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第3話

最初の10分、加賀美は平伏し、床に顔を押し付けてハンカチーフで口元を覆った儘必死に堪えていた。 ぼた、ぼた、と床に溢れ落ちたのは涙でも汗でもなく、ハンカチーフでさえ吸収し切れなくなった涎だ。 だが10分を過ぎた頃から、徐々に低く唸りを上げて苦しむかのようにのた打ち回った。 みなせの発情から30分が経過する頃には、格子戸に掴み掛り音を立てながら大きく戸を揺さぶった。 「──……無様だな」 冷淡な眼差しを向けるみなせは、色も温度もない一言を呟いた。 もう長い間、Ωとして覚醒したその日から──、 αの精子を求めるだけの繁殖用生物としての本質的性質を、その鉄仮面の下に隠し、生きてきた。 故に、沁みついて剥がれない鉄仮面も丸ごと全部が二条 みなせ、という人物像と自意識になった。 今、この時もまた、過去の人物像や自意識を微塵も出す事無く、人間性を欠いた冷血な面持ちで加賀美を見詰めている。 防音剤も耐熱材も何も纏わない空間に、耳障りな金属音だけが響く。 自我を失った加賀美が脱出を試みようと足掻き藻掻く音だけが。 血走った目が、みなせを凝視している。 獲物を目の前に止め処無く溢れる涎をだらだらと垂らしながら、正気を失った加賀美がみなせを凝視している。 みなせにとってそれは、言いしれぬ興奮を覚える状況だった。 その内、絶望したかのように髪を掻き毟り、牢獄内を苛立った様子でぐるぐる歩き回るようになった。 つい先程まで綺麗に着こなされていたスーツも今や皺くちゃで、シャツのボタンは加賀美本人によって引き千切られて肌蹴ている。 「──……残り2時間」 狭い空間ながらに助走をつけて格子戸に体当たりをする加賀美の額や頬には、打撲による内出血と少量の出血が見受けられた。 爪先にもわずかに血が滲んでいる。 それでも、加賀美が無意味な行動を止めない、否、止められないのは、加賀美が“ラット”を起こしているからだ。 そんな事は誰の目に見ても明白だった。 だが、一心不乱に自我を失いながらも唯只管に“二条 みなせを求める行為”に、みなせは言い知れぬ優越感を覚え、独占欲が満たされていくのをひしひしと感じていた。 「もっと、僕を欲しがればいいんだ、もっと、もっと……──」 最早、加賀美の耳にみなせの声は届いていない。 残り1時間を残して、力尽きたのは加賀美の方だった。 無理もない、とみなせは冷静に思う。 加減なく全力で、2時間もの間勝ち目のない格子戸に対して挑み続けたのだ。 壁に凭れ掛かった儘、荒く呼吸を繰り返しながら動かなくなった加賀美。 最後の1時間は、ぴくりとも動かず、唯無音の一時が過ぎただけだった。 「おい、開けてやれ」 みなせがそう呟くと、隅の鉄製の扉がギィ、と音を立てて開き2人のβが命令通り南京錠の鍵を開錠した。 歪み一つ与えられる事のなかった格子戸を押し開くと、みなせを振り返り指示を仰いだが、みなせは首を横に振り、「出て行け」と命令を下す。 再び2人きりになった空間で、漸くみなせがその重い腰を上げる。 コツ、コツと足音を立てて一歩一歩加賀美に近寄るが、加賀美は相変わらず動かない。 そうして、みなせが加賀美の目の前に立つと、漸く指先が微かに動いたが、唯それだけ。 見るも無残な姿となった加賀美の前に、みなせは膝を落とし、項垂れた頭に手を伸ばした。 すっかり乱れたカールした髪を掴んで引き上げながら、耳元に唇を寄せる。 「さあ、司。噛め、僕の首を、──」 「……、」 「噛むんだ、噛んで番の証明を残すんだ、僕に」 反応のない加賀美に苛立ち、焦れた様子のみなせがガリガリと爪を噛む。 ぐっしょりと濡れた下半身はもう3時間も前から疼き、自発的に濡れ、目の前のα──加賀美 司を求め続けていた。 発情期を完全に克服したというのは、はったりだった。 抑制剤を直接注射し、強い効果を得られてはいるが、効きが悪い体質らしく欲情は軽減こそされど、消散はしなかった。 加賀美を呼び出し、監禁した上で態と発情期に中てて“ラット”を引き起こし、3時間掛けて甚振ったのは極限状態に陥れる為。 みなせにとって加賀美 司は初恋の相手だった。 どろどろとした好意と独占欲とが混ざり合い、腹の底で蜷局を巻き始めたのは中学時代。 年を追うにつれ、それは醜く歪みつつあったが、運良く発情期が来て遠縁の親戚の家へと追い遣られた事で、“いつか忘れられる”のだと思っていた。そう思いたかった。 だが、物理的距離を置いた所で、蜷局を巻いた感情は堆積し続け、醜く歪み続けた。 α一強の社会に激しい嫌悪と憎悪を覚える絶望の中で、加賀美 司は一筋の希望の光だった。 そうしてある日、決意したのである。 絶対に加賀美 司を手に入れる。 ──……たとえ、そこに愛があろうとなかろうと。 本家に戻る為、そして加賀美 司を手に入れる為に、長い年月をかけてやっとの思いで、みなせは慣れ親しんだ町へと戻ってきた。 遠ざかってからの加賀美の略歴を調べ、まだ未婚だと突き止めたのはつい最近の事だ。 付き纏うΩの劣性を払拭しようにも、それは何処までも付き纏う。 毎朝毎晩、暇さえあれば加賀美を思った。それと同時に、いついつ許嫁と籍を入れてしまうだろうと日に日に追い込まれていくようになった。 みなせはすっかり追い込まれていった。 それ故の、暴力的計画だった。 「ぁぁ、司好きだよ好きだよ司犯されたい司のでグチャグチャにあぁ噛まれたい抱いて僕を噛まれたい噛まれたい噛まれたい抱いて番にして噛んでねえお願い僕を司の番にしてほかの人と結婚なんてしないで愛してる今すぐ僕にその大きなブツをぶち込んで犯し、……おねが、噛んでよ、司ぁ、……──つかさぁぁぁ、ッ!!」 「っ、」 ぶつぶつと漏れる支離滅裂な言葉の数々は加賀美同様に自我を失い、Ωとしての性質が本能的に求める本望。 それでも、未だ繋がっていた理性が再び自我を手繰り寄せた所で、みなせは悲鳴を上げるように加賀美の名を呼ぶ。 その刹那、加賀美がみなせの喉元を掴んで引き寄せ、その後ろ首に歯を突き立てる寸前まで口を寄せたのは一瞬の事だった。 「かはッ、──っの、ま、っ、ま……ん、で……噛っ……で、」 「茶番は済んだか、最初から可愛くおねだりしてりゃ良かったのに。俺の前でまで、αぶってんじゃねえよ、ばぁか」 「っは、──や、…くっ……か、さ、ァ…」 「後悔、すんなよ」 じわり、と額に汗を滲ませる加賀美が牙を突き立てると、気道を圧迫されて呼吸を阻まれたみなせの目からボロボロと涙が溢れた。 「しな、……か、ら───ッか、はっぐ、あ゙あ゙ァぁ」 鋭く尖った犬歯がみなせの首筋に深々と刺さり、内側の分泌腺を断裂させた瞬間、濁った悲鳴がみなせの口から洩れ、直後に意識を失った。 気絶したみなせを抱き留めた加賀美もまた、遅れて意識を手放したのだった。 ────玉座に、Ω。

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