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机の上に放り出されたバッグを見つけたライカンスは、ため息を吐く前に笑ってしまった。
「毎回よく置いてくよな……シンデレラかよ……」
鞄を手に取りながら、ライカンスはディーンの言葉を思い出していた。あの時はなんでシンデレラなんだと思ったが、なるほど会う度に何かを置いていく彼は確かにガラスの靴を置き去りにしたシンデレラのようだ。何事も完璧そうな見た目のわりに、どうにもぼけっとしていて可愛いからレイはずるいと思う。
こんな些細な事が愛おしいだなんていかれている。
持ち上げたバッグはやたらと軽く、携帯端末や財布は入っていなかった。地下鉄のトークンが入った小銭入れと、社員証が入ったカード入れが見えただけだ。特別不審なものや、また、レイが持っていないと困るようなものも見当たらない。
申し訳ないとは思ったが一応中身を確認したのは、警官である本職の影響かもしれない。もしくは、先ほどのリサの電話が頭の奥に引っかかっているせいか。
監視カメラがあって。そう震える女性の声を思い出すと、ライカンスは浮ついた気分を正すような気持ちになる。
心当たりがないわけではない。レイとの出会いは少々不自然だったし、彼がやたらとライカンスに近づこうとしていたような雰囲気は、確かにあった。別に、友人を増やそうと思っている風ではないのに。
引っかかることはあるがしかし、レイの全てが嘘だとも思えない。おとなしく唇を許し真っ赤になってうつむく様を嘘だとは思いたくない。それはライカンスの希望的観測のようなものだったが、それでも信じたかった。
自分の知らないところで何が起こっているのだろうか。
リサの家にはなぜ監視カメラがあったのか。
レイは誰とどのように関り、そしてライカンスとどう関わっているのか。
ライカンスはレイの告白を待つつもりだが、同時に自分でも調べると彼に宣言した。とりあえず今日はもう夜も遅い。ライカンスはリサへの電話を明日に延期し、とりあえずはレイに忘れ物の連絡をしようと思い、その段になって初めて、自分の携帯が見当たらない事に気が付いたのだった。
思い返すと、レイに取り上げられ、そのまま彼が握っていたような気がする。
自分も動揺していて気が付かなかったし、おそらくレイもそれどころではなかったのだろう。もし意図的に携帯を盗んだとしても、特別困るようなこともない。友人と職場の電話番号が登録してあるだけで、あとは大して使っていない。
例えば盗聴器をしかけられたとしても、私用の電話で捜査内容を話すような場面はまずない。ライカンスは警察官であったが市内巡回が主な仕事の巡査だったし、犯罪捜査を担当する刑事ではない。
基本的にはパトカーの無線を使う上に、分署外に漏らしてまずいような事件に関わることも稀だった。
レイを疑いたくはないが、疑念が残るのならば返してもらった後暫くは一台目の携帯を使えばいいだけの事だ。
今すぐ必要なものが入っている鞄ではなくとも、大事な携帯ではなくとも、一応連絡しておくべきだろう。
そんな大義名分を三度ほど自分に言い聞かせつつ、ライカンスはレイの携帯に連絡をした。
電話を通して聞こえるレイの声は、生で会っている時よりも幾分か低い。男なんだけどなぁ、と不思議に思う。ライカンスが今まで恋をしてきたのは女性ばかりで、同性にこんな気持ちを抱いたのは初めてだ。それでも、レイの事が可愛いと思う。声が低くても、言葉を詰まらせて目を伏せる彼は愛おしい。
通話を切り、暫くぼんやりとビールを飲み、今日はもう何も考えずに寝てもいいんじゃないか、などと怠惰な事を考えていた時だった。
ライカンスの部屋のチャイムが鳴った。
その後続けて、どんどんどん、とけたたましいノックが響く。
何事かと腰を浮かせたライカンスの耳に飛び込んできたのは、ここを開けろというディーンの声だった。
「ライカンス! ライ! いるのか! いるんだろ! さっさと開けてくれ……!」
なにやら切迫した様子の友人の声に、ライカンスは訝しみつつもすぐにドアのロックを外した。
玄関先に立っていたのは勿論ディーンだった。いつもの友人のいささか、というよりかなり慌てた様子に、ライカンスは嫌な胸騒ぎを覚えた。
重大な事件の発生を知らせる無線を聞いた時と似た感覚だ。
嫌な緊張感が、ライカンスを冷静にさせる。
