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レイヴンが鞄を忘れた事に気が付いたのは、自分のアパートのエントランスに入ってからだった。
馬鹿か、と自分を詰っても、忘れたものは瞬間移動してくるわけでもない。
ぼんやりしていた。ぼんやりしてしまうだろうあんなもの、と今度は自分以外の相手に責任を押し付けるように憤った。
正直どうやって帰ってきたのか、記憶にない。何度か躓きそうになったような気もする。鞄を持っていない事にきがつかなくても仕方がない。財布と携帯と部屋の鍵は常にコートのポケットに入っていたので、とりあえず締め出されるということはないし、またあの男のいる部屋に戻らなければいけないということもなかった。
たいしたものは入っていない。
どうせ来週会うことになるのなら、その時でも構わない。
ライカンスの方は慌てて届けようとするかもしれないが、レイヴンはしばらくは彼と連絡を取ることさえできなそうだった。
短時間で様々な事が起こった。ただでさえ弱いレイヴンの神経は、もう訳がわからないくらいに疲弊している。
キスをしたのは初めてかもしれない。
セックスだけをする相手と、レイヴンはキスをしない。求められても、気がつかないふりでかわしたし、相手も大概はそんな甘いコミュニケーションよりも確実な快楽を求めて腰を動かした。
もしかしたら行為の最中にハイになって何度か経験しているのかもしれないが、意図的に舌を絡めたのは初めてだ。
もちろん、拒もうと思えばできた。
腕をつかむライカンスの手の力は強かったが、キスに関しては強引ではなかった。初めての行為で、レイヴンはなにをつかめばいいのかわからず、ライカンスの袖をしわになるほど握ってしまった。
唇の感触を思い出し、熱い舌に浸食される感触を思い出す。その間にも足を進めてはいたので、何度か車にクラクションを鳴らされ、何度か信号を無視し、何度か街灯にぶつかったような気がする。そのあたりの記憶でさえもあやふやだ。
顔に上った熱さがとれない。顔を隠すように埋めるマフラーは、帰りがけにライカンスが巻いてくれたもので、整髪料のような不思議なにおいがした。
マフラーを巻いて送り出してくれたライカンスも、レイヴンの鞄のことにまで頭が回っていなかったようだ。
思い返してみれば彼の方も相当訳がわからなくなっていたらしく、何度か机に足をぶつけていた。
キスの後、彼の腕から解放されたレイヴンは逃げるようにライカンスの部屋を後にし、どうにか自宅まで帰ってきたわけだが。
(殺される……しぬ……)
部屋の鍵を開けて玄関先でへたりこんだ後も、レイヴンの日常は戻ってくれない。
病気か、というほど体が熱い。馬鹿だ。馬鹿か。自分でもそう思う。たったキスの一つで、こんな、と思うがそもそも拒まなかったのはレイヴンの判断だ。アレを甘んじて受け入れた時点で、レイヴンはもうおかしくなっていた。
ライカンスの熱っぽい視線には気がついていた。知らないふりをするのが疲れる程わかりやすく、彼は好意をたれながしていた。
料理は特別おいしい程ではない。けれど、レイヴンも食べれるさっぱりした物が多く、彼の気遣いを嫌でも感じてしまう。
だらだらと咀嚼するレイヴンを見つめるライカンスの視線の熱さは、思い出すだけでおかしな気分になる。
今まで、行きずりの人間や知り合いに似たような視線を送られアプローチされることは少なくなかった。そのときには気持ち悪いとしか思わなかったのに、ライカンスに対してはそうは思わない。
気持ち悪いのは相手の好意ではなく、自分の欲情だ。他人にたいして抱くこの如何ともしがたい欲と浅ましい気持ちが、レイヴンにとっては不気味で嫌だ。
誰かに心を奪われるなんて気持ち悪い。
虚飾ばかりカラスが恋をするなんてばかげている。
しかも、相手はストレートの男だ。嘘が嫌いなオオカミだ。
彼が口説くようなキスをしたのは、レイヴンではなく、口数の少ない青年レイ・ストークスだ。自分ではない。これもわかっている事なのに、頭がうまく処理してくれない。ただ、きちんと意識して呼吸をこなしていないと、涙がこぼれてしまいそうになった。
