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ライカンスが近所のスーパーにたどり着いた時、時刻は正午を過ぎていた。 道ばたで急に倒れた青年は、どうやらただの……と言うには少々辛そうな貧血だったようだ。 下の妹のクララが非常に病弱で、貧血持ちだった。症状が似ていたので大事ではないと勝手に判断したが、目を覚ましたときはほっとした。 目の前で人間が急に倒れたからといって、知り合いでもないのに介護する必要などないだろう、というのは先ほど夜の予定の断りを入れた際に旧友のディーンに言われた言葉だ。 まったくその通りだと思う。 ライカンスはあの場で救急車を呼んで終わりにすべきだったし、今だってホテルのキーを預けて勝手に帰っても良いはずだった。 それをしないのは馬鹿でお人好しな本分のせいだ。 優しいのではない。ライカンスはただのお節介で他人を放っておけない馬鹿だ。 一通りの顛末を話し、『放っておけないしいつ目を覚ますかわからないから夜の予定はキャンセルしてほしい』と告げたライカンスに、ディーンはあきれることもなくむしろ相変わらず馬鹿だと笑って許してくれた。 自分から誘っておいて、三時間後にキャンセルの電話を入れるとはさすがにどうかと思う。けれど、レイという名の青年を置いて出かける気にはどうしてもなれない。 馴染みのスーパーは休業日だったので、仕方なくかなりの距離を歩いた。 ジンジャーエールとスポーツドリンクとシリアルバーをカートの中に放り込み、ついでにと石鹸とミネラルウォーターを買い込む。 ジンジャーエール一本を買うのに、ずいぶんと時間をかけてしまっている。ホテルに帰ったらレイはもういないかもしれない。 背負った体は骨が浮いていて、内臓があるのか心配になるほど軽かった。 普段の仕事柄、ライカンスもひ弱ではない。それなりに鍛えているし、体力には自信がある。それにしてもほとんど身長も変わらない彼は、十キロは確実にライカンスよりも痩せているだろう。 栄養剤やパワーバーのコーナーで足を止めてしまい、何か食わせた方がいいんじゃないか、いやこれもお節介かとしばらく悩んでいるライカンスの後ろから、聞き覚えがある可憐な声がかかった。 「ライカンスさん?」 彼女の声はいつも少しだけ小さい。雑踏に紛れてしまえば、かききえてしまいそうな小さな花のような儚い声は、ほんの少しだけライカンスの背筋を伸ばした。 「今日は、お休みですか?」 振り返りながら、しまった、と思う。 そういえばろくに寝ていないままだったし、服装も適当だ。何しろライカンスはこんなに長々と外出しているつもりはなかった。 ジーンズは色あせているし、ニットの服はよくみると多少伸びている。普段は清潔感を意識してきっちりと梳いてから縛る長い髪も、手櫛で適当に流し、適当なゴムでまとめただけだ。 先ほどのレイの騒動で、ずいぶんと髪も乱れてしまったから、それこそひどい寝起きのような格好ではないのか。 まさかこんなところで会うとは思わなかった。不運なのか幸運なのか、果たしてどちらだろう。 苦笑を押し込め、ライカンスは背後のリサにほほえみを返した。 「ハイ、リサ。俺は休みだけど、君は買い出し? ミッドタウンからここまで随分と距離があるんじゃないか?」 ライカンスと同じようにカートを押すリサは、特別変わったこともないいつも通りの服装だった。地味なワンピースに、ぼやけた色のカーディガンを羽織っている。 ただ、店用のエプロンはつけていない。そんな些細なことでテンションが上がってしまう自分の馬鹿さが恨めしい。 リサは地味な女性だった。たしか、ライカンスよりも二歳程年上だ。 鮮やかな色のレディシュは目を引く要素なのに、何故か少しくすんでいるように見える。リサが全体的にぼんやりした色の服を好み、また、本人の目鼻立ちも決して派手ではないためその様に見えてしまうのかもしれない。 伸ばした髪を緩やかなみつあみにしたリサは、いつも通りの控えめな笑顔を見せた。 