ディーンはライカンスの両腕をしっかりとつかむと、一度安堵のため息をついたように見えた。
「ああ、お前は無事か……っあーしくじった! まさかこんなバカげた強硬手段に出るとは思わなかったんだよマジで、馬鹿だ! 俺も、あいつらも、馬鹿だ!」
「――待て、ディーン、なんだよどういうことだ。何があった? お前は、ってなんだよ俺は無事だよ別に襲われたりとかするわけ……誰かに、何かあったのか?」
ここでライカンスの頭に浮かんだのは、先ほど怯えた声で電話をかけてきたリサだった。
彼女の家には監視カメラがあった。それを仕掛けた人物は特定できていないが、ストーカー以上の被害がないとも限らない。
青ざめたライカンスだが、しかし、部屋に入り施錠を確認したディーンが告げたのは、予想外の名前だった。
「最初から説明するけど、とりあえず先に現状から言う。説明するからまず落ち着いて事実だけ聞け、いいか、いいな。レイ・ストークスが拉致された」
「…………は? 拉致って、おま……今さっき、電話で……」
「その直後部屋に押し入った拉致犯に攫われたんだよ。とりあえず移動するぞ、確認したいことがあるしお前を一人にしておくわけにいかない。明日からのテロ予告とかでうちの人員もクソみたいに限られてるんだ。警備つけときますねって訳にいかないし、ぶっちゃけお前には協力してもらう気満々だ。歩けない程飲んでるのか?」
「いや、そこまでじゃない。つか、酔いも醒めた……ええと、俺にわかるように説明してくれんだな?」
「説明しないとお前に協力求められないだろう。ただ、嘘が嫌いなオオカミにはちょっときっつい話かもしれない。申し訳ないがこっちはお前の心情慮ってっていうレベル逸脱してきたから、容赦なく事実を並べ立てるけど……お前の器の広さを、俺は信じてるよライ」
不穏な事を言う友人に、動揺をなんとか押し殺したライカンスはとりあえず従う事にした。
ディーンが危険だと断言するのならば、この部屋は危険なのだろう。泥酔していない事を自分で確認し、拳銃をコートの下にいつも通り身に着ける。身の回りで必要なものを一応、ポケットにつっこみ、ライカンスは部屋を出た。そこには清掃会社の制服を着た二人の男が居たが、ディーンに『仲間だよ』と耳打ちされずともFBIの人間だと気が付いていた。独特の気配というものは、同業者だからこそわかってしまう。
ライカンスが乗せられたのは古びたバンだったが、どうやら窓ガラスは防弾のようだ。
何のドラマの撮影だ、と冗談を言っているような余裕は、何もわからないライカンスにもない。
レイ・ストークスが拉致された。
あの言葉はライカンスの余裕を全て消した。
「これ、どこ行きだ? FBIの支社か?」
荒い運転で走り出す車の後部座席で、ライカンスは隣に乗り込んだディーンに問いかける。運転席と助手席の男はやはり清掃会社の制服を身に着けていたが、FBIの人間だった。
「いや、支社の方は別の事件でそれこそ俺たちどころの話じゃない。明後日の日曜に向けて爆発予告が二件のテロ組織の脅迫状が三枚だ。このところ人が集まる行事が多すぎて凶悪テログループも大助かりって感じだな」
「ああ、じゃあ、なんかこう……テロとか、連続殺人とか、そういうとんでもないFBIがらみ事件じゃないのか?」
「FBI絡みといえばそうなんだが、ストークスを誘拐したのは殺人犯じゃない。今のところはな」
嫌な言い方だった。レイが第一の犠牲者にならなければ、という含みがある言葉に、思わずライカンスの腹に力が入る。
ライカンスの背中を二回ほど叩いたディーンは、友人ではなく連邦警察関係者の顔をして口を開いた。
「最初に事件の重要度を提示しておく。昨日まで俺が担当していたこの一連の事件の重要度はテロ予告に比べれば赤ん坊のようなものだった。正直今もテロレベルじゃないけどな。一人誘拐された。誘拐だけでは二十四時間以上たたないとうちの管轄にはならないが、今回は特例だ。二十四時間待っているわけにいかない。分署長には別の奴が話を通してある。これより十七分署とFBIは協力してレイ・ストークスをテロリスト予備群から救出する」
「……テロリスト予備……おいまて、レイは何の事件に片足つっこんでんだ!」
「彼のせいじゃない。彼は何も知らないに等しい。ルースターサーチの優秀な調査員であるストークスはただ、ある女性の浮気調査をしていただけだ。その過程で、うっかりとんでもないものを引き当てただけだ」