へたりこんだレイヴンは、耳をふさいでマフラーの中に顔を埋めた。
理性だと思い込むプライドは傾く感情を許さない。それなのに、身体ばかりがおかしくなる。ライカンスの事を考えると熱が上がり、どうしようもなく目の奥が痛くなる。
「…………しんど……」
こんな変化も感情も何もかもいらない。
そう思ったところでうるさく鳴る心臓が落ち着くわけもなく、暫く膝を抱えたレイヴンはとりあえずの問題をすべて棚上げし、寝てしまおうと思ったのだが、そのタイミングでジーンズのポケットの中の携帯が振動した。いきなりのことに、文字通り飛び上がってしまい、そのまま躓きそうになった。
登録していない番号だ。だが、見覚えがある。
確かこれは、ライカンスの普段使っていない方の……そう、家族用の携帯の番号だった筈だ。
教えられたわけではないが、ストーカーの用に暗記している自分がさすがに、感覚ではなく客観的に気持ち悪い。
どうせ、忘れた鞄のことだろう、と思ったからだ。
悩みだすと一生電話を取ることが出来なさそうで、レイヴンは何も考えないようにして冷たい機械を口元に寄せた。
「……はい」
なるべくなんでもないように声を出したが、うわずっているような気がしないでもない。
とりあえず普段通りのことをしよう、と這うようにデスクに座る。レイヴンは部屋での時間の大半をデスクの前で過ごす。キッチンはほとんど使わないし、眠れないのでベッドの中に居る時間も短い。
ほとんど成人してからの時間の大半を、この机と椅子の上で過ごしている。
自宅が好きとも言い難いが、とりあえず一番落ち着く場所は、この椅子の上だ。
『やぁ、あー……さっきぶり。ちゃんと家に着いた?』
慌てた様子もないライカンスの声は、いつもどおりでかなり癪だった。
「おれは、酒飲んでないし」
『それはそうだけど、一緒に歩いてた時もなんかほやほやしてたじゃん。もう家っぽいなぁ、鞄忘れてっただろ』
「あーうん、……ごめん、さっき気が付いた。でも、財布も鍵も携帯も持ってるし、たいしたもん入ってないから、来週でも――」
『あと、コートかなんかのポケットに、レイのもんじゃない携帯入ってない?』
「携帯?」
言われて初めて、コートのポケットを漁り、左のポケットに見慣れない携帯が入っている事にやっと気が付いた。
ライカンスの二台目の携帯だ。リサからの電話に動揺したのはライカンスだけではない。どうしてあの電話を切ってしまったのかわからないし、どうしてライカンスの携帯を持ってきてしまったのかもあまり覚えていない。おそらく、キスをしている時からずっと手に握っていたのだろう。
そのまま、自分の携帯電話と勘違いしてコートに突っ込んでしまったのだ。
「……ごめん、うちにある……あー、どうしよう、戻ろうか?」
『いやいいよ、こっちの携帯も一応重要なもんは登録してあるし、職場のやつらはどっちも番号知ってるし。ただ、そっちの携帯鳴っちまうかもしんないから、アレなら電源切っといて。いやまあ、取りに行ってもいいなら行くけど、わざわざ持ってきてもらう程じゃないっつーか』
「え、あ。来る?」
『……え、行っていいの?』
「…………………」
ライカンスが、この部屋に来る。
その様を想像し、レイヴンは倒れそうな程熱を上げてしまった。
彼の部屋を監視しているディスプレイは電源を切ればいい。通常の人の部屋より電子機器が多いかもしれないが、その辺は趣味だということで誤魔化すことができる。レイヴンは特に薬物に頼っても居ない。警官である彼が訪ねてきても、特別困ることはない。
困るのはレイヴンの心持だ。
レイヴンはこの部屋に誰かを招いたことがない。一度もない。
この部屋に彼が居る様を想像するだけで、もうだめだ。
息が乱れ始めたレイヴンは何も言えなかったが、その沈黙をライカンスは拒否だと感じたらしい。
電話向こうで苦笑したらしい気配がした。
