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目が覚めた時、最初に覚えたのは絶望感だった。
すう、っと血が引くような感覚があった。視界が定まらず、揺れる船の上に横たわっているような気持ち悪さがぐらぐらと頭の中を揺らしている。
自分の息がひどく浅い。息を吸い、吐くという行為に苦痛が伴う状態をやっと客観的に飲み込んだレイヴンは、倒れたのだ、ということに気が付いた。
目が回るような浮遊感の中で、レイヴンは記憶を手繰る。
昨日はいつも通り会社内で仕事をこなし、定時に帰宅してからまずはいつも通りパソコンの電源を入れた。部屋の電気は不在時でもつけっぱなしだ。
いつも通りだった。いつも通り適当にニュースサイトをめぐり、持ち帰った仕事――リサ・ソーウェルの監視を続けながら、一方でいつも通りライカンスの日常を垂れ流していた。
彼の制服のパンツに取り付けたボタン型の盗聴器はよく機能している。断続的なノイズの中でも、ライカンスの声はよく通り綺麗に聞こえた。ただ、ロッカーで着替えてしまうため家での音声は拾えない。
この問題を解決する為にレイヴンが仕込んだのはカード型の盗聴器だった。
今の時代は金さえ払えばどんなものも作れてしまうのではないか、と思う。SF映画の中の科学技術をファンタジーだと笑えなくなってきた。
レイヴンがしおらしく渡したレイ・ストークス名義の名刺は、ライカンスの部屋のサイドテーブルの上に放り投げてある。本当は財布の中にでも突っ込んでいてほしかったが、捨てられなかっただけマシだ。
レイヴンは偽名と架空の会社の名刺を数種類ストックしているが、今回ライカンスに渡したものは限りなく真実の身分に近いものだった。
相手は警官だ。あらゆる情報を調べやすい立場にある。すぐにばれてしまうような嘘をつくべきではないとレイヴンは判断した。
ただし名刺の職業は本来の調査員ではなく、事務全般を担う庶務課表記になっている。ルースターサーチは調査会社だが、大概の人間は素直に名刺を渡してくる人間が自分の事を調べているとは思わない。探偵は身分を隠して柱の陰からストーキングをするという頭があるのだ。
名前と職場を正直に明かしたところで、レイヴンの嘘が減るわけではない。
ライカンスに対して浮かべてみせた気弱な表情も、声も、視線も、全ては作り物だった。
音声がない監視映像に、音が付くと急にリアルになる。
音が付く、と言ってもライカンスは独身で一人暮らしだ。時折家族から電話がかかってくるくらいで、部屋に友人を上げたりはしないし、独り言もない。
レイヴンの耳に届くのは、足音や衣擦れの音。食事の際の食器の音。そういう、所謂生活音というものだ。
この些細な音は、レイヴンを何故かとても不安にさせた。
画面の中の彼は生きている。無音の監視カメラを眺めている時とは別の感情が沸き起こる。やはり、この依頼をこなした後は監視のターゲットを変えよう。そう思い始めるようになっていた。
――昨日の事を思い出している最中だった。
思考が飛んだことに気が付いたレイヴンは、改めて思い起こした。
自分はいつも通りだった。
いつも通り帰って、いつも通りサプリメントを流し込み、いつも通り深夜にようやく眠りについた。
リサに動きはなかった。
ライカンスは第二シフトで、彼が帰宅したのはレイヴンがやっと浅い眠りにつくことができた深夜四時だ。ここまでくるともう朝のようなものだ。
ライカンスの部屋の盗聴器は常にスピーカー状態にしている。彼の部屋の鍵が開く音を夢うつつに聞き、そして目が覚めたのはその五時間後、彼が誰かと喋っている声がしたからだ。
また実家からの電話のようだった。
過干渉な家族らしく、ライカンスが電話に出る出ない関わらずとにかく携帯電話はいつでも鳴っている。関係ないレイヴンすら苛立つ程だ、親族と言えどもうんざりしている様子が、ライカンスの言葉からも滲みでていた。
目が覚めたレイヴンは、吐きそうな気分を押し込め冷蔵庫まで歩いた。吐き気と眩暈はいつものことだ。ただでさえ弱い体に不健康な生活と精神の不安定が直撃していて自分でも生きているのがおもしろい程だと思う。
