4 / 19

03

耳元で何かが震えている気がした。 どろり、とした眠気は重く、思考がうまく戻ってこない。どうにかそれが枕元の携帯電話の振動だ、と気が付くこができたライカンスは、乱れる髪の毛を整える間もなく重い腕を上げた。 職場からの呼び出しならば無視をするわけにはいかない。 プライベートにまで正義感を持ち出そうとは思わないが、実際問題他人の命が関わっている場合もある。殺人事件の捜査は警官ではなく刑事の仕事だ。しかし、重大な災害や凶悪犯罪、またはテロ活動などが起こった際、市民を誘導し安全を確保するのはライカンス達所轄の警官の任務となる。 ちらり、と見た時計はまだ朝の九時だ。 通常の仕事をしている人間ならば、いい加減家を出なければ遅刻だろう。しかし、一週間毎に勤務シフトが変わるライカンスは、今週は午前中を睡眠に費やしていい筈だった。 昼前から夜までの第一勤務シフト。夜から夜中までの第二勤務シフト。夜明けから昼前までの第三勤務シフト。 これの繰り返しで、ライカンス達NYPDはこの街の巡回をこなしている。 あくびを噛み殺し、漸く確認したディスプレイに表示された名前が職場の上司でも同僚でもないことを確かめたライカンスは、あくびの代わりに長いため息を吐いた。 それでも居留守をつかわないのは、この電話を無視したところで、三十分後にまた同じ相手から電話がかかってくることを知っているからだ。とにかく人の予定というものを考えない彼らは、ライカンスが電話口に出るまでひたすらコールする。 『ハイ、クライヴ。やだ、まだ寝てたの?』 不機嫌な声を出す前に耳に届くのは、能天気な妹の声だった。 実家の固定電話からの着信の場合、電話の向こうの相手は大概三パターンだ。母か、実家暮らしの下の妹か、やたらと実家に帰っている上の妹か。 今日の相手は一番面倒な上の妹だった。ギャンブルで負けたような気分だ。 「シャーロット、あー……まだ、っていうか、ほとんど今寝たみたいなもんなんだよ……今週の俺は、朝の八時が夜の十二時くらいなわけ……」 『夜番だったっけわけね、でも夜明けまで仕事だったわけじゃないでしょ? 今日はお休みだって聞いたけど。休みの日くらいしゃっきり起きなきゃ!』 「だから、寝たのが、夜が明けてからなんだって。あー……いや、いい……それで、何の用事……」 説得することも言い訳することも意味がない、という事をライカンスは二十八年の人生で学んでいる。 二人いる妹の内、年上の方のシャーロットはすでに結婚し、家庭を持っているが、何故か気が付くといつも実家にいる。幼い頃は母親が一番の頭痛のタネだったが、ここ数年はその地位をシャーロットが奪い取っていた。 別段不幸な家庭ではない。仲が悪いわけでもない。ただ、子供時代のライカンスはいつも息の詰まるような思いを抱いていたし、それは今も変わらない。 家族だろうと、性格の不一致はある。好きな事にしか目を向けず、我慢が苦手なこの家族の事を、愛しているかと問われたら即答はできないと思う。情はある。大切にしたいとも思う。それでも、無条件に好きになれない。 現に今も、ライカンスの話など聞きもせず、訳のわからない理屈を押し付けてくる。 自分が早朝に起こされれば怒鳴り散らす勢いで怒るだろうに、と思っても反論はしない。そんなものは無意味なことだし、結局シャーロットを怒らせるだけで話が進まず、ただただ休日の睡眠時間が削れていくだけだということを知っていた。 殊更愛嬌をふりまく気力もなく、抑揚のない声でライカンスは言葉を零す。 仕事柄普段から大声を出すし、滑舌も良い方だが、寝起きの彼はまるでナマケモノのように動きが鈍く声も低い。朝に弱いのは体質だ。きっちり睡眠をとっても寝起き一時間はぼんやりとしてしまうというのに、無理やりたたき起こされたとなれば声が出ているだけでもマシだった。 『ねえひどいじゃないの、せっかく久しぶりに電話してあげたっていうのに。何か用事? の他に言う事ないの?』 「……先週も電話してこなかったか?」 『家族なんだもの、毎日会話したっていいくらいよ。私は毎日旦那と会話してるし、ママはパパとクララと過ごしてる。でもクライヴはNYのど真ん中で一人きりだし、あなたにはもっと会話が必要なの!』 「あー……わかった、つまり、次いつ帰ってくるの? みたいな話……?」 『もう! だからなんでそんなに億劫そうなのよー!』 だから第二シフト上がりで先ほど寝たばかりで目が覚めていないと伝えている。