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第1話

 ユキムラ-雪群-家に婿(とつ)いだ男とともにナオマサ-名尾方-もこの家に入った。ユキムラの家は経済的に豊かで、ナオマサのほかにハウキーパーや世帯主であるアカミネ-緋峯-の秘書の出入りがあった。ナオマサのすることといえば、飼い殺しのような目に合っている婿・カナン-火喃-の話相手で、彼は今日もひとり泣いていた。カナンは色白で背の高い男で、形の良い広い額からは知的な印象が窺えた。少し前みでは眼鏡を掛けていたが視力矯正の手術を受け常に裸眼で居られるようになった。それもこれも、世帯主のアカミネのためであることをナオマサは長いこと傍に居て知っていた。  今日も朝からヒステリックな(いさかい)いが玄関で繰り広げられていた。ナオマサは二夫(ふうふ)のやり取りを与えられた自室に引き篭もって聞いていた。カナンの付き人だからといって、常にカナンの味方につき口を挟むことを彼女なりに考えた結果、良しとしなかった。口論の原因は根本を正せばいつも同じことだった。この夫倅(ふさい)の性生活のことだった。結婚して3年、およそ2年半に渡り営みがない。ナオマサも自身の存在を気にして頻繁に夜間は出歩き早朝に帰る生活をしてもみた。アカミネの休日には家を空け、入れ違うような生活をしたが、それでも2人の間には何も無いようだった。気拙さからか自室で摂っていた食事も今ではカナンに引っ張り出され3人で摂るようになっていた。夜間に出歩く生活もアカミネから引き留められ、配偶者との時間を潰すように酒に誘われる。仲は悪くないはずだった。手を繋いで寝たり、2人きりで入浴したり、休日の昼間は喫茶店に出掛けたりしている。この前も映画をソファーで寄り添い観賞していた。 「あの人は浮気しているんです……きっとそうだ」  寝室を覗くとカナンは床に膝をつき、準特大サイズのベッドに突っ伏していた。 「ぼくはあの人の夫になりたいんです。あの人の兄弟や親友になりたいんじゃないんです……」  うっうっと咽ぶ彼の横にナオマサは腰を下ろした。肩に触れようとして、彼女の手が躊躇った。 「イノイ-依倚-、あの人は……僕の何がダメなのか言っていませんでしたか」  これはもう口癖だった。返す言葉は決まっていた。アカミネからカナンについて聞くことといえばほとんどが惚気話であり、苦言を聞かされたことは一度もない。そしてそれをカナン本人に言うこともナオマサのなかの大雑把な美学に反していた。 「教えてください……イノイ、お前からみたぼくのダメなところでもいいから…」  カナンはベッドから顔を上げ、ナオマサに慰めを乞うた。子供がするように抱擁を交わす。 「大旦那様は何もおっしゃられてはいませんでした。旦那様が悪いのではありません」  ナオマサからみて2人の仲が良いのは間違いなかった。ただカナンが時折不安と不満を爆発させ営みを求めても、遠回しに拒絶するだけでなく、アカミネのほうでも耳触りの良い言葉で宥めようとする態度が火に油を注いでしまう。さらにはカナンに思わせぶりな挙動や言動を示し、その自覚がないようだから尚のこと厄介だった。しかし、おそらくナオマサの勘からいって浮気は本当のことらしかった。その確証がこの睦事を拒否された片夫にあるのかは分からない。  カナンは暫くナオマサの腕の中で咽び泣いてやがてベッドに俯せになった。 「恋人の気持ちのまま夫になれると思っていたよ。関係の名前変わって、もう少し強い結びつきになるものだって。けれどあの人は、ぼくに、お前みたいな家族や親友になってほしかったんだなぁ…」  シーリングファンが天井で回っていた。白い木目のある家具で統一された落ち着きのある部屋に、俯せに四肢を投げ出すカナンの姿は鬱屈を引き立たせていた。ナオマサは突っ立ったまま彼を見下ろす。子供でもあればいいんだがね、とどこかで聞いたフレーズが頭から離れなくなる。 「少し外に出ます」 「…行ってらっしゃい」  布団に向けられた言葉は曇っていた。ナオマサは少し気にしたが、アカミネの出社した後の数時間は気を遣って彼をひとりにしていた。2年半も配偶者から相手にされない身体を彼は持て余している。