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「え、もう帰んの、極彩色」
定時ぴったりに帰り支度を終えてパソコンの電源を切るレイヴンの後ろからかかる声の主は、今日も仲良く一日同じ部屋で仕事をこなしたフレダーだった。
「帰る。つかおれ基本残業しない。面倒くさい」
「そりゃ知ってるけど。見てればわかりますけれど。なんかそんな、きちっきちっと時間厳守!! って感じでもなかったじゃないの。今日からドイツ人かよ。どうしちゃったの。週末だから? まさかデート?」
「…………」
「……え、いやネタで言ったんですけどマジですかレイヴンさん。マジ、あー、いや、そうかまじか……」
「何も言ってないじゃないか」
「見てればわかるってのこの予想外純情ボーイめ。相手はオオカミさんだろ?」
「言っとくけど、おれから誘ったんじゃないから。向こうが暇ならって電話を、」
「ひゅう! 脈ありじゃないの!」
勝手にはしゃぐフレダーに、レイヴンは細い眉を寄せた。
話はそこまで単純ではない。バッグを肩にかけてため息を飲み込むレイヴンの様子は少々異様だったようで、椅子をくるくると回していたフレダーはぴたりと止まると、厚い前髪の隙間からレイヴンを見上げた。
「何、随分とローテンションじゃないの。週末のデートとかもうそれ相当うきうきするイベント……あ、もしかして仕事か? まだあのオオカミがダイナー娘の浮気相手だって勘ぐってんの?」
「報告書はまだ提出してないけど五人でまとめた。その中にクライヴ・ウォルフェンソンは含めていない。リサ・ソーウェルが定期的にホテルに連れ込んでいるメンツだけにしたから。ライカンスはリサの部屋には行っていないし、リサもライカンスの部屋には行っていない。もちろんホテルにも。そもそもリサの浮気相手はみんな枯れたおっさんか童貞くさいフリーターばかりで、ライカンスを含めると彼だけ確実に浮く」
「はー。まあ、確かにあのおにーちゃんは枯れてもないし童貞でもないよなー。しかしそのリサって女もおかしな趣味よな。自分より下の人間を見下したいタイプ? それとも肩よせあってかわいそうねわたしたちって震えたいタイプ?」
「知らないよそんなこと。……ただ、ちょっとだけ、なんか、あー……変な感じはするんだよな……」
「変な感じ?」
「そう。報告書にまとめた五人、人生わりとどん底なんだよね。妻に逃げられてたり、親族が自殺してたり、急にリストラにあってアパート追い出されてたり。そんでリサと一緒に居るときは、なんていうか、心酔してるっていうか……」
「浮気じゃなくて、詐欺とかってこと? 結婚詐欺みたいな? でも男たちは金もないくずなんでしょ?」
「……屑だから搾り取れるものもあるのかも。浮気の報告書はこのまま出していいとは思うけど、なんか気持ち悪いからもうちょっと監視しておこうかなって思ってさ」
「ふーん。じゃあやっぱ今日のオオカミさんとのデートは、それの探り?」
「デートじゃないっつってんじゃん」
一応否定はしてみるものの、じゃあ何か、と訊かれたら正直ほかに答えようがないのも確かだった。
レイヴンの携帯が鳴ったのは、昼過ぎのことだ。相手はフレダーの予想したとおりライカンスだった。
昨日もライカンスは夜のシフトをきちんとこなしていた。レイヴンが出勤する際に監視カメラに映っていた彼は、ベッドの上で静かに眠っていた。
まだ眠そうな声で、ライカンスは今日の夜暇かとレイヴンを誘った。なんと答えたら適切かとっさに判断ができずに、三秒も迷ってしまった。
レイヴン本人はこんな誘いは絶対に受けたくない、と思う。彼と一緒に居ると、自分のペースが乱れる。それはとても気持ちが悪いことだ。ただでさえ危うい自我がぐらつく感じは最高に気持ち悪い。
しかしライカンスに向けて演じているレイは、少し気弱なだけの青年だった。予定がある、と断ってもいいのだが、彼の誘いを断ると、この先も会うチャンスはなくなるかもしれない。
リサの調査はほとんど終わっている。しかし、少々気になることもある。これからの調査のことを考えると、ライカンスとの関係はこのまま続けた方がいいのではないか。
これは後々、午後の仕事をこなしながらレイヴンがとってつけたような言い訳に過ぎないのかもしれない。
結局レイヴンは躊躇の後に彼の誘いにOKしたし、電話を切ってからしばらく、どうして断らなかったのか、と自分の選択にひどく絶望した。
会いたくない。彼に会うと苛立つ。
あの真っ当な割に意味の分からない善良なお人よし精神は、一体どんな環境で培われたのか。理解できない。想像もできない。
