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バー・シュミットの落ち着いた木目のテーブルにだらしなくつっぷしたライカンスは、早くも二杯目のビールを煽る友人と薄いカクテルをちまちまと舐めている同僚に挟まれ、飽きることなくこの三日間ずっと呟いている台詞を繰り返した。 「やばい……」 ライカンスと彼の相棒であるドニーがシュミットの扉をくぐったのは今さっきだ。 先に飲み始めていたらしいディーンは、久しぶりに会った元同僚達を笑顔で迎えると、明らかに憔悴した様子のライカンスをひとしきり笑った。 ライカンスは長髪のアッシュブロンドだが、ディーンは明るいブロンドを短く切りそろえている。 ライカンスが甘い顔の貴族なら、ディーンはさわやかな騎士といったところだろう。かなり肉付きがいいドニーも交えた三人は、ファンタジー映画ならばちょっとしたパーティのようだ。 「完全にダメじゃないか。なんだよこの数日で何があったんだよ。あ。あれか? あれだな? お前が道端で倒れた人間を拾ったっていう例のアレだろう!」 「あー、いや、その節はほんと申し訳なかったわ……いやそれがマジでほんとやばい……俺だめなんだよ……一回はまるとまじでダメなんだよ…………」 「あーわかるぞ。一途っていうか、なんていうか、馬鹿っていうか一直線っていうか、お前わりと見た目からストーンと一目惚れしてそのまま引きずるタイプだよなー。儚い系弱い子がモロ理想って感じで。え。拾ったの男じゃなかったのか?」 不甲斐ないライカンスを思う存分笑い、ディーンはウイスキーを注文する。相変わらずこの友人は酒に強い、と無駄に関心してしまう。 「男。三つ下。毎日吐いてそうな超絶不健康でスーパーか弱いダメっぽい美人。ただし男」 「……ライ、お前ゲイだったっけ?」 「ストレート、だと、思ってたけど、なんか最近わっかんなくなってきた……なぁディーン俺ってゲイだったのか……?」 「知らんよ。なんだよ酔いもしないうちに絡むなよ。ドニー、こいつ最近ずっとこんななのか?」 「まあ、そうだねぇ。いやでも、仕事中はしゃきっとしてるんだよ、そういうところは流石だよ」 ドニーは笑ってフォローしてくれるが、ディーンは呆れた声をあげた。 「制服着てないとダメって事じゃないか。どうしたんだ珍しい。いつも惚れたのなんだの言っててもそこまでぐだっぐだに思い悩まなかっただろ。相手が男だからか?」 「……あー……いや、性別はまあ、そこまで……なんかこう、男って感じしないし、いや男だってのはわかってるし別に女っぽいとは思ってないし。なんだろうなーあー手が届くっていうか世話できちゃうからかなー」 「……そういやいつも微妙に立場違ったり、もう自立してたりする女に無駄な恋してたな。あー、なるほど、意中の美人は手を伸ばせば触れちまうのか。んで、触ったの?」 「思い出させんな理性が死ぬしあんときの馬鹿な自分を殺したくなるし自分がうらやましくて死にたくなる……」 「何したんだお前」 苦笑いで話を促すディーンに、ライカンスは流石に言葉を濁した。 バスルームで倒れていた彼の服を脱がしてほとんど全裸で同じベッドに入って抱きしめて寝た、などとはとても言えない。その行為に何の感情もなければ酒の席のネタにでもなるが、今のライカンスにはとんでもない生々しいエピソードにしかならない。 実際あの時はただのお節介で純粋な好意だった。 抱きつかれてどきりとしたし、妙に艶めかしい裸体に気まずくもなったが、それだけだ。たいして話もしたこともない年下の知人が倒れたから介抱した。本当にそれだけだった。 まずい、と自覚したのは一人で目を覚まし、彼が忘れていった諸々の物を届けに行った時だ。 正直どうしたらいいのか迷った。自宅は知らないが、会社の名刺は持っている。捨てるわけにもいかないが、郵送するものなぁと思い、とりあえず電話をしてみたが何度コールしても彼は出てくれない。 