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部屋の中には、簡素な机とパイプベッドがあった。
寒々しい部屋だった。実際に、少し肌寒い。ふるり、と震えて、レイヴンはベッドの隅で身体を丸めた。
本棚には聖書がある。他に並んでいるのはどれも意味のわからない学術書で、何度か開いてみたが結局理解できなかった。自分が子供だから、ではなく、たぶん一生理解できないのだろうと思った。
聖書の他にあるのは古い型のパソコンだ。
レイヴンは起きている時間の大半、パソコンの前に齧りついていた。本もない。電話もない。この部屋には、他に何もない。ネットにつながった環境があるだけで、後は独房のようなものだ。
そうだ、独房だ。
うつろな目でレイヴンは思い出す。
別に、忘れていたわけではない。ただ、こんな悪夢を見ることは少なくなってきていた。そしてこれが夢だと気が付くと、これ以前の記憶の方ではなくて良かったと自嘲した。
レイヴンを独房のような部屋に入れたのは叔父だった。
彼は、レイヴンがハイスクールを出るまでの間、この壁に囲まれた何もない部屋にレイヴンを軟禁した。学校は通信制だった。だから、パソコンは常にネットでつながっていた。何を見ても、誰と交流しても、ネットの世界に関して叔父は干渉してこなかった。
元々頭の硬い人だった。強面なのに、情に弱い人だった。
仕方ないと言ってレイヴンを閉じ込めた叔父は、パソコン一台ごときではこの生活を何も変えることができないと思っていたし、事実それは正解だ。ネットで何を喚こうが、どんな知識をつけようが、結局はこの部屋の中しかレイヴンは知らない。せいぜい、できるだけ苦しまずに死ねる自殺方法を探すくらいしかできない。それも一度検索して飽きてしまった。結局、痛くなくても死ぬのは嫌だと思った。
部屋の隅には、監視カメラが付いている。
レイヴンの様子は、始終、叔父の部屋のモニターに映されている。
叔父は変質者ではない。頭もまともだ。翻訳の仕事をしていたから、会社勤めの人間とは少し違うスケジュールで動いていたし、始終部屋に籠っていたが、精神を病んでいたことも、感情が爆発するようなこともない。
だから彼は、レイヴンを監視するしかなかった。
レイヴンと、そしてその家族の為に。
コンコン、とノックの音が聞こえる。
その後に聞こえるのは鍵を開ける音だ。この部屋はいつも、外から施錠されている。そして同時に中からも施錠できるようになっている。レイヴンは大概、鍵をかけなかったので外の鍵を外せば、扉はなんなく開いていく。
やぁ、と叔父は言う。
いつも、少しだけ後ろめたいような沈黙をした後に、不味いものを喉に詰まらせたような顔をした。いつもの顔だ。別に、レイヴンの事を嫌っているとか、嫌なことがあったとか、そういうことでもない。
夕食だ、と叔父は言う。
その手の上のトレーには、ぐずぐずに煮えたスープと菓子パンとフルーツが乗っていた。いつもメニューは大概これだった。レイヴンはほとんど肉を食べないし、野菜も同様だった。
レイヴンはトレーを受け取る為に身体を起こす。
起こそうとした。
――それなのに、身体がぴくりとも動かない。
扉の向こうで、叔父が困った顔をする。
食事はいらないのか、と問いかける。腹は減っていない。しかし、食べないと人間は死ぬ。そのくらいは知っている。だから少しでも腹に、と思うのに、身体は依然として動かない。
そこでレイヴンは気が付いた。
ああ、そうだ、これは夢だったんだ。
叔父は四年前に心筋梗塞で亡くなったし、自分はもう成人して一人で暮らしている。この部屋があった家は、別の家族が住んでいる筈だ。
これは夢だ。