が、勿論シャーロットはライカンスの言葉など半分も聞いていない。 あくびを飲み込むだけでも面倒なのに、ため息も隠さなくてはいけないのは辛い。 どうにか電話を切ろうと画策するライカンスに対し、電話口のシャーロットの方が呆れたようなため息を吐いた。 解せない。とは思うが、喧嘩をする元気もない。 『いいよもう、クライヴが情の薄い兄だっていうのはわかりきってるんだからね。でもたまには帰ってこないとママが心配して倒れそうよ。来月のクララの誕生日には勿論帰ってくるんでしょ?』 そう言われて初めて、もう十月の半ばも過ぎていた事に気が付いた。 十一月の頭には、下の妹であるクララの誕生日がある。口うるさいシャーロットを反面教師にしたためか、それとも単に発言する機会を奪われながら育ったせいか、クララは非常におとなしい少女だった。 まだハイスクールに在学中の妹の誕生日は、祝ってやりたい。しかし、ちらりと確認したカレンダーに書き込んであるシフトは、見事に日中勤務になっていた。 「……悪い。仕事だ、その日」 『ああ、もう、そうだと思ったの。じゃあ前日は? その週末でもいいんだけど』 「週末……もだめだな……サミットの所為で警備が必要で、ただでさえ人手が足りないし休めない……悪い、ちょっと無理だな……」 『……酷い兄ね。わかった、クララにはクライヴはあなたよりも仕事が大切なんだって言っておく』 「何もそんなこと言ってないだろ、シャーロット……落ち着けよ。クララにはちゃんと、プレゼント送るから」 『だってあなた、何か月家に帰ってないと思ってるの? 家庭を持っているならまだしも……あ、ガールフレンドができたの? だから帰ってこれないの?』 「だから、落ち着いてくれって。帰れないのは仕事があるから。ガールフレンドは今のところ居ないし積極的に作る気もない」 『なんでよ。結婚したらいいじゃない。ねえ、もう三十歳になるんでしょ? そんな休みもないような仕事ばかりしてるからダメなんじゃないの? おじさんの工場だって人手が足りないって――』 「悪い、シャーロット、来客だ。そういえば同僚が忘れ物を届けてくれるって言ってたんだ、一回切るな。また電話するから」 この話はこのままでは一時間は続く。そう判断したライカンスは、ベッドサイドの机を自分で三回ノックし、さも来客があったかのように慌てて電話を切った。 眠気はまだある。頭は痛いし眉間のあたりが重い。それでも、今すぐ寝直そうという気持ちは消えてしまっていた。 このまま横になったら嫌な夢を見そうだ。きっと夢の中で、ライカンスを追いかけるのは見合い写真と電話を持った母親とシャーロットだ。そんな悪夢を見るのは嫌すぎる。 まったく力の入らない老人のような足取りで、ベッドから這いだしたライカンスは珈琲を淹れた。 お湯を注ぐだけのインスタントコーヒーでも、銘柄をきちんと選べばそれなりに美味い。 冷ましながら珈琲を啜り、肌寒さに薄いシャツの袖を摩る。適当なパーカーを羽織ってから顔を洗い、再度震える携帯電話は見ないふりをしてもう一つの電話を手に取った。 仕事用とプライベート用、というほどではないが、あまりにも家族からの電話が頻繁なのでライカンスは携帯電話を二つ所有している。 仕事の連絡が付かないと困るので、電源を切るわけにもいかない。実際に無駄な電話が多すぎて必要な連絡が取れない事が何度かあり、実家の方に注意をしてみたが効果がなかった為苦肉の策として二台目の携帯端末を購入した。 着歴から電話番号を呼び出しつつ、震えている実家からの電話を切り、何事もなかったかのように電源も切った。 こんなことばかりしていてはそのうち押しかけてきそうだ、とは思うが今日はもう相手をしていられる余裕がない。睡眠不足は人間の心を狭くする。家族に対してはもう少し余裕をもって対応できるときに再度連絡することにして、ライカンスは飲み干した珈琲のカップを流しに置いた。 馴染みの友人はきっかり八コールで通話に出る。 『やあ、ライ。こんな朝早くにどうしたんだ。第一シフト前のモーニングコールか?』 さっぱりとした声の友人はやはり起きていたらしい。このところ朝型の仕事でありがたい、と言っていたので睡眠妨害にはならないと踏んでの電話だった。 「あー……ぐんもーにん、ディーン。悪い、なんかこう、あたま働いてなくて誰かの声聞いて落ち着こうって思ったら一番上の着歴がお前だった……」 『なんだいそりゃ。