思えばこのあたりから呼吸がおかしかったような気がする。そして冷蔵庫の中にストックしていた飲料水が底をついている事実に気が付き、一通りの悪態をついてからどうにか着替えて財布をもって外に出た。
チェリーコークも7upもバークスもクラッシュグレープもすべて切らしてしまっていた。水道の水は不味くはないのを知っているが、そもそもレイヴンはミネラルウォーターですら飲まない。美味い不味いの問題ではなく、真水が嫌いだ。
ライカンスは家族との通話を終え、友人らしき人間と今日の夜に会う算段をつけていたようだ。ということはこれからまた寝直すのだろう。暫くは、彼の音を拾わずともいいはずだ。
すぐそこのデリまで行って帰ってくるだけだ。
そう思っていた。
だからパソコンはつけっぱなしだったし、財布と携帯をいつものコートのポケットにつっこんだだけだった。
階段を下りたあたりはまだ少し吐き気がするくらいだった。
ただ、その後の記憶がない。気が付いたらレイヴンは横になっていて、見知らぬ天井を見ながらゆらゆらと脳みそをゆっくりとかき混ぜられているような不快感の中で目覚めた。
そうだ、目の前には天井がある。
それは自宅アパート近くの薄汚れた壁でもなければ、どんよりとしたNYの寒空でもない。
そして自宅の煙草のヤニで汚れた天井でもない。
そこで初めてレイヴンは、ここは何処だ、という疑問を抱いた。
徐々に戻ってくる皮膚の感触を感じる。床ではない。おそらくはベッドだ。
周りを見回そうとして、ほんの少し体を動かしただけで頭痛がしたし、指先から血が引くような寒気が襲った。
貧血か。
頭の奥は妙に冷静にそんな事を考えるが、体の方は必至に異常と戦っている。そのせいで満足に動くこともできない。体調不良には慣れているとはいえ、だからと言って無痛になるわけでもない。気持ち悪いものは気持ち悪いし、吐き気は抑えることはできない。
何度か意識的に深く息を吸い込む。ゆっくりとそれを吐き、指先に力を入れた。勢いをつけて起き上がったら吐く気がする。しかし、ひたすら天井を見ていても何もわからないしどうしようもない。
吐く覚悟を決めたレイヴンが身体を起こそうとしたときだった。
やっと機能し始めた聴覚が、人の声を拾った。
ここ最近、よく耳にしているその声に、起き上がるつもりだったレイヴンの身体は固まってしまう。
「……悪い、埋め合わせは今度するわ。あー、うん。奢る奢る。週末ちょっと小忙しいから、来週とか声かける、たしか第一シフトだった気がするいや覚えてねーけど……あー、うん。いや全然。つかほんと悪い。じゃあまた電話すっから」
その声はどうやら、同じ室内ではなく少し遠くから――おそらく隣室のような個室スペースから聞こえてくるらしい。
恐らくはバスルームのような空間だろう。
ホテルか、とレイヴンは推察した。
レイヴンの自室ではないことは明らかであったし、声の主である男、ライカンスのアパートの内装とも違う。
しくじった。まずはその自責が襲う。ただでさえ最低な体調に、最悪すぎる状況に思わず舌打ちをしそうになってどうにかそれを飲み込んだ。
彼のアパートがレイヴンの住むアパートに近いことは知っていた。それでもまさか、徒歩圏内で鉢合わせするとは。可能性はないとは言えない。ただ、どこですれ違ってもレイヴンは完璧な仮面をかぶる自信があった。体調不良で道端で倒れる、などというアクシデントさえなければ。
苦い思いを飲み込みつつ、相変わらず浅い息を繰り返す。
浴室から携帯電話片手に戻ってきたライカンスは、レイヴンの意識が戻ったことに気が付いたようだった。
襟ぐりがざっくりと開いたニットに、着古した質感のジャケット。細身のジーンズは若者らしく、普段のきっちりした制服警官のワイルドさとは別の色気のようなものがある。
普段嫌というほど画面越しに見ている男。クライヴ・ウォルフェンソンことライカンスに間違いはなかった。
「あー……っと、レイ? ミスター・ストークス? ……レイって呼んでもいい?」
良い、と答えようにも声が出ない。息を吐くだけでも胃の中の物を吐きそうだ。