枕元には二十ドルが素で置かれ、その横には雑な字で『お人よしのオオカミへ』とだけ書いてあった。 ライカンスのあだ名の事は知っているらしい。皮肉のようにも受け取れたが、彼がその走り書きをしたと思うと、何故か微笑ましいような気分になった。 レイは、他人を頼るような人間には見えなかった。あんな風に倒れるくらいに体調が悪くて、いつも一人でどうにかしてしまうのではないか、と思う。 話すときの口調は頼りない風だが、どこか人を寄せ付けない雰囲気と意思を感じる。人間観察は得意だ。ライカンスの読みは外れていないだろう。 その彼が書いた、精いっぱいの『ありがとう』なのだ。 ……やはり、私物は返さねばならない。 そう決意して、ライカンスはルースターサーチの前で張り込みよろしく目的の人を待つことにした。 幸い、待ち人は一時間程で姿を現した。 声をかけてもすたすたと歩いて行ってしまい慌てたが、耳を覆うヘッドフォンのせいだと気が付いてほっとした。そしてライカンスの存在に気が付いた彼、レイは、淡いグレーの瞳に当惑と驚愕を思い切り乗せて三度瞬きをする間に、ぶわりと顔を真っ赤に染めた。 その可愛さたるや、とライカンスはジントニックのグラスを握りしめて思い返す。 あんなのは反則だ。 あれは確実に素だった。 すこし作った感じがする奴だな、とは思っていた。けれど、誰しも他人に対して全くの素でいることなどできない。ライカンスは嘘が嫌いだ。けれど、それは悪意のある嘘に限る。 対人関係における多少の嘘は仕方がない。誰もが正直にすべてを口にだしていたら、世界は大変な騒ぎになってしまう。 だからライカンスはレイの硬い態度も何かを隠したような雰囲気も、別段気にしてはいなかった。それが彼と自分との距離感なのだろう。そう思っていた。 それなのに、あの一瞬はどう考えても、どう見ても素だった。 首から耳まで真っ赤になったレイを見たとたん、ライカンスの頭にも彼の艶めかしい裸体が思い浮かんだ。 ライカンスはその動揺をどうにか飲み込んだし、レイの方も気が付けば何事もなかったかのように取り繕っていた。しかしその後に誘われた食事中も、帰り道も、ライカンスは彼の白い首元ばかりを意識していた。 骨の浮いた男の鎖骨が性的だなんて初めて感じた。 試しに待ちゆく男を何人か意図的に眺めてみたが、レイに感じたようなある種の欲情のような気持ちはまったく湧きあがらなかった。 そうだ、あれは欲情だった。 ライカンスは性的なものに関しては淡泊だ。女性に恋をしても、彼女達とセックスをしている自分を想像できない。恋情というよりは、憧れや庇護欲だったのかもしれない。 しかしライカンスがレイという青年に抱いているのは、自分でも理解しがたい欲望だった。 なにが自分の琴線に触れたのかさっぱりわからない。 わからないが、傾いてしまった感情は容易には戻らない。 どうしてだとかなんでだとか、そんな理屈もわからずにライカンスは始終あの骨の浮いた青年の事を考えてしまっていた。 「え、例のダイナーのウエイトレスさんはどうしたんだよ。告白する前に冷めた? それともフられた?」 唐突にリサの事を持ち出され、ただでさえ渋かったライカンスはより一層の渋面を作った。 「あー……リサ……うーん、いや、告白してないしフられてもいないんだけどさ、リサのことはかわいらしい女性だと今でも思うけど。思うんだけどさ」 リサのダイナーで食事を取っていても、考えるのはレイのことばかりだ。どうしてこうなってしまったのか、本当にわからない。 新しい恋に決して浮き足立っていないライカンスに、ディーンは更に現実をつきつける。 「まじめな話、ダイナーのウエイトレスとは結婚して家庭を持つこともできるわけだけど、お前の心をつかんで離さない彼は同性だし、うまくいってもパートナーとして生きていくのは色々保証もないだろう。そこんとこはどうなんだよ。好きなら構わない、みたいな年齢はとっくに過ぎてるぞ。