『いい時間だし、おとなしく家に居るよ。電話は電源落としといてくれたらいいから。分署からの電話に勝手に出ると俺が怒られるかもだから、それだけは無視して、たのむ。今会ったらまたパニックになって手出しちまうかもしんないし。明日から怒涛の週末だから、朝からシフトぶっこまれてるしなぁ』
甘く苦笑する気配に、より一層レイヴンの熱が上がった。
唇をなぞる、濡れた感触を思い出す。何か言ってやろうと思うだけで、罵詈雑言も浮かんでこない。
結局レイヴンは呆れたようなため息を吐くだけしかできず、中途半端な曖昧さを残したまま電話を切る事になった。
椅子にどかりと腰を落ち着け、天井に向かって息を吐く。
両手で頬を押さえると、熱を持った肌が、冷たい指先を感じた。
顔が熱いせいか、極端に指先が冷たいせいか、どちらかはわからない。どちらにせよ、普段よりは不健康で異常なことだ。
「あー…………」
低く呟いたところで、状況は何も変わらない。
ライカンスに、全てを打ち明けるべきタイミングなのはわかっている。レイヴンがリサについて調べていたことは間違いないし、それに関して少々犯罪めいた手段を使ったことも事実だ。この件に関して、仕事であることを説明しさえすれば、ライカンスは許すとまではいかずとも、どうにか納得はしてくれるのではないか。
しかし、理性ではそう思えど、レイヴンは彼にうまい具合に説明できる自信はない。すべてを話して自分をさらけだす、という決意がまったくわかなかった。
ライカンスがキスをしたのは、自分ではない事を知っている。
彼が好きなのは、レイヴンの本質ではない。こんな口を開けば暴言だらけの、死にかけのカラスのような男を、誰が好きになるというのだろう。
このままだまし続けた方がいいのではないか。
そうしたら彼は、レイヴンの事をこのまま、愛してくれるのではないか、と。
「……ばっかじゃないの」
そんなあり得ない妄想を抱いている自分に、レイヴンは苛立った。
我慢ならないのは好きだからだ、と言ったフレダーの言葉が耳に刺さって離れてくれない。
知っている。レイヴンはライカンスに、今までにない感情を抱いている事を、嫌でも理解している。納得はしていない。それでも、感情は勝手に膨れ上がり最早冷静さを装うことも馬鹿らしくなるほどだ。
誰かを好きになったことがない、とは言わない。それはよく行く食料品店の店員だったり、少し親しくなった同僚だったりしたが、そのうちの誰ともキスをするような間柄にはならなかった。
キスをされたのは初めてだ。
好きだ、と面と向かって言われたのも初めてかもしれない。
初対面でベッドに誘われるようなナンパは時々あっても、きみのことが好きだと言われたことはない。
でも俺はレイに会えなくなるのは困るし嫌だしキスしたい。
ライカンスの気持ちの良い声で告げられた言葉が蘇る度、レイヴンは立ち上がって首元を掻きむしりたい程の痒さを覚えた。
もうだめだ。動揺が過ぎて頭がおかしくなる。
もう今日は全ての問題を棚上げして寝てしまいたい。しかし、普段から睡魔と険悪なレイヴンが、そうやすやすと眠りに落ちるとは思えない。どうせベッドに横になったところで、同じ事を悶々と悩むだけだ。
さしあたって急ぎの仕事もないので、仕方なくレイヴンは映画を見ることにした。読みかけの本は登場人物を把握する前に面倒になって積んである。あんなものを手にしたところで、集中もできず余計に頭が痛くなりそうだ。自分のペースで読める文章ではなく、強制的に集中力を持続させる映像の方がいい。
いつものようにパソコンを立ち上げ、パスワードを入力しようとしたところで、レイヴンの手が止まった。
「…………」
誰かが、このパソコンを触っている。レイヴンが居ないうちに。
パスワードを入力する前に、レイヴンは椅子ごと机と距離を取る。
部屋の隅から、じっと室内を観察し、些細な物置となっている本棚が若干動いている事と、ベッドサイドのライトがずれている事を認め、次いで首を巡らさずにちらりと見上げた天井付近のインテリアボードには異常がない事を確かめた。
そのまま、何事もなかったかのように席を立ち、フリッジからジンジャーエールを取り出し、何食わぬ顔で椅子を元の位置に戻し座る。そして、何事もなかったかのようにパスワードを入れた。
