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その日鈍い頭痛とともに目を覚ましたライカンスは、インスタントコーヒーを飲みながら先ほどまで見ていた夢を反芻した。
夢の中で、ライカンスとまるで新婚夫婦のように寄り添っていたのはあの不健康そうな青年だった。
情事の夢の方がまだマシだ。彼と手をつなぎキスをする妄想は、ひどく生々しくそれでいて幸福感にあふれ、まるで初恋に抱いている幻想のようだった。
少女趣味すぎる自分の頭に笑ってしまう。ひとしきり頭をかかえ、失笑し、絶望してから腹をくくり、昼過ぎに彼の携帯に連絡を入れた。
思いも寄らすあっさり夕飯に誘えてしまった為に、そこから慌てて店を探す羽目になった。
寝ぼけ気味のライカンスは、どうせ断られるだろうと思っていたのだ。断られるだろうが夕食を誘うという口実で、彼の声が聞きたかった。
重傷じゃないか、と頭の中でディーンが笑った気がした。
重傷かどうかはわからないが、いい加減、この執着はなんなのだ、などと自問自答するのもばかげていることはわかっていた。
けれど彼にはおそらく秘密がある。
その確信が、ライカンスに二の足を踏ませる。
いっそ本人に確認できたら、これほど楽なことはない。一体レイは何者なのか。ルースターサーチとはどういう会社なのか。ライカンスに出会ったのは偶然なのか、それとも故意なのか。そして今、レイはどういうつもりでライカンスの誘いを受けているのか。
自分が彼にその問いかけを羅列している様が想像できず、だからダメなんだとため息を吐いた。
当たって砕けるのが怖い。小さな可能性の芽を、自分で否定してしまうのが怖い。
「…………このへたれオオカミが」
ひとり呟き、うなだれたところで、状況はなにも変わらない。
とりあえず目の前にあるやるべきことを片づけることにしたライカンスは、軽い掃除をすませると買い出しに出た。
一人で入れるダイナーや安いバーは知っていても、レストラン類にはとんと疎い。まずレイがなにを好むのか、なにが苦手なのかもわからない。先日食事をともにしたときに脂物とコーヒーが苦手だ、と言っていたのは覚えている。
彼の深い隈を思い出したライカンスは、いっそ自分で作るという結論を出した。
料理は苦手ではない。特別うまいものができるかと言えば怪しいが、人混みが苦手らしいレイを引きずり回すこともなく、それなりに栄養のある夕飯を振る舞うことが可能だ。
なによりライカンスも他人の目を気にせずに済む。
とりあえずの下拵えを終えてレイを迎えに行き、連れだって戻った時にはもう日も暮れていた。
店ではなく自宅でもいいか、と尋ねた時、レイは特別な反応を見せなかった。そもそも、彼はあまり表情を変えない。ライカンスのマフラーに半分程口を埋め、目を伏せて頷く様はどうしてかとてつもなく愛らしく見え、ライカンスは自分の傾いた心をまた自覚することとなった。
「別にきれいでもないけど、まー汚くはない、とは思う。触られて困るものは銃以外にはないから、適当にくつろいでて。あー……飲み物はジンジャーエールでいいんだっけ?」
「炭酸ならたいがいなんでも……」
「酒は?」
「あんまり……たぶん、飲めなくはないけど、飲まなくても、だいたいふらふらしてるって言われるし」
それは確かにそうだろう、と思う。
現にライカンスの家にたどり着くまでに、レイは三度程なにもない地面の上で転びかけたし、そのたびにライカンスが支えてやることになった。
相変わらず彼の体温は低く、その上驚く程軽い。女性ならば天使のようだと形容するところだが、お世辞にもそんな可愛らしい感触ではない。サバンナのやせ細った草食動物が頭に浮かび、ライカンスは普段のレイの食生活についてお節介にも尋問しそうになった。
目の下の隈は相変わらずだし、腕の細さは痛々しい程だ。コートの襟の中に見えた首も細く、首元がゆるく開いた黒いインナーから覗く鎖骨はくっきりと浮いている。
職業柄他人の身体を見ることもよくある。それでも、レイの白い肌と鎖骨を見たライカンスは、思わず目を逸らしてしまった。