ただ呼吸するだけのレイヴンをのぞき込み、ライカンスはレイヴンの腕を取り脈を確かめる。医者でなくとも、やはり必要最低限の人命救助に関する応急処置を学んでいるのだろう。
「……貧血かって感じだけど、俺は専門家じゃないから正直大丈夫ともやばいとも言い切れないんだよなぁ……とりあえず、いきなり救急車呼ぶのもどうかと思ったし、だからっつって俺んち連れ込むのもどうかと思ったからベッドある適当なホテルに引っ張ってきたんだけど。立てないな、これ。やっぱ救急車呼ぶ?」
大丈夫、と発した声はきちんと音になっていただろうか。
ライカンスの通りの良い声以外の環境音が聞こえないから、耳もおかしくなっているのかもしれない。それでもどうやら意思は伝わったらしく、欲しいものある? と訊かれる。
「………………じんじゃーえーる……」
「飲めんの……? あー、いいや、買ってくる。カナダドライ? ヴァーナーズ?」
「……どっちでも…………」
「ほんと死にそうだけど大丈夫かよ。いきなりぶっ倒れたし顔色も悪すぎるし中毒かって思ったけどただの貧血と体調不良っぽいし、病院行った方がいいんじゃないか?」
そう言うライカンスがとっさに救急車を呼ばなかったのは、どうやらレイヴンの薬物使用を疑ってのことだったようだ。
さっさと病院にぶち込んだ方が楽だった筈だ。意識のない人間を引きずってホテルに入るのは流石に疑われることだろう。ライカンスはフロントに警察の人間であることを明かしたか、または馴染みの人間が経営しているホテルなのか。どちらにしても、救急車を呼ぶ方が早いしマシだ。
(この、お人よし)
この寒空の下、路上に倒れたままでは死ぬとまで言わずとも身包みを剥がされていた可能性はある。どう考えても命の恩人だが、そんなライカンスに対してレイヴンが抱く感情に苛立ち以外のものはない。
見た目は軽薄な美男子だ。しかしその実、ライカンスは馬鹿が付くほどのお人よしでレイヴンが呆れる程馬鹿だった。
それは本人も了解していることのようだ。
駄目で、馬鹿で、どうしようもない。
なんだ、まるでおれじゃないか、と。レイヴンは自嘲した。
その上ガキで不健康な死に損ないだ。おまけに仕事もプライベートも虚勢と嘘ばかりで、最早何が本当かなんてわからない。レイヴンの方が、より一層屑だと笑える。勿論、実際に自嘲したりはしないのだけれど。
「ジンジャーエールだけ? っつっても今わけわかんねーか。もし俺が出てった後で若干回復してほしいもん思い出したら電話して。俺の番号書いておくから。あと別にさっさと帰ってもいいし。金は払ってあるし、勝手に出てっても怒られないし、俺も別に怒らない。勝手にここに運んだのは俺の独断だから。でもまー暫く寝てた方がいいじゃないかなーとは思うけど。……おーけー?」
緩慢に頷くと、眉を落として笑ったライカンスはさっさと部屋を出て行った。
オオカミが出て行った部屋に残されたのは、ベッドから起き上がることもできないカラスが一匹だ。
(……ちかちかする)
黒い星が、額の上でチカチカと点滅している。
それが脳の見せる幻覚だという自覚はある。あるが、消えろと願ってもそれは消えないので、放っておくしかない。
道端で倒れるなんて久しぶりの失態だ。
このところ、またうまく眠れていないのが原因だろう。
不眠症はいつもの事すぎて、段々と危機感がなくなっていたのも悪かった。眠れないのがデフォルトだ。睡眠はいつも浅く、深く落ちる手前で、吐き気で起きる。
いっそさっさと死にたいと思わなくもない。けれどどれだけ不健康でも痛くても苦しくても、死ぬのは嫌だと思うからまだ自分は健全だと言い訳をした。
死ぬのは嫌だ。終わるのは悔しい。苛立つばかりの人生でも、ここで終わるのは嫌だと思う。
……死にかけの自分を拾ってくれたのがあの馬鹿みたいにお人よしなオオカミで良かった、と思うのは癪だが、それでもレイヴンにしては珍しく胸の内だけでささやかに感謝した。
チカチカと煩い視界を遮るように目を閉じる。
眠れる気はしない。吐き気もぐるぐると揺れるような感覚も引かない。それでも目を閉じて、レイヴンはライカンスの響く声を思い返した。
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