過去の、レイヴンが思い出せる最古の記憶の夢だ。
この監視の部屋に入るまでの事は、断片的にしか覚えていない。それは時折悪夢としてフラッシュバックしたが、目を覚ました時に覚えているのは吐き気のするような恐ろしさばかりで、細部の事はいつも覚えていなかった。
叔父との生活の夢は寂しい悪夢だ。
彼は悪くない。おそらく、レイヴンだって悪くなかった。それでも、この生活はお互いの精神を少しずつ蝕んだ。大丈夫だ、という顔をして少しずつお互いを憎んだ。別に、嫌いではないと今でも思う。それでも、毎日少しずつ心は壊れた。
寂しい悪夢の中で、叔父は困ったようにトレーを持ったままだった。
立たなければ。
そう思うのに、身体はやはり動かない。
そのうちにぐるりと世界が回って、段々とおぼろげに白く混ざった。
すう、と意識が現実に戻る感覚がある。昔、いっそハイになったら人生も性格も世界も変わるのだろうか、と一度試したドラッグから覚醒した時もこんな気持ちだった。
血管の中の血が、悲鳴を上げている気がする。
肺が痛い。
口の中が干からびたように、喉の奥までカラカラだった。
瞼が何度か痙攣する。
ああ、また倒れたのか、と。
ぼんやりと考えたが、それにしては手足がつっぱったかのように痛い。その上、夢の中同様全く身体が動かなかった。
頬に、ひんやりと冷たい感触がする。おまけに、すえた水のような臭いも。
たっぷり時間をかけて、レイヴンは自分が冷たい床に縛られ転がされている事を理解した。どうやら、アパートや室内、という感じではない。近いのはガレージだ。オレンジ色の裸電球じみた灯りが、ぼんやりと灯っているようだ。光源は、レイヴンの位置からは見えない。
呼吸が定まらない訳も思い出す。何か、薬品を使われ意識を失ったのだ。
耳鳴りがするのはそのせいか。頭を殴られたわけではない、と信じたい。
吐き気をこらえるために息を吸い込みたかったが、浅くしか息を吸えない。今この状態で吐いたら、汚物を喉に詰まらせて死んでしまう。拉致された上に死因がゲロだなんて嫌だ。死ぬのは、もっと嫌だ。
覚醒したレイヴンの頭の上――おそらく部屋の奥の方で、何人かの男たちがこそこそと話す声が聞こえた。
浅い息を繰り返しながら耳を澄ませる努力をしてみる。しかし、それも徒労に終わる。頭の芯がぼんやりとしていて、全く音が拾えない。自分の心臓の音がうるさすぎる。耳を澄ませているうちに体温が奪われて死にそうだ。
寒い。冷たい。顔は火照っているような気がするから、熱があるのかもしれない。
まさかとんでもない時間をこのまま放置されていたのか、と疑ったが、身じろいだ時に腕と足首に激痛が走って理解した。おそらく捻挫か骨折をしている。それで熱が上がっているのだ。
相手の様子を窺っている場合ではない。
運が悪ければ、吐しゃ物を喉に詰まらせる前に死んでしまう。
そう思ったレイヴンは、どうにか身体を動かさないように腹に力を入れた。
「――……っ……ぐっ」
それでも声は出なかった。
ひゅう、と声にならない空気が漏れ、レイヴンは派手に咳き込んだ。
ごほっ、ごほっ、と噎せているうちに、室内の男たちがレイヴンに気が付いた。少し動いたせいで襲った激しい痛みに涙が流れ、視界がぼやける。また息が浅くなり目の前がチカチカしたが、とりあえず死んでいない、ということだけは感謝した。
「……もう、殺した方が早いんじゃないか」
しかし、次に聞こえてきた弱々しい男の声は、声のわりに非情だった。
目だけで見上げる。その先に居るのは、レイヴンがこの一か月の内の数日間を費やし、無駄に人生を調べ上げた男だ。
バーナード・トンプソン。痴漢騒ぎで解雇されたタクシー運転手。
泥酔した女に手を出したのが、監視カメラに映っていて人生を棒に振った馬鹿。