その場面に出会(でくわ)してしまってから。帰る時間も告げてナオマサは家を出た。アカミネの稼ぎはよく、都心の一等地にある4階建ての高級賃貸物件に住んでいた。タワーマンションではなかったがセントラルパークを思わせるほどの自然豊かな共有の庭があり、駐車場も広く、高層マンションの中階に相当するほどの丘の上にあった。ナオマサはこの地の風が好きだった。バスに乗って中心地域(ダウンタウン)に行き、華やいだ市井を散策した。ここから南東に少し行ったところにある歓楽街の条例が変わってから執拗な客引きや横柄なスカウトマンが一掃され、呑気な感じすらする穏やかな景色があった。ナオマサはペットショップに寄り値下げされたハムスターを買って帰った。ウィンターホワイトハムスターで他の個体よりも大きかった。箱の中で身動きする音を聞きながら休み休み家へと帰る。寝室はまだ閉まっていた。ナオマサはすでに買っておいたケージやエサの包装を剥がした。ケージを組み立て、中に入れる。金色の3階建てのケージは部屋の雰囲気にも馴染んでいた。 「イノイ?帰ってるのかい?」  ドアをノックされ彼女は応答した。控えめに扉が開く。カナンの目が金色の檻の中を忙しなく動く毛玉に留まった。 「あ、ハムスターだ。どうしたの、イノイ」  彼は転ぶように部屋に入ってきて、ケージの前に手を付いた。 「飼うんですか?」  少しだけ寂しげだった目が晴れる。 「触りたい。齧りますかね?」  ナオマサは苦笑して入れたばかりの絹毛鼠を手に乗せる。足繁くペットショップに通い、このハムスターとは慣れ親しんでいるつもりだった。動作に落ち着きはなかったが交互に出される両手を駆け上る。カナンはおそるおそる毛玉に触れた。 「名前はもう決まっているの?」  ナオマサは首を振った。 「旦那様、何かいい案はありますか」 「じゃあね…ポプリ」  儚げな白く長い指が円らな黒い目の付いた毛玉を優しく撫でた。 「では、ポプリと」 「ポプリ、よろしくね」  何度か触ってみたことで安心したのか彼は掌に乗せたがった。ナオマサからポプリを乗せられると柔らかな毛並みに頬擦りする。朝の情緒不安定な状態からは抜け出せたらしかった。カナンは長いこと抱き締めたり肩に乗せたりして楽しみ、ケージに入れてからもその動向を観察していた。 「また遊んでくださいね」  給水器を咥えるポプリを彼は優しい眼差しで眺めていた。 「旦那様、わたしの代わりに飼いますか」 「えっ!いいの?」  ナオマサは頷いた。ハムスターは巣箱に引き篭もってしまった。こうしてポプリのケージはカナンのよくいるリビングに置かれることになった。彼はハムスターを眺めながら洗濯物を畳んでいた。ハウスキーパーは休日にしか来なくなった。 『あの人は浮気しているから、ぼくに仕事に行かせたくないんです。ぼくまで浮気するって決めてかかっているんです。自分が浮気してるからって…』  洗濯物を積んでいく姿を見るといつかの会話が思い出された。ナオマサも手伝おうとした。 「いいんだよ、イノイ。お前にはいつもぼくの不満ばかりだけでなくあの人の悪口ばかり聞かせているからね」 『仕事もさせてくれないんです。家事もハウスキーパーを雇って、夜は放ったらかし。それならぼくはどうしてあの人と結婚したんだろう?』  営みがなくなってまだ日の浅い頃に聞いた言葉だった。結婚してからカナンは出世の道を突き進んでいた仕事を辞めた。カナンの父親で、ナオマサの雇主の手が伸びていない数少ない中小企業だった。 「こんな二夫(ふうふ)と居たんじゃ、お前も肩身が狭いだろう。ごめんね、色気のない片夫(おっと)でさ」  激しい口論の末に、ナオマサは同居を求められた。アカミネからも話相手になるよう頼まれた。いつの間にか(てい)のいい口実に使われてしまうこともしばしばある。しかし何故か離婚の話は2人の間からは出なかった。 「好きな人との結婚はもっと幸せいっぱいで、全部この人と乗り越えていけるって思っていたんですけれど……現実はそうドラマティックにはいかないものですね」  カナンは自嘲的な笑みを浮かべた。イノイのボクサーブリーフが畳まれていく。二夫の無地で落ち着いた下着と違いイノイの下着はキャラクターがプリントされていた。