そのまま何事もなかったかのように彼の手を引き、部屋に案内し、適当な椅子に座らせ、久しぶりにきちんとレシピをみながら作った適当な料理を並べたものだが、やはりコートを脱いだレイの首元が気になって仕方がない。
サラダの玉ねぎを避けるレイは、ライカンスの少々ふしだらな視線など全く気にする様子もない。
彼にとってはライカンスの存在よりも、出された食事の中で何が食べられて何が食べられないのか、そのことの方が重要そうだった。
そういえば先日の食事でも、ひたすらソーセージとキャベツを食べていたような気がする。
炭水化物が苦手なのか、と問いかけると、トマトのスープのスープ部分だけを器用に啜っていたレイのスプーンが止まった。
「……あー……そう、かも。別に、好んで食べないかな」
「肉も好きじゃないんだろ?」
「鶏肉はわりと食べれる。でも豚は臭いが嫌いだし牛も血っぽくてだめ。魚は生臭くて好きじゃないけど……野菜は、まあ、マシな方……」
「オニオンとカリフラワーもダメっぽいのは把握したよ。むしろ好きな飯って存在すんの?」
「…………ホットドックはわりと好き」
「おーけー。じゃあ今度の飯はホットドックな。美味い屋台をリサーチしながら仕事するよ」
軽く笑ってミートボールにフォークを刺したライカンスは、レイがじっと自分を見ている事に気が付いた。
「何? ……なんかついてる?」
「いや……なんで、僕はご飯に誘われてるのかな、と、思って」
至極もっともで率直な疑問だった。
ストレートな言葉に、ライカンスは苦笑いを見せる。
「あー。嫌だった?」
「……嫌だったら、来ないけど」
「だろうな。じゃあたまに付きあってよ。見ての通り独り身で暇だし、わりと友人も少ない。同僚たちは大概妻子持ちだ。時々誰かと飯食いたくなるんだ」
「結婚はしないの? ……随分、モテてるみたいだけど。さっきも声かけられてたし」
「いや、あー……ああいう、ナンパみたいなの俺苦手で……っていうと、そんな顔して何言ってんだって言われんだけど、そんな顔ってどんな顔だって話だよ。ナイトクラブで一人で飲んでて女性の誘いを断る男はナルシストか文芸オタクかホモかって思うけど、街に立ってるだけで『そんな顔して』なんて言われんのは不本意だ」
「……なんか、それはちょっと、わかるかな」
「レイ、めっちゃナンパされるだろ」
「………………まぁ……ものすごく、って程じゃないけど……わかるよ。好きでこの顔に生まれたんじゃないし、好きで、この街に生まれたんじゃないし」
「NY嫌い?」
「別に。普通。僕の事なんか聞いても楽しくないんじゃない?」
「そうか? 自分じゃない人間の話って、俺はおもしろいって思いながら延々と聞いちまう人。つまらないって人もいるだろうし、どうでもいいって人もいるだろうし、どっちがえらいとかすごいとかじゃなくてこんなん感性と性格の問題だろうけどなぁ。つか、つまらないと思ってるなら家に招かないし飯も振舞わない」
「物好き」
「たまに言われるな、それも」
うははと笑うと、レイは口を噤んでおとなしくスープの中にスプーンを浸した。
ライカンスはちゃんと食べろとは言わなかった。
好きなものを好きに食べたらいいと思う。偏食で健康を害すのはあまり関心しないことだが、無理強いすることでもない。誰にも迷惑をかけないのならば、好きにしたらいいと思う。
個人的に倒れるレイの事が心配ではあるので、必要最低限の栄養と睡眠くらいはとってほしい、という本心を軽く添えると、レイは細い眉を少し寄せた。
「……大概の人間にもっと食って寝ろって言われるんだよね」
「まーそら、そうだろう……ほっそいじゃん。体重俺の半分くらいしかなさそう。いやさ、別に、無理して頑張って健康になる必要なんてないと思うけどさ。俺は仕事柄、体調管理しないとまずいからやってるし、運動も意識的にこなしてるけどな。いーんじゃないの、別に、多少の不摂生は……ただ、ほら、この前みたいに倒れて意識怪しくなるってのはちょっとかわいそうかなって思う。あれ、辛いだろ?」
「まあ……気持ちいいものじゃないよ。でも」
「でも?」
「――食べたくないし、寝れない」
医者には行ったのか? と訊くのはやめた。
