41 / 255
8月27日水曜日
「久しぶり」
直弥は営業用笑顔を取り繕った。上手く笑えているのか自信はないけれど。
「アンタ、何してんだよ?!今日会社は?」
まだ日も高い午前中。大介の驚きも当然だろう。
「休んだ。ちゃんと電話したから大丈夫。有給なんてもまともに使っちゃ無いんだから、今月二回使った位でバチ当たらないだろ」
直弥は心から笑っている。
先週の事、そして昨日の遙平の事……息が詰まりそうだった。
電車を降り、進まない足に鞭打ち会社に向かおうとしたが、名刺入れから大介に貰った手作りの名刺を取り出した。
大介に会いに来ようと決心してから、見えない手枷足枷から解放された様だった。会社を休む事に最初は気も咎めたが、今大介の顔を見て、そんな事もどうでも良くなっている自分が居た。
やけにあっけらかんと答える直弥に、大介は逆に呆気にとられている。
「可愛い猫だね。名前なんて言うの?」
「え……さ、|左文字《さもんじ》だけど」
「へえ、可愛いな」
直弥が手を伸ばした途端、フーッ! と身体を唸らせて左文字は部屋から飛んで逃げ出していった。
「俺が此処に来た時は居なかったよね?」
「アイツ、人見知りだから。アンタ運んだ時点で今みたく逃げてった。……って、そんな事より! 何で家に来たんだよ!」
「これ見ながら。前はおぶって貰ってたから道なんて覚えちゃ居ないし。地図見てんのに結構迷った。営業失格だな」
直弥は大介から名刺だと、貰った小さなレシートの紙をピラピラと振った。
「持ってくれてるのは嬉しいけど、そういう意味で聞いてんじゃ」
「だって、こうでもしなきゃダイスケ君に会えないだろ」
「……」
「もう……会社の前、来てくれないし」
沈黙が流れ、エアコンの音だけが部屋に鳴り響いている。
「だって、泣かしちまったし……」
弱々しい声で大介は呟いた。まるで小学生が花瓶を割った理由を問い質されているかの様に。
「ダイスケ君のせいじゃない。俺が勝手に悲しくなって、泣いたんだ」
「俺が抱きついたから、嫌だったんだろ?」
「そんな事ない」
「オレ、また飛び出したし……」
「ダイスケ君は悪くないよ」
「それじゃあ。怒ってないのか?」
「俺が怒ってる? 逆だよ。ダイスケ君に謝りに来た」
「ナオヤさんが謝る事なんて、ねーよ」
元気を取り戻したいつもの大介の口調を聞いて、直弥は一息吐いた。
「……俺、帰るよ。あんまりお母さん困らせるなよ」
「エー? 何だよ、折角来たんだからもうちょっと居たって……」
「いや、今日は帰って寝るよ。……この二日、まともに寝てないんだ」
直弥は伸びをし、大介に背を向けた。
「ナオヤさん、オレ明日会社に行っても良いよな!」
「会社……」
直弥の肩がぴくりと揺れた。
大介の顔を見て漸く安堵したけれど、会社と言われ遙平の顔を思い出した。
この前みたいな鉢合わせは勘弁だ。多分前回みたいに収まりはつかない。
「いや、」
直弥から否定の言葉を聞き、大介の表情がにわかに曇る。
「またオレが此処に来るよ。宿題してろよ」
「マジで来てくれんの?」
大介は少し怪訝な顔をしたが直弥がまた家に来ると聞き、大口を開け嬉しそうな笑みを見せた。
「また、明日な」
大介の専売特許の台詞を残し、直弥は猫が通れる隙間を少しだけ空け、ドアから去った。
ともだちにシェアしよう!