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「あったまいったーい、ってー顔してるなぁ」
珍しく朝から自分のデスクに座っていたレイヴンは、同僚の軽い声に頭を上げた。
言われた言葉通り、頭が痛い。
少し下を向くだけでずきりとこめかみに鈍い痛みが走る。大概いつも頭は痛いが、深い眠りの後は特に耐えられないような頭痛が襲うことが常だった。
「どったのよ。飲み過ぎ? 昨日無断欠勤だったのは体調不良?」
「…………倒れて寝てた。寝すぎて吐き気と頭痛がやばい」
「oh……おまえあれよね……普段の不健康な状態の方がまだ健康そうっていうか不健康な状態に身体が慣れちゃって、ちょっと健康っぽいことするともうダメってタイプよね」
軽い声のフレダーはたいして心配もしてないようにさらりと言葉を連ねる。その無関心さは他人の感情が煩わしいレイヴンにとって非常にありがたいことだった。
ただでさえ体調が芳しくないのに、その上苛立ちたくない。
レイヴンは大概いつも苛立っていたし、誰に何を言われようが配慮したりはしないが、他人の言葉を聞いた際の苛立ちが少々軽減されるだけで随分と楽だと思える。
先ほどからPCを眺めてはいるものの、ほとんど仕事は進んでいない。
ライカンス以外の五人の報告書だけでもまとめておこうと思うものの、液晶をみていると世界がぐらりとゆれるようなめまいが起こる。
中途半端に身体を休めるとこうなる。
特に倒れた翌日は起きあがることもできない程で、これが自宅だったならば三日くらいは有給消化に当てるところだった。
しかし、今朝レイヴンが目を覚ました場所はあいにくと自宅の狭い部屋ではない。
ぼんやりと見えた白い壁に違和感があった。
朦朧とした意識の中でここがホテルの一室であることを思い出す。
どこからが夢で、どこからが現実かわからず、しばらく呆然としていた。のどが酷く乾いている。出そうとした声は掠れた息になって、舌の根の方に張り付くように出てこない。
部屋の中は電気が煌々とついている。おかげで夜か昼かもかわからなかったが、そんなことはどうでもいい程頭が痛かった。
身体が随分と冷えていた。
ぶるりと身震いし、布団を引き寄せる。その段になって初めてレイヴンは自分が裸であることに気がつき、ぼんやりとした記憶にあることのすべてが悪い夢ではなく、現実だということに思い至った。
最悪だった。
ここ最近毎日同じことを思ってはいるが、これほどまでに気分が悪く精神的にも肉体的にもどん底なのはこの日の朝がダントツだ。
一番最悪なのは後ろから抱き込む暖かい男の腕を意識している自分の妙な感情だった。
レイヴンは人間が嫌いで苦手だ。
だからといって恋をしないわけでもない。情のようなものは少々持ち合わせているし、そんな自分のひどく人間らしい甘さが気持ち悪いと思っても、湧きあがる感情は押し込めることが難しい。
冷徹なカラスでいたい。ただ打算だけで生きているような人間になりたい。それなのに、レイヴンは時折叫んでしまいそうな程人恋しくなる。
そういうときは大概安全な行きずりの男を捕まえた。特定のセックスフレンドはいない。大概レイヴンの孤独は一晩の情事で癒されたし、他人との関係を続けていくのは面倒だった。
そういえばこのところ、誰かとベッドを共にした記憶がない。
素肌に直接与えられる他人の熱は生々しく、それなのに柔らかく暖かく、いやな感情があふれ出す。
イヤだ。これは勘違いだ。別に、誰でもいいに違いない。いま後ろで自分を抱きしめている男が誰だろうと、冷えた身体は勝手に情を求めて勘違いをするはずだ。
この男のせいじゃない。
働かない上に痛む頭でどうにかそう思いこむ。その間にも急な熱に浮かされた身体はどんどんと体温を上げていく。
少しでも距離をとりたい。けれど、しっかりと抱きしめる腕から逃れるには、彼を起こさなければいけないだろう。なんと声をかけたらいいのか、わからない。昨日の自分は、彼に対してどんな言葉を放っただろう。どういうキャラを作れば正解なのか、まずそれがわからない。
罵倒はしてないはずだ。そんな元気はなかった。
ほとんど言葉を発した記憶はないが、もしかしたら夢うつつになにかしゃべっているかもしれない。記憶がない。やたらとライカンスは世話を焼いていた気がした。自分はその甘やかす言葉に、何を返しただろうか。