少々仕事合間に調べたところによると、ライカンスは家族とはかなり微妙な距離感を保っているらしい。それでよくひねた人間にならなかったものだ。これも、レイヴンには理解しがたい。
レイヴンは思い出したくもない子供時代を送った。
だから自分の性格がひねくれた、と全面的に他人の所為にするのはどうかと思うが、少なからず人格形成と体調不良には影響を受けているだろう。レイヴンが水を苦手とするのも、暗闇の中が我慢ならないのも、誰かを監視していないと落ち着かないもの、ほとんど家族と呼ばれるあの屑達が関わっている幼少時代に因果がある筈だ。
レイヴンの生活に家族は不要だった。生きる為に邪魔だった。だから捨てた。一人きりになった。一人で生きていける能力も経済力もなかったが、どうにかこうにか今はなんとかなっている。ホームレスになったとしても、あの家族の元で息をするよりはましだと信じていた。
ライカンスも家族を疎んでいる筈だ。
レイヴンとは事情が違うだろうし、嫌いという程ではないのかもしれない。それでも彼は家族の電話にのらりくらりと相槌をうち、相手の無意識の悪意を何事もなかったかのように受け流してしまう。
理解できない。意味がわからない。嫌なら嫌と言えばいいし、怒ればいいのに。
どうして彼は怒らないのか。どうして彼は諦めてしまうのか。どうして彼は、それでも優しさを返すのか。
意味がわからなくて苛々した。
ライカンスを見ていると苛々する。善意が嫌いなのではない。悪意よりはマシだ。そう思うのに、彼の善意を見ていると、どうにも奥歯を噛み締めるような苛立ちが募った。
子供みたいでいやになる。他人に振り回されるのが嫌で、だからライカンスには近づきたくないのに、結局誘いを断れない。
「嫌いってのは興味だよ。我慢ならないのは好きだからじゃないの?」
苛々と爪を噛んでいたレイヴンは、そのわかり切っているけれど認めたくない答えをさらりとフレダーに言い当てられ、明確な頭痛を覚えた。
「……どや顔がむかつく。三十点」
「わりと点数高めで驚いたー。いやでも真理でしょ? なんかイラっとするなぁっていう女優とか歌手とか、そういうのって大概最終的には好きになってるもんよ。生理的に無理っていうの以外は、そうなんじゃないの?」
「生理的に無理な可能性もあるだろ」
「いやないでしょ。だってお前、隣のビルのピーターに好きですセックスしてくださいって告られたらどうする?」
「ふざけてんのか死ねって言って一発殴れそうなら殴って家に帰って手を洗って寝る」
「ほらみろーこの面食いめピーターに失礼だぞー。まあ俺もそうするけどー。つまりそういう事でしょーが。極彩カラスはオオカミさんが好きだから意にそぐわない行為見てると苛々すんでしょ」
「……なにそれ、おれが子供みたいじゃん」
「人間なんて大概子供よ。大人ぶってわけわかんない高尚なことぶっぱなして見栄はるより、ガキっぽくわがままぶつける方がおれぁ好きね。まーこれ、オオカミさんじゃなくて蝙蝠の見解だけど。飯誘われるってことは脈あるんじゃないの? ゲイか知らんけど。フレキシブルな世の中じゃんよ」
フレダーは他人事だと思って適当にけしかけるが、レイヴンはそう簡単にテンションを切り替えることなどできない。
レイヴンが素直に感情を認めたとしても、例えばその思いが成就するかと言えば絶望的だった。
何しろライカンスはどう見てもどストレートだし、本人の見た目がよすぎる為に始終女性からアプローチされている。ライカンス自身が若干鈍感でお人よしのせいで、彼女たちの涙ぐましい努力はスルーされがちだったが、盗聴器が拾う会話を聞いているだけでも、彼が異常にモテている事が伺える。
ライカンス自身はどうもリサ以外に興味がないらしく、なにか好意を示されてもそれを博愛のような優しさだと感じているようだが。彼に対して性的なアプローチを繰り返す女達に、レイヴンは吐き気のような嫌悪を感じた。
近づくな雌犬、と言ってやりたい。
けれど、言えるわけがない。
そもそもレイヴンは、ライカンスの前ではすこし気弱な青年を装っている。いきなり中指を立てて言いたい事を言う訳にいかない。
レイヴンは嘘をついている。ライカンスがもし、万が一レイヴンの事を気にかけて、友愛か恋愛かはわからないが好意を抱いてくれているとしても、彼が好きになったのはおとなしく口下手なルースターサーチの事務員、レイ・ストークスだ。
それは、レイヴンではない。
嘘が嫌いだと豪語する善意まみれのオオカミに、卑怯で惨めなカラスは嘘をついた。