おそらくレイはそういう機関に顔を出すことを好まない人間だろうと思った。不眠症だと言われてもそれはそうだろうと納得する以外に反応ができない。
目の下の隈は、メタルバンドのメイクのように濃い。元々の顔が雰囲気のある造形だから違和感がないが、普通の人間ならば薬物中毒を疑われるレベルだ。
もっと食べてもっと寝て、そして笑ったらものすごくかわいいだろうに。
と、口から出そうになって思わず押しとどめたせいで、不自然な沈黙になってしまった。
いくらなんでも成人している男相手に可愛いという言葉は、無い。自分だって言われたら座りの悪い気持ちになるだろう。嫌な誉め言葉ではないが、それは恋人同士で褒め合うような言葉だ。知人の男性から言われてうれしいものではないだろう。
しかし、スープ皿の下に残った野菜をざくざくと手持無沙汰に刺す様が、異様に可愛い。それを嫌そうに口元に運んで、仕方なく咀嚼してみせる様も、やはりライカンスにはたまらなく思えた。
ともすればにやけてしまいそうで、あわてて頬杖をつき、手で口元を隠す。
そのうち見ているのがバレて、レイの眉はもっと寄る。
不服そうなのに、その後何か言いかけてふいと視線を伏せるさまがどうにもライカンスの琴線に触れた。このまま見ていては手を伸ばしてしまいそうだ。だからと言って、二人の空間をお開きにしてしまうのは惜しい。レイが、次の食事の誘いにOKを出してくれるかはわからない。
酒でも飲んで落ち着こう。
ライカンスがそう思い、キッチンに積んであるビール瓶を手にしたところで、ライカンスの携帯が鳴った。
二つ目の携帯だったので、家族ではない。それだけでとりあえずほっとしつつ画面を見ると、そこに表示されている名前にほんの少し目を瞠った。
リサ・ソーウェル。
いきつけのダイナーのウエイトレスで、ほんの少し前までライカンスが一方的な憧れを抱いていた女性だ。
いいな、と思っていた時は特別な関係にはなれなかったのに、ライカンスの心が他の人間に傾いてから彼女との距離は近くなった。皮肉なことだが特別、悪い事ではない。二人は特別な関係ではなかったし、友人が増えることは歓迎すべきことだった。
それにしてもこんな時間に何の用だろうか。
ちらりと確認した時計は、もう夜の八時を過ぎている。ダイナーの仕事は終わっている筈だ。
急用なら無視するわけにいかない。
レイに断り、ライカンスは通話ボタンを押した。
「……あー、ハイ、リサ。今仕事あがりか? なにか急用でも、」
『ああ、ライカンス……あの、私、もう、あの……どうしたらいいか、わからなくて』
「――落ち着いて。何があった」
狼狽した様子に、思わず、普段の勤務時の緊張が蘇る。犯罪に巻き込まれた人間は、大概パニックを起こす。リサはまさにその状態に思えて、ライカンスは携帯をお持ちなおした。
『あのね、家に……今帰ってきたの、それで私、いつものように植物の鉢に、水を、あげようとして……倒しちゃって、そしたら、そこから、なにか変なものが、出てきて……これ、たぶん、監視カメラだと思うんです……、どうして、私のところに? 誰が? ライカンス、こういうものって、誰に相談したらいいんですか? 私、怖くなって……』
「監視カメラ?」
おとなしくスープ皿を啜っていたレイが、動きを止めたのが視界の端に映ったが、ライカンスはそれどころではない。
とにかく電話の向こうの女性を落ち着かせようと、言葉を尽くすことで精いっぱいだ。
「警察には?」
『まだ、これから……でも、こんなおもちゃみたいなものが見つかっただけで、来てくれるものでしょうか……』
「盗撮は犯罪だから、呼べば行くさ。あー俺が行けたらいいんだけどアルコール入ってるから、ちょっと無理だなごめん。電話番号はわかる?」
『はい、それは、わかります……今、友達も、一緒にいてくれて。だから、私は、大丈夫なんですけど、あのね、私考えて。最近、誰かを家に上げたかなって……そしたら、建物の検査だと言って、一か月前に業者の人を上げていた事を思い出して……あの、その人、私、思い出したんです』
「うん。あー、その検査の業者が犯人?」
『わからないけど……この前、ライにぶつかって……ほら、珈琲を零した……彼に、似ている気がして、それで……』
ぶつかって、珈琲を。