思い出せない。
それはとても不安なことで、気持ち悪く、座りが悪い。
時間だけがじりじりと過ぎていき、レイヴンの目はすっかりさえてしまった。しかし立ち上がる気力も体力もなく、結局は居心地の悪いベッドの上で横たわっているしかなかった。
体調は良いとは言えない。久しぶりに深く眠ったせいで、体がだるいし眠気はまだ取れない。走っている方が楽なのと一緒だ。急に止まると、体は疲労を自覚する。
そのうちに、レイヴンを抱きしめるライカンスが身じろいだ。まるで恋人を抱き寄せるように体を摺り寄せられる。叫ばなかったのは、自重したためではなく喉が枯れていたためと、驚きすぎて声がでなかったためだった。
ぎゅう、と抱き寄せられたあの感覚は、なんとも表現しがたい。
過去の恋人と勘違いしているのかもしれない。ライカンスは今、交際している女性はいない筈だ。もしかしたらリサと何かしらの関係があるのかもしれないが……。
耳元で、あの声で知らない女の名前を囁かれたら洒落にならない。
だからといって自分の名前を呼ばれても耐えかねる。
まだぐらりと床が傾いているような気持ち悪さがあったが、なんとかレイヴンは男の眠るベッドを抜け出し、ハンガーに丁寧にかかっていた服を着こみ、五秒だけ悩んでからベッドサイドのメモ帳に走り書きを残した。
サイドテーブルの上に置かれていた自分の財布の中身を一応確認し、二十ドルをペンの下に挟み込んでからホテルを後にした。ホテルを出た時はまだ早朝だったが、前日の午前中からほとんど記憶がないということは丸一日近く寝ていたことになる。
一度自宅のアパートに戻り、どうにかシャワーを浴び、服を着替え、そのままルースターサーチに出勤し、今に至るわけだ。
レイヴンの体調は相変わらず最悪だったし、ディスプレイに向かっていても何も考えられない。仕事も進まず、かといって何か深刻な悩みがあるわけでもないので、ただひたすら胸糞悪い気分を持て余しながら意識を飛ばしているだけだった。
「……ひんでー顔っすよレイヴンさん。珈琲でも飲んだら?」
昼を過ぎてもまったく回復する様子のないレイヴンを心配したのか、それともいい加減うざくなったのか、時折フレダーから生存確認のような声が掛かった。
「いらない。今何か飲んだら吐く。珈琲嫌いだし」
「珈琲中毒みてーな顔してらっしゃるのになぁおまえなー。まあカフェインならコーラでも摂取できるわな。ガムいる?」
「フレダーが持ってるガムってミント系だろ。口の中がイラっとする。フルーツフレーバーにして。ジェリービーンズならもらう」
「オレの机の中のジェリービーンズ、カラスの餌状態なんすけど」
苦笑いしつつもフレダーはジェリービーンズの袋を投げてよこしてくれた。
それを受け取る右手首がどうもすかすかとして、レイヴンの眉はまたぐっと中央に寄る。昨日の午前中までは、彼の右手首には確かに黒い皮の時計が巻かれていた。
時計を忘れてきた事に気が付いたのは、ホテルのエントランスを出てからだった。
財布と携帯ばかり気にしていたが、そういえばベルトもない。家を出る時にニット帽をかぶっていただろうか。それも忘れてきたのではないか。モッズコートはかろうじてひっかけてきたが、首に巻いていたストールもおいてきたような気がする。
あの男が眠る部屋に取りに戻りたくなかった。
書き置きだって悩んだ程なのに、顔を合わせて話したくない。時計もベルトも無くても生きていける。気に入っていたものだが、新しく買うしかないだろう。
お節介なオオカミはきっとレイヴンの忘れ物をどうにか届けようと悩むだろう。そういえば昼ごろに何度か電話が鳴っていたような気がする。ライカンスかもしれない。と思いつつも、確かめるのも嫌で放っておいた。職場にいるのだから仕事の呼び出しではない。友人知人など数える程も居ない。家族とは絶縁状態だ。取り急ぎ電話を無視してまずい用事など思い浮かばない。
日が暮れる頃にはレイヴンの吐き気もどうにか収まり、いい加減腹も空いてきた。このところ食欲とは無縁だったので、丸一日の睡眠が効いたのかもしれない。
特に何の仕事もこなせずにルースターサーチのエントランスを出た時、レイヴンは珍しくシリアルバーと炭酸飲料以外のものを食べる気になっていた。