リサは声が小さい。そして表情のふり幅も小さいので、ライカンスはいつもその奥の感情を読み取れずにやきもきしてしまう。 最近やっと、嫌われてはいないんだろうなぁと思うようになった程だ。 細く少女のような彼女はライカンスよりも随分と背も低く、並ぶとつむじも見えそうになる。 「今日は買い出しじゃなくて、私もお休みなんです。週末は忙しくなるだろうからって……何かの会議とか、鉄道のセレモニーとかあるんでしょう?」 「あー、そうそう。イベントが目白押し。それの警備で俺たちも相当忙しい週末になること間違いなしだ。今週は夜のシフトだから、ダイナーのベーグルが食べれなくて寂しい」 「昼間来てくれたらいいのに……って距離でもないですよね。私も今日は友人に会うついでだったからこっちまで来たんですけど。マンハッタン島って、狭いようで結構大きいですよね」 「セントラルパークだって一周するのは骨が折れるもんな」 たわいもない言葉を吐きだしながら、気の利いたセリフの一つも言えない自分に呆れてため息が出そうになった。 タイミングは最悪だ。もう少し余裕がある休日に出会っていたなら、ちょっと時間はあるかと訊いてランチに行こうと誘えたかもしれない。しかし今日は寝入り端で叩き起こされ、その上急病人をホテルに待たせている。 食事でも、と声をかけるわけにもいかない。 仕方なくライカンスは絶好のチャンスを諦め、当たり障りのない言葉を交わすだけに留めるしかなかった。 巡回の休憩中は基本的に相棒と一緒だ。休憩時間に会うリサと、二人きりで話ができるタイミングは少ない。せっかくのチャンスだが――と、名残惜しい気持ちを持て余していたライカンスは、二人きりというキーワードで思い出したことがあった。 そういえば、リサと二人で会うのは初めてではない。 先週の勤務明けに、ライカンスは彼女と共に小さなバーのカウンターに座っていた。 そこでの会話を思い出したライカンスは、周りに一瞬だけ気を使ってから、少しだけ声を潜めてリサに問いかけた。 「そういえば、例のストーカーの件、何か進展あった?」 相談したいことがある。そう声をかけられ呼び出された時、期待しなかったと言えばうそになる。しかし、妄想じみた想像は大概現実になることはない。 ライカンスの言葉にさっと表情を曇らせたリサは、細い指を頬に添え、困ったように首を傾げた。 「……それが、全然。大家さんにも相談してみたんですけど、証拠もないし被害妄想じゃないかって……」 「そりゃひどいな。でも、尾行されてる気がするんだろ?」 ピーナッツバターを選びながら、あまり重くならないようにと軽く言ってみせるが、リサの表情は硬いままだ。 誰かに、ストーカーされている気がする。ここのところ、毎日監視されているような視線を感じる――。 小さなバーでライカンスが受けた相談は、甘く浮足立つようなものとは程遠かったが、聞き捨てならないものではあった。 「いっそ監視カメラとか盗聴器がないか調べてみたら?」 「警察ではそういうことをしてくれるんですか?」 「っあー……いや、分署の警官はそこまではできないかなぁ……事件が起こったならば別だけど、そういうのは個人で業者とか専門の人たちに頼んで、って形になるかもな。……業者。業者か」 「ライカンスさん?」 「……聞いてみないとわっかんねーけど、もしかしたら紹介できるかも」 ライカンスの頭に浮かんだのは、今ホテルのベッドで屍のように寝ている青年の顔だった。 ルースターサーチという調査会社で働いている筈だ。珈琲をぶちまけてくれた彼に特別な興味があったわけではないが、仕事柄、顔を名前と職業を把握してしばらくは記憶しておく癖があった。 調査会社がどんな仕事をしているのか、詳しくは知らない。おそらくは個人の探偵がやるような仕事を、企業がやっているのだろうとライカンスは踏んでいる。どの程度合法なのか、違法なのかはわからないが、一度レイに話を聞いてみるのもありだと思った。 