その、ほら、例の大変やかましい家族とか、ただでさえ仕事辞めて帰ってこいってうるさいだろ」 ああ、そういえばそんな問題もあった、とライカンスはよりいっそう眉を寄せた。 レイを道ばたで拾ったあの非番の日以来、とても心の余裕があるとはいえず、結局実家には電話をかけていない。 暇さえあればライカンスの携帯に連絡しているらしく、一台目の携帯の着信履歴は見事に家族で埋まっていた。 「あったまいってえこと思い出させんなよ……てかたぶん彼と俺は付き合わない。だからそんなあり得ない未来のことはまだ考えてない。が、今のところの現状」 「なんでだよ。もしかしたらってこともあるだろう」 「あー……いやー……無理だろ……なんかガードかってーのよなぁ……」 「飯誘われたのに?」 「義理だろ。常人以上に無駄にお節介焼いた自覚はあるし。不機嫌そうでも嫌そうでもなかったけど、楽しそうかって言われたら首傾げる感じの微妙なテンションだったし。あれがデフォなのかもしんないけど。ああでも嫌そうに肉の脂身避ける感じたまらなかったな……」 「おまえのツボほんとわからないな」 そう思うだろう、とディーンに声をかけられたドニーは朗らかな顔で曖昧に笑った。 気のいい相棒は、妻子と離れて暮らしている。たまには酒でも囲もうとドニーを誘ったのは、以前十七分署で同じ業務に当たっていたディーンだった。 ディーンはライカンスの元同期だが、人当たりの良い性格で一種アイドルのような存在でもあった。 そんな彼が急に警官を辞めたのは、健康上の理由だった。警官として街を走り回ることができなくなった彼は今、FBIで研究員として働いている。実際に捜査に出ることはあまりないというが、犯罪を撲滅させるために切磋琢磨している仲間という感覚は、ライカンスの中に今でもあった。 そういえばリサのストーカーの件をレイに相談してみよう、と思ったはいいがタイミングがつかめず、結局何も解決していない。 FBIの管轄は州を跨いだ連続殺人、放火、誘拐事件、そしてテロなど州警察が対処できない事件が主である。そんな彼に特に実害のないストーカーもどき事件の相談をするのもなぁ、とライカンスは躊躇し、結局当たり障りない話を選んでしまう。 「しっかしこの週末はほんと地獄だよなー。なんだっけ? 大統領選挙の演説に? 首脳なんとかのサミットに? セントラルパークで大々的なハロウィンイベントにあとは駅だかデパートだかの改築セレモニーだっけ……何も全部同じ日にやらなくてもいいだろって話だよなぁ」 迫りくる週末の仕事に関して、分署内では勘弁してくれと早くも悲壮な声が上がっている。 FBIも忙しいのかと訊けば、ディーンは精悍な顔を歪めて笑った。 「忙しい忙しい。言っても良い範囲なら週末のあれそれに関して予告されてるテロ行為が二件程あるし、うちが追いかけてる犯罪組織が随分とそわそわし始めている。あとは怪しい宗教団体が何か妄言言ってて目が離せない。デモもあるだろ。それに関しては市警察の方が対処するだろうが」 「あったなーデモ。あったあった。俺はそっちの方じゃないけど、多分駆り出される奴もいるな。主義主張を叫ぶのは構わないけど他人を巻き込まないでほしいよ」 「まったくだよ。最近そんなんばっかりだ。頭の痛い他人ばっかりで困る。みんな幸せになったらいいのに、なんてメルヘンな事は言わないけど、もうちょっと浮かれた話が欲しいところだよ。これから新年だしクリスマスだってのに、面倒な事ばっかりで笑えないよな。俺の幸せ気分の為にライはさっさとその不健康そうな美青年を落とせよ、なぁ」 「軽く言うなよ……こちとら連絡先も怪しいんだぞ……」 「名刺もらったんだろ?」 「もらった」 「見せろよ」 「嫌だよ。家だよ。持ってきてねえよ」 「なんでだよ! お前のシンデレラの名前を俺にも教えてくれよ!」 「シンデレラ要素なんてどこにもないだろう勝手によくわかんねーこと言うなっつの……」 確かに、継母や義姉に虐められている様は少しだけ似合うかもしれない。