛人の総数を確定し、その詳細なプロフィールをアンダーソン氏に提出しなければならないのだ。
薬とサプリメントがあれば生きていけるが、それを買うには金が要る。金を作るには錬金術よりも仕事をする方が簡単だ。だからレイヴンは、思いつく限りの悪態を飲み込み舌打ちをすると、ライカンスの制服のポケットに仕込んだ盗聴器の音を拾うための作業を始めた。
苛々とリズムを刻む足の振動が机を揺らし、ついには『止まって仕事をしてくれよカラス』とフレダーに小言をくらい、レイヴンは理不尽にうるさいと叫んだ。
最悪な一日だった。
そしてこれが、レイヴンにとっての最悪な日々の幕開けだった。
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