「殺すって言ったって、どう、どうやって……そんな、簡単に……」
その横で怯えた声を出す巨漢の調査は、簡単すぎて二日もかからなかった。職歴などが一行もなかったからだ。関連している人物も、親族を除けば片手で事足りる。
ブライス・ライト。引きこもりで働いたこともないニート。
「放っておいてもいいじゃないか。ここに転がしておけば、どうせ何もできない」
レイヴンの位置からは声しか聞こえなかったが、どうにか判別できた。鼻にかかった、嫌味な発音をするのが特徴的で、盗聴データを再生するのが苦痛だった。
イーノス・ピーターソン。研究実績をねつ造して学会を追われた研究者。
残りのアイザック・ベネットとオズウェル・ロスも、どこかここではない場所にいるだろう。そして、レイヴンがその接触に気が付かなかった男、ドナルド・フェニックスも。
誰が誰か、なんてレイヴンにはもう関係のない事だった。
ここにいる奴らは皆、レイヴンがこの一か月ですべてを調べつくした者たちだ。彼らは皆、リサの愛人ではなかった。いや、愛人なのかもしれない。兼ねているのかそうではないのかはわからないが、きっと、ホテルの中で行われていたのは情事ではなかったのだろう。そのくらいの想像はついた。
ただの浮気ではない。
空気でわかる。
彼らは、レイヴンを所在なさそうに見下ろして、その対処を論議しているようだ。
何も考えていなかったのか、と、流石にレイヴンは呆れた。
人一人拉致しておいて、その後どうするかも考えていないだなんて、子供の考えた悪役レベルだ。
ぼうっとした頭で、レイヴンは考える。
一体自分は、何のために拉致されたのか。
ドナルド・フェニックスはライカンスの二台目の携帯に連絡をした。それは、レイヴンが倒れた、という電話だった。簡単に考えるなら、ライカンスをおびき出す為だ。しかし、ライカンスをおびき出す為にレイヴンをわざわざ本気で拉致するよりも、リサや誰かが困った事になった、と電話をすれば彼はのこのこと顔を出すだろう。
どんな非常識な時間でも、どんな雨嵐でも、拳銃の所持を禁じられる泥酔状態でなければ、彼は仕方ないなと苦笑いして腰を上げる筈だ。それが、ライカンスという男だ。
リサ。
そうだ、リサから電話があったあの時のように。
通話を聞いていないレイヴンは想像するしかないがしかし、リサはライカンスに盗聴器の発見と犯人がレイヴンであるとほのめかすだけだったようだ。通話を切ったのはレイヴンなので、あのまま話していたらライカンスを呼び出す流れになっていたのだろうか?
それにしても、もう一度電話を掛ければいいだけのことだ。
やっぱり恐ろしい。お願いだから一回家を見に来てほしい。そう言われれば、ライカンスは行くだろう。たとえ、リサに対する下心がなくても。
(……いや、まだ、あるのかも)
場違いにもライカンスのキスを思い出しそうになり、レイヴンは何度か意図的に瞬きを繰り返し冷静になるように努めた。
リサとライカンスの事を考えるだけでこの様だ。もうあのオオカミの顔がちらつくだけで余計な感情が湧き起こる。
今は、ライカンスなどどうでもいい。
あらゆる方面から考えるならば彼も何かしら関わっている、という思考を巡らし一つずつ可能性を否定しなくてもわかる。ライカンスは関係ない。レイヴンは、それだけは何も考えずに信じていたし、確証もあった。
半年間、彼を見てきた。
自室にいる時間は、ほとんど彼を監視していた。
別に、相手は誰でもいいというのは本当だし、正直監視対象に対しては今でもそう思う。ライカンス特別な情が湧いたのは監視とは別の理由だ。だから、レイヴンは情ではない感情で冷静にライカンスという人間を信じている。