パスワードは毎週末に変更している。それを、レイヴンが入れ間違えるようなことはない。
その為一度でもパスワード入力に失敗すると次の入力画面に些細な印を出すように設定していた。何かマークがあっては、侵入者にバレてしまう。レイヴンのパソコンのディスプレイは、一度パスワード入力に失敗すると、ほんの少しだけ背景色が変化するように設定してある。
この些細な色合いの変化に、気づく者はほとんどいないだろう。
はたして、侵入者はパソコンにログインできたようだ。
パスワード入力を間違えると自動的に立ち上がるダミーのデータが開かれた痕跡をレイヴンは認めた。
レイヴンは仕事がら、企業の横領や犯罪の隠ぺいを暴くこともある。それを依頼してくるのは大概は警察ではなかったため、犯罪が公になることも、レイヴンが使った上昇収集手段が公になることも少ない。犯罪の証拠が依頼者によってどのように利用されているのかは、想像するにたやすいが正直どうでもいいことだった。
仕事のデータは、社外持ち出し禁止だ。しかし、それを守るレイヴンではない。
仕事場のパソコンは一つの依頼をこなすごとにデータを消去するが、レイヴンはそれを自宅のパソコンにバックアップとして保存していた。勿論、ファイルには厳重にパスワードをかけているし、自分でもそうそう開くことはない。これが犯罪に巻き込まれる要因になるとの自覚はあったが、奇妙な収集癖はやめられず結局今も続いている。
恨みを持った調査対象側が証拠を消しに来たか、それともクライアントか。
そうも考えたが、どうにも手段が稚拙に思えた。今時ネットからのクラッキングなんて多少の知識があればできる。実際にレイヴンは他人の家に忍び込み、カメラをしかけパソコンに不正アクセスできるソフトをダウンロードする手段をよくつかう。
ざっと確認したところ、データを壊された様子も、何かをしかけられた様子もない。
ダミーのデータはここ最近のレイヴンの犯罪に関わらない程度の仕事の報告書が開くようになっている。それはリサの不倫相手に関する簡単な経歴程度だ。
(……見ただけ、か?)
一体何が目的だったのか、見当もつかない。
リサの件に関して、彼女本人がレイヴンの存在に気がついたとしても、まさか忍び込むとは思えない。リサがレイヴンの仕込んだ監視カメラに気が付いたのは、ライカンスへの電話を信じるならばほんの数時間前の事だ。
レイヴンのパソコンの今週のパスワードは『crywolf』だった。
オオカミ少年が叫んだその言葉は、無論のことライカンスを意識して設定したものだ。
このパスワードを当てるには、レイヴンとライカンスの関係を知っている人間か。そうなると、該当する人物はあまりいない。
真っ先に浮かんだのはフレダーだが、彼がそんなことをする意味がない。レイヴンの仕事に対する口は彼に対しては軽く、特別秘密にしている事もない。実はフレダーが他企業のスパイで密かにレイヴンの持っている情報を狙っていた――というシナリオを考えてはみたが、あまりにも荒唐無稽だったのでため息一つで彼に対する疑惑を晴らした。
フレダーが過去の事件に対して情報を求めるならば、レイヴンのパソコンよりも会社の資料保管室に忍び込んだ方が早い。あそこは割と管理が杜撰で、社内の人間ならば適当な言い訳をすれば入れる。そもそも、違法な手段も厭わないルースターサーチという会社が、きちんとした人権を配慮したデータの保管を行っているわけがない。
次に思い浮かんだのはライカンスだが、彼も違うだろう。ついさっきまで一緒に居たし、何より彼ならば姑息な手段を使わずとも、レイヴンの部屋に入ることができる。
先ほどの携帯の件にしても、どうしても今日中に渡してほしいと言われれば、レイヴンは彼がこの部屋に入る事を許した筈だ。
ライカンスは実直な馬鹿だ。こそこそと、身を偽って何かをするタイプではない。それは監視してきた半年で理解している。
では一体誰だ。
それを確かめる為に、レイヴンはパソコンを操作した。