思わず振り向こうとしたライカンスの手を押さえたのは、いつの間にか後ろに立っていたレイだった。
抱き着かれるように腕を回され、通話中の携帯電話を取り上げられる。抵抗しようとおもえばできた。ライカンスは警官だし、体力もある。それをしなかったのは、レイに気迫や殺気がまるで感じられなかったからだ。
リサがまだ何か喚いている携帯の電源を切ったレイは、何を考えているかわからない顔でライカンスを見つめ、何か言おうと口を開き――そしてそのまま、言葉を放つ事はなく目を伏せてしまう。
茫然としているライカンスを後目に、レイは椅子にかかっていたコートを掴んで部屋を出ようとした。
「――いやいやいやいや!」
慌てたライカンスは、大股で追いかけ、その細い腕を少々強めに掴む。
「待て、ちょ、何かっこよく出てこうとしてんだ、おま……何か言いたいなら言えばいいだろ!」
「……急用思い出した」
「このタイミングでっておかしだろう。お前、リサのストーカーとなにか関係あるの?」
「ある、って言ったら、この手離して家に帰してくれる?」
「『もうあんたとは会わない』とか言わないなら、放してもいい」
この言葉に、伏せられていたレイの瞳が大きく開いた。
「…………何言ってんの」
「俺もまじで何言ってんのって感じだけどうるせーよ何もわかんねー状態で判断なんかできっかよ。パニックになってるけど、いろいろ置いといてとりあえずこの手を離したらやばいってのはわかんの。あー……わかった、一個だけはっきりさせて。それだけわかったらとりあえずこの手は放すしレイも帰っていい。OK?」
「……OK」
「よし。じゃあ、いちばん大事な事。おまえは、犯罪者じゃない?」
「――微妙」
「なんだそれ……違うって言えよ馬鹿」
それでもライカンスはへなりと笑った。
「答えただろ。離して」
「はっきりしてねーから離せない。もう一個だけ」
「何」
「来週、俺とホットドック食いに行ってくれる?」
「……なんで」
「わかんねーよなんでかなんて俺も。でも俺はレイに会えなくなるのは困るし嫌だしキスしたい」
とんでもない告白をしている自覚は一応あった。あったが、口から出てしまったものはもうどうしようもない。
パニックとノリだけで普段ならば絶対に言わないような欲望を垂れ流した。ライカンスの素直すぎる願望を聞いたレイは、二度程瞬きをして、その後にかわいそうになるくらいに真っ赤になった。
こういうところが可愛い。
恋なんて興味ない、みたいな顔をしているくせに、純情で愛おしい。
かわいくてかわいくて、思わず手が出た。
掴んでいる手を引きよせ、多少強引に抱きしめる。抵抗がない事を確かめ、ライカンスはレイの細い顎に手をかけた。
他人とキスをするのはいつぶりだろう。男とキスをするのは初めてだ。
レイの口内は予想通り冷たい。かさついた唇を唾液で濡らすように舐めると、抱き寄せた細い腰が震えた。かわいい、と何度目かわからないどろりとした愛おしさが湧きあがる。
絡まる舌は拒絶をしなかった。
調子に乗ったライカンスは、思う存分レイとのキスを堪能した。そのうちに息が辛くなったらしいレイが、ライカンスの背中をほとほとと叩いてギブアップを知らせるまで、ライカンスは細く冷たい生き物の唇を貪った。
名残惜しく唇を離し、ぐったりと息を乱すレイの背中を申し訳なく撫でつつも、言いたいことを言わなくてはと思う。
「ホットドック、一緒に食べに行ってくれる?」
こくり、と頷く首筋が赤い。やっとライカンスはレイの身体から手を放し、乱れた服を直してやりながら苦笑した。
「俺は俺で勝手に調べるかもしんないけど、絶対にレイの話も聞くから。今日じゃなくていいけど、ちゃんと、話きかせてくれる?」
「……ん」
「よし。じゃあ、また電話するから。出ろよ。出なかったら職場まで行くぞ。あとできるだけ寝て。倒れないように。あー……なんだ、ママみたいになっちまうな。えーと、まあいいや。おやすみ。……あ、レイ」
「なに」
もっかいキスしていい? と抱き寄せた身体は、呆れたようにため息を吐いたが嫌がることはなかった。
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