「――リサか? まさか、彼女が浮気?」
「人間、表に見えているものがすべてじゃないさ。裏表がない人間ってやつが、正しいもんだとも限らないよライ」
ディーンの言葉に、ライカンスは返す言葉を探したが結局は見つからなかった。正論だ、と思う。つくべき嘘も、つかなければならない嘘も、世界には多く存在する。そのことをライカンスは嘆くつもりはない。
嘘つきオオカミ、と不名誉なあだ名で呼ばれたライカンスは嘘が嫌いだ。しかし、嘘をつく人間すべてを批判するのは馬鹿だ、ということも理解している。
それでも、今まで自分が見ていた女性の裏の顔が見えるというものは気持ちのいい感情ではない。
静かで地味な女性だと思っていた。静かで地味な女性が、誰かの愛を裏切ってはいけないとか、派手で美人だから浮気が似合うとか、もちろんそんな事は思わないが。
しかし今問題だったのは、リサが浮気をしていた、という事実ではない。レイが何故事件に巻き込まれたか、だ。
話の途中で、車は乱暴に止まった。どうやら目的地に着いたらしい。
それは古びたアパートだった。場所はチェルシーの端あたりだろう。ライカンスの住処からは少々離れているが、地下鉄を使うほどではない。
やはり、民間人に扮した警察官や捜査員が見えた。
ディーンに続き車を降り、ライカンスは三階のとある部屋にたどり着いた。
表札に名前はない。しかし、予感はある。
軽くノックをした後に、ディーンが開いた扉の向こうの机の上には、見覚えのあるストールとニット帽があった。
中には二人ほどの捜査員が居る。どうやら指紋などを詐取しているようだ。
「レイの部屋か」
ライカンスの問いかけに、ディーンは頷く。
「そう。ストークスの仕事以外の巣だよ。まあ、あんまりくつろげる場所じゃなかったみたいだけどな。犯人側に取り付けられた監視カメラ等はないが、それ以外にこの部屋には監視カメラがひとつ、存在する」
「……レイは、誰かに監視されてたのか?」
「違うさ、ライ。彼は、自分で自分を監視していたんだ。なんて病名かなんて知らないが、あーそうだな……監視恐怖症? コンプレックス? とにかく、誰かを四六時中見張っていないと気が済まない。そして、自分も見張られていないと気持ちが悪い。後者の問題をストークスは自分の部屋に監視カメラを仕掛けることでどうにか解決した」
「監視恐怖……難儀だな、なんだそれ……つか、後者はって、前者の他人をどうとかっていうのはどうやって折り合いつけてたんだ」
「自分で見てみろ」
促され、示されたパソコンのディスプレイに目をやった。
椅子の前のメインの画面には、パスワード入力画面が表示された窓が開いたままで、特に何も映っていない。メインディスプレイではなく、その右にある小さな画面の中には、どこかの部屋を斜め上から撮ったような画像が表示されていた。
どこにでもある狭いアパートの一室に見える。
それが自分の部屋だ、と気が付くまでに時間がかかったのは、普段上から部屋を見ることなどないからだろう。
言葉を無くすライカンスに、ディーンはため息をつきそうな低い声で解説をした。
「――観察対象は誰でもいいそうだ。別に性的な目的とか、強請りとかそういう明確な悪意があるわけでもない。ストークスは、ただ誰かの生活を垂れ流していないと落ち着かない。その対象は、半年前からお前だったんだ、ライカンス」
半年前といえば、まだレイとあのダイナーで出会ってもいない。
ダイナーで珈琲をかけられた時、レイはすでにライカンスのことを知っていたことになる。
どこからが嘘で、どこまでが嘘なのか。
ライカンスの中のレイが、揺らぎ始める。
「……平気か? 別に、協力してほしいとこだけしてもらえれば、後は分署に帰って休んでてもいいんだぞ?」
生ぬるい友人は、気遣って肩を叩いてくれる。乾いた笑いを押し込め、ライカンスは平気だよと言った。
本心だ。監視されていたことはうれしいとは思わない。憤りのようなものも感じる。しかし、だからといって彼の事が憎いとは思わない。他人の事情を自分の物差しで測ることはやめている。人間なんてひとりひとり、まるで別の生物のようだ。言葉が通じるだけでもありがたいと思っていなければ、巡査などやっていられない。
レイにはレイの事情がある。それは本人に聞けばいいことだ。