しかし彼に似合うのはズタボロのドレスでもガラスの靴でもなく、あの薄手のよれたモッズコートだろう。 真っ黒な服に、くすんだ色のモッズコート。ダークブルーの髪の毛。全身深い色に身を包んだ彼のイメージは、お姫様というよりは黒い鳥だろう。 「……なーディーン。カラスが主役の童話ってあったっけ? いや、黒いヒロインでもいいけど」 「カラス……? 童話ってあんりカラス主役ないんじゃないか? 不吉な鳥っていうイメージ強いしな。寓話だったらわりとカラス関係多いだろうけれど」 「寓話ってあれか。イソップか。俺の嫌いなイソップか」 「そうだよお前の大嫌いなオオカミ少年はイソップ寓話。蟻とキリギリスとかな。イソップで有名なのは虚飾で彩られたカラスじゃないか?」 「なんだそれ」 「ああ、僕はそれ知ってるな。鳥の王様を決める日に、いろんな色の羽を身体に張り付けて虚勢を張ったカラスだけど、結局嘘を暴かれて真っ黒なカラスに戻ってしまうっていうやつだね」 ドニーが語った寓話は、聞いたことがあるようなないような、微妙なインパクトの話だった。 そもそもイソップ童話はライカンスの苦手なものの筆頭だ。自分の不名誉なあだ名のもとになった、という恨みもあるが、その内容があまり好きではない。確かにまっとうな事を言っている。ただ、まっとうなだけでは世界は回らない。 「イソップって頭固い気がして好きじゃないんだよな……ていうかなんでそんなにみんなイソップに詳しいんだ……」 「うちには全集があったんだよ。物心つく前から寝物語で聞いてればそれなりに覚えるし、嫌悪感もないよ。確かに頭は固いけどな。イソップはカラスと狼と狐の話が多いような気がするな。あの辺って『ずる賢い、怖い、人をだます、襲う』っていうイメージのある動物なんだろうな」 なるほどレイは確かにカラスの様だ。 だとしたら、ライカンスが知るレイのどこからどこまでは虚飾なのだろう。 あの時の首筋の赤さは、偽りではないとうぬぼれてもいいのだろうか。 またぐるぐるとレイの事を考えてしまうライカンスだったが、気持ちを切り替えることは難しい。 今日は友人と同僚をとことんつき合わせることにして、空いたグラスに次の酒を頼んだ。 「シンデレラかカラスか知らんが、例の彼は何をしてる人なんだ?」 なぜかしつこいディーンに、酒の入ったライカンスは特に何も考えずに言葉を返した。 「事務みたいな仕事だってさ。ルースターサーチっていう調査会社の」 「ルースターサーチ?」 これに珍しく眉を寄せたのは、ディーンではなくドニーの方だ。 珍しい反応に、ライカンスも姿勢を正してドニーを仰ぐ。 「……え、なに、なんか知ってるのか、ドニー」 「いや、あの、でもちょっと……僕の知り合いがそこに、違法な感じの盗聴をされたって相談されたことがあって」 「盗聴。……え、まじで?」 「そういう仕事だってのは、わからないでもないんだけどさ。後々録画されてた隠しカメラの部屋映像とかがネットに上がったとかで、随分ともめてたんだよ。どうも、バーで出会って、それから友人のように付きあってた人がルースターサーチの調査員だったみたいで、僕の知り合いは裏切られたってものすごく怒ってたな。だからあんまり良い印象がなくて……彼、ルースターサーチの人だったの? ライカンス、もし彼が何も知らずに働いてるんなら、転職を勧めたほうがいいかもしれないよ」 事務ならほかにも会社があるだろうし、と。 続けるドニーの言葉は、ライカンスの耳には届いていなかった。 監視カメラ。盗聴。バーで知り合った調査員。虚飾のカラス。 ――私、最近誰かに見られている気がして。 まさかそんな、映画みたいな事があるわけがない。 そう思いながらもライカンスは、芽生えた小さな疑念を振り払えなかった。

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