何かわかったら連絡するから、と不安そうなリサの背中を叩き、ライカンスはそれじゃあとカートを押して彼女と別れた。 彼女が本気で怯えるようならば、出来うる限りのボディーガードをしたい。 ただ、ライカンスは朝から夕方までの固定シフトの社会人ではなく、時間に融通も利かない。本気で彼女を守るつもりならば、もう一緒に住むくらいの覚悟がなければ無理だろう。さすがに、それはできない。ライカンスは彼女に淡い期待を抱いてはいるが、リサは顔見知りの警官くらいの気持ちでいる筈だ。 見ず知らずの青年をホテルに引っ張り込んで介抱することはできるのに、偶然会った意中の女性には適当な言葉しかかけられない。 自分の不甲斐なさと訳の分からないおせっかいな行動力にため息が出る。 会計を済ませたライカンスは、おせっかいを最後まで成し遂げる為に速足でホテルに帰った。どうせやるなら徹底的に、だ。反省したところで時間は戻らないし、レイの具合がよくなるわけでもない。 顔見知りのフロントに一声かけた時には何も言われなかった。どうやら、レイはまだおとなしく寝ていてくれているようだ。 と、思って安心したのだが。 「……………レイ?」 部屋のキーを開けると、空になったベッドが見えた。 打ち付けるような水音が聞こえる。浴室からだ。 起きて、シャワーを浴びているのか。それにしては水の音が一定だ。人の気配がしない。 不安になったライカンスは、十秒間だけ悩んだ後に思い切って浴室のドアをノックした。とんでもないおせっかい野郎だと自分でも呆れる。しかし、うざがられようが呆れられようが、目についたものをなかったことにできないのがライカンスだ。いっそ盛大にお節介を安売りしようと覚悟を決め、反応のない浴室のドアを開いた。 むあっとした温かい湿気が立ち上る。 シャワーの落ちる湯の中で、服を着たままへたり込んでいる青年がいた。 「――何やってんだ、ちょ……っ」 予想外の状態に、ライカンスは慌てて駆け寄り彼の身体を抱き起す。 全裸だったらここまで慌てなかった。シャワーの途中でまた倒れたのか、と思った筈だ。しかし、シャワーの水を頭から浴びながら浴室に倒れる服を来たままの人間、という絵面は中々にインパクトがあった。 ライカンスが慌てたのは、殺人現場か自殺現場のように映ったせいかもしれない。 人は浴室に入る際は服を脱ぐ。それをしないのは、異常な状態の時だ。 頬を叩くと、気を失っていたらしい青年に浅い息が戻った。 うっすらと開いた目は焦点があっていない。暫く名前を呼びかけ、大丈夫かと声をかけているうちに彼は急に息を吸い込み噎せ始めた。 背中を丸めて床に手を付き、咳と共に胃の中の物を吐き出す。 流れっぱなしのシャワーが吐しゃ物をすべて洗い流した。レイは吐き気を催して浴室に駆け込んだのかもしれない。おそらくその途中で気を失ったのだ。 細く骨の浮いた背中が、苦し気に呼吸をするたびに揺れる。思わず背中に置いた手は振り払われなかった。そんな余裕がないだけかもしれない。ただ、レイにはライカンスの声は聞こえているらしく、救急車が必要かという問いかけには弱々しく頭を横に振った。 「ほんとに大丈夫かよ……持病とかじゃないんだよな? とりあえず、絶対体によくないから服脱いで身体拭いてベッドで横になろ。あー……立てる? 無理? 無理ならとりあえずここで水だけ飲む?」 「…………ジンジャーエール……」 「ばっか、炭酸なんか誰が飲ませるかよ。なぁ、もしかしていつもこんななの?」 「……………………だいたい……こんな、ひどいのは、ひさしぶりだけど……」 「まじかよ。うそだろ。体重足りてないんじゃない……?」 余計なお世話すぎる言葉が出てしまい、ライカンスは慌てて口を噤んだ。彼は友人でも親族でもない。彼には彼の事情があるだろうし、彼の人生がある。それはライカンスが知らないものだったし、事情を知らない人間が彼の人生や人格や体質に関して、一切何も言う権利も義務もない。 