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第37話 賢者と試金石

 紫苑はとぼとぼと俯きながら歩いていた。  久しぶりの登校はやりきれない虚無感と疲労感で心が重い。恐怖に満ちた一週間は気が遠くなるように長く、途方もなくつらいものだった。  獰猛な野獣は鼻の先で抗いながらも、指先すら触れもせず、鬼気迫る顔で耐えていた。その様子を怯えながらも息を殺してみつめ、解放されたときには痺れるほどの安堵に浸った。  ――あれが、運命の番。  ほのかな芳醇を漂わせ、幸福に満ちる香気を持つ水樹は孤独な暴君のようにみえた。心を締めつけるような恐怖に襲われながらも、水樹は狂った野獣のような形相で己の欲望に背反しようと戦う孤高の戦士のようだった。  ――俺はおまえを番にはしない。  その言葉に心臓を握り締められたような哀しみがじわじわと浸透する。門倉の顔を思い出しながらも、逃げたい気持ちとこのまま(つが)ってしまいたいという矛盾に苦しんだ。 (結局、自分は親に多額の金で売られたに過ぎないんだ……)    その金もαである兄達の学費に充てたと予想できた。優秀な兄二人はαで、劣性なΩの自分は昔から家族に疎まれていた。小さい頃は門倉が傍にいた。優しくて、頼りがいがあって、初恋だった。だが、初めての発情(ヒート)で兄達に襲われそうになり、突如、誘惑された、誘われたと両親にまで疑いをかけられる。門倉は発情(ヒート)した自分を遠ざけ、親には家を追い出されるように留学という名目でフランスに飛ばされた。それから、ずっと一人で孤独に耐えてきた。それが瀬谷グループの子息である水樹が運命の番と判明してから、周囲の態度が掌を返したように変わった。  いつか、神様は僕を幸せにしてくれる。  皆、αかβだったらいいのに。Ωなんて、消えてなくなればいい。  ずっと、そう祈るようにいつも願っていた。    そして数年はぶりに日本に帰国し、胸を高鳴らせて再会した門倉の眼差しの冷たさに現実に引き戻された。それでも痴漢に助けられたときは嬉しくて、門倉を好きでよかったと泣きそうになった。  だが、自分が水樹の運命の番であるが故に他人のフリを強いられ、昔のことなど覚えていないと澄ました顔で告げられた時はショックだった。  ――ケンは僕のことを好きじゃないんだ。  そんな事を考えながら悶々と歩いていると、なにやら昇降口で人だかりができている。  遠目で門倉に抱き締められたアリスが額から血を流しているのが見えた。    ……どう、いう、こと?  門倉は息がつまるほどアリスを抱き締め、教室へ戻ろうとする水樹を睨みつけていた。それはまるで恋人を敵から守るように見える。  え?  なんで?  アリスと門倉の接点なんて無いはずだ。門倉はαで教室も違う。アリスから門倉の話は聞いたことがない。 「紫苑くん、おはよう! 立ち止まってどうしたの?」 「あ、うん、雅也くん、おはよう。あの、あれ……」  雅也とは未だに、くん付けで呼び合っていた。呼び捨てでいいのに、頑なに「くん」付けで呼ばれる。紫苑の指さす方向に視線を向けると、雅也は口に手を当てて驚く。 「あ、ア、アリス? 血を流してるよ! え、まって、どうしたの? でも門倉くんがいるね、うわっ、なんかドラマチックな感じ……」 「あの二人って……」  ざわざわと嫌な予感がした。 「うん、あの二人、付き合ってるんだよ? あ、もしかして、休みだったから知らなかった? すごい組み合わせだよね」  付き合っている? そんな、どうして? 「えっと……」 「ま、門倉くんならアリスを大切にしてくれるから安心だよね。なんだかゾッコンぽいし、羨ましいなぁ」 「あの、だって、水樹くん……は……?」 「……それは、あの、だって、紫苑くんが婚約者なんだ……よ、ね? 僕、アリスに水樹くんは諦めた方がいいって言っちゃったんだ。けど、余計なお世話だったみたい。皆知っているけど、急に付き合うんだもん。びっくりだよね。あ、紫苑くんは水樹くんと進展してるの?」  憂いを帯びた声で雅也が訊いてきた。  どういうことなのか、全く把握出来ない。 (水樹の婚約者なんて、話してないのに……。もう、皆しっている……?)  無理矢理拘束され、「運命の番に会えるぞ」と制服を剥かれ、部屋に押し込められた。祝福などなかった。あれほど身を削るほど苦しんだのに、こんな、こんなのって……。  物凄い形相の水樹がアリスの名前を口にしていたのを思い出し、胸が締めつけられる。    ――水樹くんはアリスのことが好きなのに……。    あれほどアリスを愛しているのに、こんな……。    苦痛を懸命に押し殺し、抑制剤を何本も打ち込んでは死ぬほどの苦悶を味わった水樹を思い出す。全てが終わったのを確認した水樹はうなじを軽く噛んだ。 『ダミーだ。どうせ消える。これであいつらを騙して欲しい。すまん』  目には苦渋の色が浮かび、暗く疲れ切った表情をしていた。そうしないと、父や母は納得しない。この縁談は全て決まっていて、もう終わったのだ。愚親たちによって、水樹の優秀な遺伝子を残すためだけに選ばれたに過ぎない。 「ぼくは……」  (自分は好きな相手にも、運命の相手にも、誰も欲しいと言ってくれない)  ――でも、こんなのあんまりだ。水樹くんがかわいそう。二人は付き合っていたのに、突然親友にも恋人にも裏切られるなんて……。 「……紫苑くん?」 「……僕は……」 「どうしたの?」 「え、あ、……そうだね、僕は水樹くんのこと、大切にしたいなって思ってる」    紫苑は目を細めて微笑み、わざとうなじを摩るように撫でた。噛まれたうなじがヒリヒリとまだ痛い。    どうせ、消える。消えたらまた同じようなことが起こる。  見えない絶望が心を冷たくしていくように感じ、苦しさが胸の底をかき立てた。  水樹も同じような気持ちなのだ。  ――それなら僕が水樹くんを奪ってあげる。  運命を信じて、そう誓った。

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