そして彼と自分の感情については、その時に考えればいい。
ライカンスはディーンに話の続きを促した。
「レイの不思議な悪癖はわかったよ。そんで、俺に協力してほしいことってなんだよ。俺がお前に勝ってる事といえば体力くらいしかないぞ」
「この部屋の監視カメラの映像が見たい。今から情報系の人間集めてこのパソコンハッキングするよりも簡単な事がある。このパスワードを正々堂々当てればいい。ライカンス、先週の日曜日の午前零時前、部屋で最後に口に入れたものは?」
「日曜日……? 日曜日……あー、待て、確か、その日は第三シフトで起きたのが夕方だから……朝飯か? コンビーフ・オン・ライだな」
「わかりやすい飯でありがたい」
Corned beef on ryeとディーンが打ち込むと、パスワード入力画面は部屋の動画に切り替わった。
部屋の窓側にカメラはあるらしい。斜め上あたりからドアにむけて、パソコンに向かうライカンスとディーンの姿が映る。
説明しろ、と目だけで訴えるライカンスに、ディーンは少々笑って答えた。
「用心深いカラスなんだよストークスは。パソコンを立ち上げるためのパスワードと、監視カメラのパスワードは一週間に一回きちんと変える。ちなみにこの監視カメラのパスワードは、最後に自分がみた食い物、なんだそうだ。ストークスは飯をほとんど食わないから、まあ、大概はお前が食ったものがパスワードになる。パスワードを変えたいのに毎日同じものしか食べない、なんて時は随分と苛立ってたみたいだぞ」
「……さっきから気になってたんだが、なんでそんなにレイの事に詳しいんだよ。もしかしてレイも何かしらの犯罪の捜査で監視されてたのか?」
「いや、たまたまルースターサーチにコネがあるだけだ。というか、レイが目をつけられていたんじゃなくて、ルースターサーチが目をつけられていた。その調査の中で、どうも怪しいなぁという臭いをかぎ取って、リサって女にFBIの目が行ったんだ」
説明としては確かに納得がいくものだ。
そもそも、ディーンは連邦捜査局の、所謂黒服である捜査官ではない。技術職でほとんど支局から外にでない仕事だと聞いていた。彼がこのように犯罪捜査の最前線に立つのもおかしな話で、それについても『巻き込まれたんだ』と眉を落とした。
「ストークスがリサを引き当てなければ、俺たちの捜査は別の案件だったんだよ。彼も、そして俺達連邦捜査局も、そしてお前も偶然巻き込まれた。そして最悪なシナリオに向かって爆走中だ」
言いながら、ディーンは手元のキーボードを操作し、カメラの映像を巻き戻していく。
ある程度巻き戻して再生すると、そこには椅子に座るレイが映された。
顔に手を当てて、なぜだかぼんやりしている。そのうちに驚く程飛び上がり、慌てた様子で携帯を手に取った。そしてコートのポケットを漁り、デスクに手を付いて項垂れる。
ライカンスの電話を取った時の映像だろう。
電話を切った後のレイは、暫くまた項垂れていたが、パソコンに手を伸ばした後に椅子ごと後ろに下がった。何事か、と思ったがそのまま席を離れ炭酸飲料らしき瓶を手に戻ってくる。飲みものを取りに動いただけだろうか。しかしその後、もう一度電話が鳴ったようだ。
無音の為、レイが誰と話しているのかはわからないが、彼が手に取ってためらっているのは先ほどのレイの携帯ではなかった。
ライカンスの携帯だ。
それを認め、ライカンスは眉を寄せる。
レイはすぐに行動を起こした。ライカンスの携帯を放り投げ、一度はドアに向かう。しかしすぐに踵を返し窓を開けようと試みたようだが、窓が開いた時にはすでに二人の男が侵入してきていた。
布のようなもので口を押えられたレイは、ぐったりと力を抜き床に転がる。意識を失ったらしい彼を担ぐ男には見覚えがある。よく、メイプル・ダイナーで顔を合わせる常連だ。確か、タクシーの運転手だったと思う。
しかし、ドアの後ろに目をこらしたライカンスは、さらに息を飲む事となった。
「……ドニー……?」
扉の向こうに、確かに相棒の姿が見える。
ああ、と天を仰いだのはディーンで、ライカンスはただ茫然と画面を見つめることしかできなかった。
なんで、おまえがそっちにいるんだ。
その呟きは、声になっていたか、ライカンスにはわからなかった。
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