こんなはずじゃなかった、とレイヴンはずきずきと痛む頭に手を添える。こんなはずじゃなかった。ライカンスに近づいたのは仕事のためだ。彼を観察していたのは趣味だったが、それも恋愛などという面倒な感情の所為じゃない。ただ、誰でもよかった。あの日、ミッドタウンの交差点でたまたま彼が強盗犯を取り押さえる場面に遭遇しなかったら、レイヴンは他の人間を今も監視していた筈だ。
動くな。
そう叫んだ声はまだ耳の中に残っている。
けれど、それは恋ではなかった。レイヴンが始終ライカンスの事を考えてしまいそんな自分に苛立つようになったのは、彼の体温を直に感じてしまったあの日からだ。
思い出したくない。
思い出すと落ち着かなくなって息がおかしくなる。その上体温も上がるし、そんな自分の変化がたまらなく気持ち悪く、じっとしていられない程苛々した。
それなのにふとした瞬間に、抱きしめる腕の感触がよみがえる。
このままフレダーと話していると余計な事を口走りそうだった。適当なところで時計を気にしながら、レイヴンは話を切り上げた。
がんばれよ、などと無責任な事を蝙蝠は言う。何を頑張れというのだとカラスは眉を寄せた。
会社のエントランスを出る。
冬前のNYの風は冷たいし、かさかさと乾いている。炭酸が飲みたい。身体が冷たいことには慣れすぎていて、暖かいスープを欲することは少なくなった。
しばらく薄暗い街を歩き、指定の待ち合わせ場所に向かった。小さなコーヒーショップの前で誰かと話しているライカンスを見つけて思わず足が止まる。
流石、人気のおまわりさんだ、と皮肉を浮かべたところで相手が女性だということに気が付いた。ライカンスの苦笑いから、彼女が知り合いではなくただのナンパだということを察した。
途端にレイヴンの胃がずしりと重くなる。内臓が、急に重力を感じたかのようだ。眉間に力が入る。そんな自分の意図しない変化が、とても気持ち悪くて、嫌だ。
踵を返して帰ろうかと迷った。しかし、判断をする前にライカンスと目が合ってしまった。
女性に対して申し訳ないというジェスチャーをして、ライカンスは速足にレイヴンが足を止めたところまで駆け寄ってきた。恨めし気な女性の視線がレイヴンにささる。ざまあみろ、と思う。思った言葉がそのままレイヴン自身にも刺さる。
「おつかれさん。わりと早かったな」
「遅い方がよかった? ……もっと彼女と話したかったら、別に、僕は帰るけど」
思いもよらず口から出た言葉にはひどくとげがある。レイヴンの冷たい言葉にライカンスは驚いたようだったが、正直なところレイヴン自身も驚いていた。
こんなことを言うつもりではない。適当に話を合わせて、適当に帰るつもりだ。それなのに口はレイヴンの嘘を貫き通してくれない。
「あ、いや、彼女は、別に友人とかじゃなくて、あー……道を案内してくれって言われたんだけど。人を待ってるからって申し訳ないけど断ったところで――、え、なんか、怒ってる……?」
「別に。全然。怒ってなんかないけど」
「眉間のシワがすごい」
「寒いから。顔に力が入る」
「……ああ、まあ、そうだな、今日は特に冷えるよなぁ」
なんだか妙に嬉しそうなライカンスの言葉に苛立つ。むず痒いような雰囲気にも腹が立つ。その上ライカンスはレイヴンの頬に軽く触れると、冷たいと笑う。苦笑のような、独特の甘い表情が嫌だ。
「マフラーは?」
「……家、かな。会社かも。朝はしてたような、気がする」
「ほんっと忘れ物多いよな……あ、いやこれ別に悪いとかじゃなくて、なんか、見た目よりうっかりしてるところ悪くないっていうか、えーと。寒いなら、ほら俺のマフラーしとけ。ちょっと歩くけどいい?」
ふわり、と暖かいマフラーが首元にかけられた。
ライカンスのマフラーを、まるで恋人のように巻きつけられながら、レイヴンは彼の肩越しに先ほどのナンパ女がこちらを見ている事に気が付いた。
その妬ましいような表情から、自分たちが他人から見ても恋人のように映る事を知る。
レイヴンとライカンスの身長はそこまで変わらない。ほんの少しライカンスの方が高いくらいだ。決してレイヴンは女性には見えない。それでも、今二人の間に漂う甘痒い雰囲気は、恋人のそれなのだ。
ざまあみろ。
肩越しに恨めしそうな女に笑う。
そしてそれは、自分への自嘲でもあった。
ざまあない。
何が恋だ馬鹿じゃないのか。
ほんの少し浮かれている自分はただの馬鹿だ。
オオカミも馬鹿だ。こんな嘘らだけの虚飾のカラスに惑わされて馬鹿だ。けれど、本当に馬鹿なのは、嘘しかつけないカラスだろう。
馬鹿だと自嘲していなければ、頭のおかしな告白を口走ってしまいそうだった。
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