……あー、いや、わかった、あれだろ、またお前んとこの小言一家が総出で攻撃してきたんだな? なぁいい加減逃げたらどうだよ。別に、そこまで愛してないならそれはそれでいいだろ』 「……愛してないことも、ないんだけどなぁ……逃げるって程でもないし、逃げるっつっても仕事もあるし、正直NYPD辞める気はないし……あー、こういう事言ってっから優柔不断でダメな男って言われ……つか悪い、朝からぐちぐち言う話じゃないな……今日仕事?」 やっと相手の事を聞くライカンスは本当に頭が回っていない。 明らかに寝起きなライカンスの声に対し、ディーンは気安く笑った気配がした。元同期のディーンは、現在はNYPDを退職している。それでも時折会ってどうでもいいことを話しながら酒が飲める、最良の友人だった。 妹しかいないライカンスにとって、彼は親しい兄のような存在だ。 『仕事だけど夕方には引き上げるよ。ここんとこ定時で上がれて最高に嬉しい。慣れない部署だけどな。お前の深夜シフト週間に比べたら俺の激務なんて赤子みたいなもん』 「よく言うよ仕事の虫……あー、じゃあ、八時にシュライク。どうよ」 『オーケー悪友。なんか話あるのか?』 「いや、まあ、とくには……いつも通りだけどたまには誰かと酒が飲みたい」 『なんだ珍しいな。一人が好きな癖に。寂しくなったんなら嫁でも探せよ、例のダイナーの子はどうなったんだ?』 「……俺そんな話お前にしたっけ?」 『したした。この前酔っぱらって吐いた時に、その吐く前に。マーガレットみたいに可憐で折れそうで儚くてって女神みたいな崇拝ぶりだったぞ。ぜひとも素面のお前からその話の詳細を聞きたいって思ってたとこなんだよ。……なあ、ライ、寝起きだろ。夜までにぎっちり寝て目を覚まして「寝ぼけてるんだ」なんて言い訳できないようにしてこいよ』 軽いジョークを言い合い、電話が切れた頃にはライカンスの気持ちも多少は軽くなっていた。 寝直す前に、買い出しに行こう、と思う。 食料は深夜営業のデリで買えないこともないが、やはり種類が限られている。冷蔵庫を満たそうとは思わないが、消耗品は必要だ。そういえば石鹸が切れそうな事を思い出し、ライカンスはよろよろと薄手のニットの上にジャケットを羽織った。 ホルスターを下げ、服の下に拳銃を隠すことはもう日常になった。 最初は重かった銃も、今は身体の一部のように持ち歩いている。まだまだ新米だ、と思っているが、少しは慣れてきたのかもしれない。 髪の毛を整えるのも面倒で、鏡も観ずにざっくりとゴムで括った。どうせ寝不足で酷い顔をしているのだから、櫛を通したところでたかが知れている。 知人も友人も、皆がライカンスの顔の事を褒める。 綺麗な顔なのに。綺麗な顔なのだから。 そう言われても、そうか自分はそれなりに整った顔なのだなぁというぼんやりとした自覚しか生まれず、結局ライカンスは自信や見栄などを特別抱くこともなかった。 顔よりも名前の方が大きなコンプレックスとなっていたからかもしれない。嘘をついてもいないのに、嘘つき少年と言われ揶揄われる日常は、クライヴ少年の心を少しずつ蝕んでいった。 ――とりあえず、買い物を済ませてから寝よう。 その後は気安い友人と会うだけだ。身なりもなにも気遣わなくていい。 家族の電話を保留していることはとりあえず忘れることにして、二台目の携帯だけをもってライカンスはチェルシーのアパートを出た。 何本目かの角を曲がり、番地を跨ぎ、通りを超える。 新しくできたディスカウントショップを目指している途中で、ライカンスの目はふわりと何かが地面に落ちる瞬間を捉えた。……気がして思わず振り向く。 何かでかいものが空から落ちてきたのだと思ったが、違った。 空から落ちてきたのではない。歩いていた人間が急にふらりと倒れたのだとわかった。 膝からふらりと倒れる男性を、思わず本気で駆け寄ったライカンスは地面すれすれで抱きとめた。頭を打ったら大変だ。何しろ地面はコンクリートで、決して柔らかいベッドではない。 急に走ったせいで若干パニックになりつつ、ライカンスはやっと自分がだきしめている男性に見覚えがあることに気が付いた。 「…………レイ・ストークス……?」 たしか、あの名刺にはそう書いてあった気がする。 ルースターサーチ、庶務、レイ・ストークス。 髪の毛をダークブルーに染めた青年は以前にダイナーで会った時と同じように細く、羽のように軽かった。

ともだちにシェアしよう!