口から滑り落ちそうになる苦言を飲み込み、レイの背中をさすり、どうにか浴室から彼を抱えて出た時には二人ともずぶぬれだった。 水だから乾けばバレない筈だ。チェックアウトする際にまだ濡れていたら、チップを多めに渡して謝るしかない。 とりあえずライカンスは自分の濡れたニットを脱ぎ、床に直にへたり込む青年の服を脱がすと乾いたタオルで拭いてやる。 手のかかる妹を持っていた事に感謝するのはこういうときだ。普通の男は、浴室で倒れた人間の服を脱がせたり身体を拭いてやることに抵抗があるだろうし、またそれを実行するときに難儀するだろう。 勿論相手は小さな女の子ではない。それなりの長身の男の身体は少女と比べれば重く、手間もかかったが、レイは抵抗もなく素直になすが儘になっていた。 諦めたのか呆れたのか本当に具合が悪くてどうでもいいのか、それともおとなしい性格なのか。大して人格も知らないライカンスには判断がつかないが、とにかく面倒な事を言ったり暴れたりしないでいてくれるのはありがたい。 どう見ても病院に連れていくべき状態のレイに、遠慮も何もあったものではない。災害時の救助や事故現場や病院での風景の如く、ライカンスは躊躇なく彼の下着まではぎ取るとそのままベッドに潜り込ませた。 「水飲めるか? つか飲んで。脱水で死ぬ」 「……………ん……」 レイの小さな頭を膝の上に乗せ、ミネラルウォーターのペットボトルを口に添えて傾げる。若干シーツに零れたが、これも乾けばバレないだろう。ただの水だ。ワインを零したわけではない。 素直に水を飲んだレイの身体は驚く程冷たい。体温が低いのは体質なのかもしれない。ただ、体調の悪さと浴室で倒れていたことも原因なのではないか。 立ち話なんかしていないで早く帰ってくればよかった。ライカンスがそんな後悔をするほど、レイは脆弱な生き物に見えた。 「寝れそうなら寝て、吐きそうなら袋か皿か何か持て来るから言え。水は枕元。一人で飲めないなら飲ませてやるから。……なんか、要望とかある? 服が乾くまで俺も外には出れないから、帰れっていうのと買い出し以外の事ならできるだけ善処するけど」 「……………でんき」 「あ、電気消す?」 「けさないで……くらいの、むり……だから、おねがい……」 「あー。うん、わかった。暗いのはダメなのな。じゃあこのままつけてるよ。あとは? なんかある?」 ない、と言ったような気がしたが、うまく聞き取れなかった。 レイがおとなしく目を閉じたので、ライカンスはとりあえず備え付けのバスローブでも羽織るべきだと考えベッドから離れようとした。さすがに、全裸の男と同じベッドに下着一枚で潜り込むわけにもいかない。 しかしライカンスは腰を浮かすことができなかった。 レイの細い腕が、ライカンスの腰に巻き付いていたからだ。 「…………なんだ、これ」 レイが女性なら、とんでもなく魅惑的なシチュエーションだ。相手の体調が悪いので勿論過ちはありえないが、勘違いはしてしまうだろう。しかしレイは男性で、ライカンスも男だ。過ちもないが勘違いもない。 そのはずなのに、ライカンスは慌てて視線をさまよわせてしまう。 ぐったりと横になる青年の細い首と白く浮き上がる肩の骨が妙に生々しく、見てはいけないものを見たような気分になった。結局ライカンスは天井を見上げながら、なんだこれ、ともう一度呟く。 (なんだ、これ) なんで自分は彼に触りたいと思ってしまっているのだろう。 これは欲情ではないなら、なんという感情なのか。 甘いような切ないような恥ずかしいような感覚を持て余しながら、仕方なくライカンスはレイの横に身体を横たえた。どうにでもなれ、と思いながら冷たい体を抱きしめる。お前が先に手を出して来たんだからな、と言い訳をしながら。 煩い心臓の音を聞かないふりをして、明るい部屋で目を閉じる。 どろり、とした睡魔は、ささいな興奮を包み込み、いつのまにかライカンスを眠りの底に落としていった。

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