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第1話

コンクリートで囲われた殺風景な空間の真ん中に鎮座する玉座の上で、男は一点を見詰めて凛とした言葉を放つ。 「跪け、僕の命令は絶対だ──」 指通りの良さそうなマッシュカットの黒髪がよく映える小さな顔。 あどけなさを残す二重の目元、鼻筋の通った小さな鼻、それでいてしっかりと主張する厚く弾力に富んだ唇。 光の加減で薄く光るペイズリーの刺繍が施されたツヤのあるシルク製のスーツを纏った細身の男、二条 みなせ。 世界的に有名なリゾートホテルを経営、不動産事業でも名高い二条グループの子息。 しかし、彼が表舞台に出る事は極めて少なかった。 なぜなら、彼が現会長とΩの愛人の間の子であり、Ωとして生を受けたからだ。 よくある話だ、とせせら笑う半面、人知れず並々ならぬ努力を費やし、劣勢な立場ながらにグループの経営に一噛みしている。 そんなみなせが見詰めるのは鉄製の両開きの格子戸。 南京錠で閉ざされたその先には、一人の男が幽閉され跪いていた。 程好くパーマが掛かった茶髪は乱れなくセットされており、サイド部分は綺麗に刈り上げられ、清潔感が漂う。 アーモンドアイを縁取る様に幅の広い二重は優し気であり、立派な鼻とは対照的に薄い唇は真一文字に結ばれている。 ブラウンのダブルスーツに身を包み英国風の洒落た身なり、幽閉された状況下においても橙のネクタイは緩む事なく彼の高貴さを証明するように正しく締められた儘だ。 加賀美 司。加賀美財閥の第一子であり、後継者。 幼少期から英才教育を受け、名門小学校を卒業後、中高一貫の名門を卒業し、英国の超一流大学にて博士課程修了。 昨年の春に帰国し、早くも副社長の座に就任した社会的に名の知れたαである。 「Ωに跪く気分はどう?一流階級の君が、最下層の人間に対して跪く。即ち、冒涜を受け、侮辱されている訳だけど」 「みなせ、お前の望みはなんだ。俺を平伏させて何になる」 「黙れ。僕は、気分はどう?、と聞いたんだよ」 「───、最高の気分だよ」 退屈そうに興味の欠片もない単なる侮辱を吐きながら、みなせは細い足を組み、頬杖をついて加賀美を見詰める。 一方加賀美は、平伏していながら、全面的に屈するつもり等毛頭ない風で淡々と談話のように言葉を返す。 だが、そんな加賀美の余裕はすぐさま打ち消される事になるのだった。 「もうすぐ、僕には発情期が来る。今が23時48分21秒だから、──そうだな、3分37秒後の23時51分58秒には発情期だ」 「──なっ、」 月に一度の発情期は突発的にやってくる筈だ。規則性こそあれど、予定日は変動する事も多く、正確に予測する事は不可能に近い。 遅延剤を使用して周期を管理する事は可能だが、それも完璧ではない。増してや時分を秒数まで刻み正確に知りえる事など困難だ。出来る筈がない。 加賀美は咄嗟に顔を上げ、みなせに疑いの眼差しを向けるが、王座に鎮座するみなせは退屈そうにしているだけ。 「どうして、とでも言いたげだね。でも僕には解るんだよ、次の発情は確かに23時51分58秒なんだ」 「無理だ、例え遅延剤を使ってもそこまで知る事は出来ない」 「無理?出来ない?──出来るんだよ。僕は徹底した投薬治療と緻密な計算を重ねて正確な時間を知りえる能力を得たんだ、α一強社会に適応する為にね」 「抑制剤は、……抑制剤は打ったのか、」 「いちいち五月蠅いな。自分の立場、わかってないの?社会的立場じゃなくて、今、発情期直前の僕と対峙している君は、───圧倒的に、劣勢なんだよ」 飽くまで冷静で強気の姿勢を見せるみなせに昔の面影はなく、加賀美は言葉を失う。 確かに幽閉された状況下で、発情期のフェロモンに中てられるのは不味い。 ハンカチーフで鼻と口を覆っても、四畳半ほどしかないスペースで距離を置いても、気休めにもならないだろう。 出入口は目の前の格子戸一つだけ。但し、施錠されている。 長らくの沈黙の後で、状況を変えたのは先程の宣告通り定刻に訪れた発情期だった。 空気に混ざって流れ込む噎せ返る程に甘ったるいフェロモン。重みさえ感じる濃い臭気。 嗅覚を刺激し、肺に重みを与えた瞬間に脳に行き届いた其は激しい頭痛のような衝撃を加賀美に齎した。 全身の毛穴が開き、野性的な興奮が衝動となって居ても立ってもいられなくなる。思考は錯乱し、下半身に熱が集まるのを抑制する事さえ儘ならない。否、出来ない。 咄嗟に取り出したハンカチーフで口元を覆っても、もう遅い。 加賀美は剥き出しのコンクリートに爪を立て、額を擦り付けながら身を捩り、混じり気のない酸素を求めるが、繊維の隙間を抜けるみなせのフェロモンは拒めども拒めども体内に流れ込む。 「嗚呼、忘れてた──。発情期も完全に克服したんだ、だから僕はちっとも苦しくない」 「っは、──チッ、」 発情期特有の色欲を何一つ感じさせない口調で紡がれた言葉は、思考が鈍る加賀美の耳にも確りと届き、絶望の淵まで追い込んだ。 下品だと分かっていても舌を打ったのは、これからどうなるか、自分に何が起きるかを一瞬にして理解したからだ。 これは、拷問だ。 意識が薄れそうだ、これ以上理性を繋ぎ止める術がない、自我を失うのも時間の問題だ。 捕らわれた獣のように鉄格子に何度も体を打ち付け、自己の被害など省みる事無く無意味な攻撃をし続ける。気が狂う己の図が安易にイメージできる。 檻の向こうの愛しい獲物を狩る為に、唯それだけを目的に、一心不乱に取り乱して狂うだろう。 「君にはこれから、3時間耐えて欲しいんだ。そしたら解放してあげる。その前に気が違ってしまわなければいいんだけど」 ギリギリの所で踏み止まり、持ち堪えながら懸命に策を講じようとする加賀美を、奈落の底に突き落とすかのようにみなせは冷たく言い放ったのだった。

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