外食は苦手だ。店も知らない。デリが妥当だが、ライカンスの部屋を監視するカメラを眺めながらでは食欲も失せそうだ。単純に見なければいい話だが、仕事場を後にしたレイヴンは誰かを監視していないと落ち着かなくなる。
残念ながら今監視カメラを仕掛けているのは、ライカンスの部屋とリサの部屋しかない。
どうせどこに行っても食事がうまいと感じることはない。不味い飯を食べるならば建設的に仕事に役立つところにしよう、と決めたレイヴンはメイプル・ダイナーに行くつもりでポケットに入れたチックタックのグリーンアップルタブレットを口の中に放り込んだ。
さてミッドタウンに向かう道はどの方向が一番楽か。
あまり働かない脳みそで地図を描いていたせいで、レイヴンは周りを見ていなかった。
だから最初は、自分が呼ばれているとは気が付かなかった。外に出た瞬間ヘッドフォンをする癖がついている。
レイヴンが振り向いたのは、彼の声が聞こえたからではない。
夜道のライトにも淡く光るような、灰色に近いアッシュブロンドが目の端に映ったからだ。
思わずヘッドフォンをむしり取る。
立ち止まったレイヴンの目の前で、昨日とは違うジャケットとセーターを着こんだライカンスは、きまり悪そうに苦笑してから手を上げた。
「あー……の、電話したんだけど、いや迷惑かなーと、まあ、ちらっと思ったんだけど。忘れもん、高そうだったし」
言い訳のように手に下げた紙袋を掲げて首を傾げる。その顔を、どんな顔をしてみていたかレイヴンはわからない。妙に顔が熱い気がして、三度瞬きした後にやっと、自分が表情を作り忘れていた事に気が付いた。
慌てて息を吸い、怒るべきか謝るべきかの判断をした。
……介抱してもらった。世話になった。レイヴンは他人の干渉が嫌いだ。それでも世話になったと思うし、普通の人間ならば心底感謝するはずだ。今のところレイヴンは、ライカンスに対して本性を隠している。知人でも友人でもなく、監視対象であり仕事の調査対象でもあるのだから当たり前だ。
謝るべきだ。
普通の人間ならそうする。
腹を決めたレイヴンは、視線を落として声を潜めた。
「……すいません。勝手に、逃げるみたいに出てきちゃって……申し訳ない、と思ったんですけど、会社にも無断で休んじゃったから。なんか、パニックになっちゃって……」
「あーまー、そうかな。そうだよな、俺勝手に連れ込んだもんなぁ……具合平気?」
「…………なんとか。あんまり、元気じゃないけど」
「そんな感じする。立ち話もなんだし、しんどそうだし俺帰るわ。これ、あーと、時計とベルトと帽子とストールとあと十ドル」
「十ドル?」
「あそこのホテルすんげー安いから二十ドルは貰いすぎになっちまうの。十ドルはありがたくいただいとくけどさ。なんか適当にうまいもんでも買って帰って食って寝た方がいいよ、顔色めっちゃ悪い、いや、俺がいう事でもないんだけどな……」
確かに顔色の悪さや体調不良に関して、他人にとやかく言われるのは嫌いだ。
しかしライカンスは微妙にそのあたりを配慮して言葉を濁すものだから、レイヴンは微妙な気持ちを抱いてしまう。
他人に配慮しすぎのお人よし。たぶんここでレイヴンが『あんたに関係ない』と怒鳴っても、彼は苦笑いで全くその通りだと許してしまうのだろう。
(……だめ。全然理解できない。なんだこの男)
俺様な人間らしい見た目なのに、ライカンスは妙に譲ることに慣れている。暴虐武人な王子のような甘い顔で、何故か彼は他人を慮り、何を言われても受け流してしまう。
理解できなくて思わず眉が寄ったが、ライカンスはそれをレイヴンの不快ととったのか、甘い息を吐いてそれじゃあと荷物を押し付けた。
紙袋を受け取った時に触れた肌はひどく冷たかった。
いつ出てくるかもわからない人間をアポもなしに待つなんて馬鹿だしあほらしい。自分は絶対にそういうことはしないし、待たれてうれしいともありがたいとも思わない。逆に煩わしいと思う。
それでもレイヴンは、踵を返すライカンスに声をかけた。
「あの。……ごはん、食べにいきませんか」
それは、演技だったのか仕事の一環だったのか。
レイヴン自身もよくわからなかった。
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