彼は真面目で、正義感がいつも足を引っ張るような馬鹿だ。ただの馬鹿だ。この部屋にいる男たちも馬鹿だが、馬鹿の意味合いが違う。一緒にするな、とレイヴンは自分に毒づく。こいつらも馬鹿だ。ライカンスも馬鹿だ。だが、ライカンスはお人好しな馬鹿だ。そして警察官だ。
彼は犯罪を許さない。
だからおそらく、彼はレイヴンが拉致されたと知れば全力で捜査に当たるだろう。
そこまで考えてレイヴンは、また元の問題に戻る。
レイヴンを拉致した目的は、一体何だ。
「――いい、このまま転がしておこう。明日の昼まで、誰とも連絡がとれなければいい、って話なんだろう? こんな死に損ない、放っておいても死ぬんじゃないか……」
「死体は嫌だな。嫌な臭いがしそうだ。ああ、まあ、でも、そういうの、もうどうでもよくなるのか」
「そうだ。明日の昼だよ。それまで、誰にも気が付かれなければそれで……」
「あしたの、ひるに、なに、すんの」
どうにかひねり出した言葉に、男たちがハッと視線を向けた。相変わらずレイヴンは動けない。顔を上げることもできない。眼球だけで睨むレイヴンは縛られていて何もできないのに、男たちは少しだけ身体を退いた。
「ごほっ、は……あしたのひるって……休日……」
「やっぱり、口も塞いでおいたほうが……」
「舌を噛んで死んでくれるかもしれないんだぞ。余計な事をするな。どうせ叫んでも誰にも聞こえやしないよ。いいか、会話するな。話をするな。転がしておくだけでいいんだ」
「……あんたたち、いったい何しようとしてんの……」
無視されるとわかっているが、声は出る。
三人の内一人、ニートのブライスだけは何かを言いかけたが、残りの二人が彼の口をふさいだようだった。
舌打ちができればしていた。
つたない犯行のついでに、なにか情報を零してくれたらマシだったのに。
一番気弱そうなニートの男を挑発する言葉を発する前に、レイヴンはまた咳き込む。嫌な汗が額に浮いた。寒い。このままでは、殺されなくても死ぬかもしれない。
拉致される前の自分を思い浮かべる。何を持っていただろうか。残念ながら室内だった。帰ってきてから着替えなかったので、部屋着よりは厚着だというくらいしかマシな事がない。
財布もカードも鍵もコートの中だ。ライカンスの携帯も放り出して来た。自分の携帯はどこだっただろうか。いつものようにジーンズに突っ込んだ気がしないでもないが、身体の感覚がなくてわからない。わかったとしても、後ろ手に縛られた状態では何もできない。足も手も、動かすだけで気を失いそうな痛みが走る。
意識が遠のく。
だめだ、と思い歯を食いしばるが、無常にも男たちはその場を去ろうとしていた。
灯りが半分消える。
嫌な予感に、レイヴンは震える。
「明日の昼には、全部が解決するんだよ」
その声を最後に、あたりは叫びだしたい程の暗闇に包まれ――。
実際にレイヴンは叫んだ。
レイヴンには恐ろしいものが三つある。
一つは監視できない時間だ。これは叔父との生活の中で、レイヴンの生活習慣になってしまった。
一つは水だ。理由は簡単で、過去に何度も溺れそうになったからだ。水場でよく遊んでいたわけではない。レイヴンが水をたっぷり飲んで死にそうになったのは自宅のキッチンとバスルームだった。
そして最後の一つは、暗闇だった。
記憶が鮮明に蘇る。
忘れたい悪夢は、断片的にフラッシュバックする。
自分の指先も見えない暗闇の中、何がいるかもわからない暗闇の中。肌を何かが這う感触がする。
気のせいだ。幻覚だ。夢だ。ただの勘違いだ。
そんな風に反論する理性もなく、レイヴンはただ絶叫した。
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