しかしパスワードを打ち込んでいる途中、机の上に放り出していた携帯がまた鳴った。
今度は何だ。
苛立つように長いパスワードを一度消し、携帯を見るが自分のものは黒い画面のままだ。コールしているのは、レイヴンが持ってきてしまったライカンスの二台目の携帯だった。
早めに電源を切っておけばよかったとレイヴンは舌打ちする。分署からの電話は出ないでほしいとは聞いていたが、そのほかのものに関してライカンスは何も言っていない。おそらくレイヴンが電話に出て、彼の携帯を持ってきてしまったので、一つ目の携帯に電話をした方がいい、と相手に言づけてもライカンスは怒らないのだろう。
一度目は無視をした。
しかし、やっと切れたと思った後にまた携帯はコールしだす。
誰かが倒れたとか急病とか、そういうたぐいなのだろうか。ライカンスの知り合いが何人死のうが、正直レイヴンには関係ない。これがフレダーの携帯ならば、問答無用でコール中に電源を切る。相手がどう思おうが、フレダーに何を言われようが知ったことではない。
レイヴンがそれをできず、結局電話に出てしまったのはこれの所有者がライカンスという人の良い馬鹿だったからだろう。ライカンスは馬鹿で、人がいい。そしてレイヴンは、彼にできれば嫌われたくないというあさましい欲を持っている。どうでもいい、と放っておくことができない。
すぐに本人はここに居ないことを告げればいい。自分はこの携帯を拾っただけだとでも言えばいい。一つ目の携帯の電話番号を聞かれるかもしれないが、知らないと答えても問題はないだろう。
そうたかを括り、まずは発信者の名前を確認し、レイヴンは眉を寄せた。
ドナルド・フェニックス。
ライカンスが先月からコンビを組んでいる少々肥満気味な警察官だった。
こんなに必死に電話をかけてくるということは、何か事件なのだろうか。しかし、ライカンスが勤務外ということは、彼も勤務外の筈だ。警官の仕事だとは考えにくい。
個人的なトラブルか。
ライカンスはやたらと誰からも好かれる為、勤務外の他人のトラブルに巻き込まれることも多い事をレイヴンは知っている。
ともかくこの電話はライカンスの手元にない事を伝えればいい。必要以上の詮索をするつもりもなく、レイヴンは通話のボタンを押したのだが。
『ライカンス! ライカンス大変なんだ、レイが、キミがいつも気にかけているあの青年がまた倒れたんだ……!』
これはライカンスの携帯ではない、と、口を開きかけたレイヴンは、最初の一言を発する前に固まった。
息をすることも一瞬忘れる。動揺を持ち直し頭が動きだすまで一秒、そしてその意味を理解せずとも行動に移すまでは三秒もかかってしまった。
『ライカンス!? ライカンス、何か言ってくれないか、いや僕も突然の事でどうしていいかわからないんだが、とにかく今目の前を歩いていた彼がきゅうにふらっと――』
携帯を握りしめたままドアに走る。一刻も早くこの場を逃げ出さないとまずい。そのことはわかる。レイヴンは倒れてなどいない。ドニーの言葉は嘘だ。ライカンスはこのドニーの報告を聞いてレイヴンの携帯に電話をかけるかもしれない。そうしたらドニーの嘘はバレる。バレないためには、レイヴンの携帯を奪うしかない。この部屋の鍵は一度確実に破られている。合鍵があるに違いない。つまり安全ではないし、自分は何者かに狙われている。
判断は早かったが足がもつれた。その間に、見計らったようにガチャリと鍵が回る音がした。
とっさにレイヴンはチェーンをかけ、携帯を放り出し窓に走る。
部屋は三階だ。ベランダもない。けれど、隣のアパートにはベランダがある。体力に自信なんてない。けれど、飛び移るしかない。
背後でがちゃがちゃとチェーンの音がする。レイヴンが万年閉まったままの重い窓を開け、やっと身体を半分外に出した時、急に手を引かれ床に倒された。
薬品くさい布が顔全体に押し付けられる。息が出来ず、意識が遠のく。
ふつり、と暗くなる意識のどこかで、ライカンスを呼ぶドニーの声が響いていた。
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