イノイは可愛いのがいいよね、とカナンは言った。それが嬉しかった。カナンは彼女の嗜好を難無く理解した。ナオマサの自認は女で肉体も女に近かった。しかし市井の女の殆どは持っていない器官が脚の間に生えている。髭は生えなかった。声変わりもなく咽頭に隆起は目立たない。撫肩ではなかったががっしりとした骨格ではなく、腰は括れ腿にかけて丸みはある。しかし股には砲身を携えていた。カナンは彼女のその悩みに寄り添った。ただそれだけで彼女にとってカナンは何よりも大切な人間だった。アカミネを怨みに思うこともある。それは殺意や害意とはまったく別の捻れて拗れた複雑な感覚だった。 「別れようとは考えないんですか」 「……思わなくはないけれど、でもやっぱりあの人のことまだ好きですから。まだ好きだなって思うことのほうが多いので、あの人から別れたいって言われるまで待ちます。その時ぼくは、もしかしたらみっともなく別れたくないって泣き縋るかも知れません。そうしたらイノイ、お前はあの人の味方についてください」  抱いてください、どうして抱いてくれないんですか、と彼が泣いて頼み、縋り付き、営みを乞う姿をイノイは見て聞いている。そしてアカミネは拒み切り、それでいて同じベッドで眠る。生殺しのように優しく触れ、艶めいた抱擁までするのだからイノイは割り込んでこの夫を一発殴ろうと思ったこともある。 『あの人とカラダで気持ち良くなりたいとか、それも思わなくはないですけれど、そういうことではないんです。ぼくはあの人にまだ恋人として見られているんだな、って思っていたいんです。肉体は衰えますけれど、気持ちはまだ恋人になれた時みたいで居たかったんです。心変わりというよりは、成長として、落ち着いたといわれたらそれまでですが好みも変わってしまったんですかね』  彼女の情事というものに対する童貞心がカナンとの間に壁を作っていた。恋愛に対しても経験がない。恋人になり、結婚まで至ると言葉だけでは足らないらしいのだ。肉体を重ねることが重要らしい。この二夫(ふうふ)と暮らして何とか形式として呑み込んだことだった。同時に市井の多くの者たち、ごく一般的な者たちとの価値観の相違を認めることになる。 「わたしは、旦那様が大旦那様と別れたくないと言うのなら旦那様の味方につきます」  カナンは申し訳なさそうな顔をした。 「ありがとう」 「いいえ」  アカミネの衣類がラグに落ち、カナンの手がナオマサの頭を撫でた。  雇主の自宅はタワーマンションの高層階にあり、エレベーターの乗り換えも、長い浮遊感もナオマサは苦手だった。通路脇に設けられた展望スペースで軽い酔いを払ってから部屋に向かう。この地の首領とも言わしめる実業家で篤志家も気取っている老人オオミ-大湖-・シガ-梓賀-の自宅に入ることのできる人間は限られていた。猫は限られておらず、リビングには多種多様な猫が好き勝手に暮らしていた。1匹を除けばすべて捨て猫だった。しかし猫を捨てるには(わざ)わざ人目のあるタワーマンションのさらに高層部まで運ばなければならなかった。貧民窟(スラム)や市街地で捨て猫を集めた資金に困った保護団体が置いていく。今日も1箱8匹入りの子猫が捨てられていた。ナオマサは少し湿った感じのあるダンボールを抱え、共に中に入る。老人は身体中に猫を乗せソファーに座っていた。この老人は脳天が禿げ上がり側頭部は肩まで届くほどの長い髪が豊かに残っていた。しかし老いにより灰色で、そこに青味が差している。膝には半分顔面の溶けかけたまま毛の生えた白の長毛種の愛猫が佇んでいる。箒と見紛う尾が揺れている。 「おお、来たか」  シガはナオマサを見遣ると重げに腰を上げた。晒された頭皮を照明が眩しく炙る。輪郭を失ったそこにカナンの将来を見た。 「二夫生活は相変わらず」 「レスは続いておるのか」 「はい」  深く溜息を吐く老人の前で片膝をつくナオマサに猫は身体を擦り付ける、床についた手に乗ったりした。立てた膝に飛び乗る活発な個体もいる。 「別れる様子もないのか」 「はい」 「婿を殺害しても良いのだぞ」 「火喃様の望まないことです」  シガは愛猫を撫でながら目を閉じていた。カナンとは折り合いが悪かったが、父親としてその身を案じ、いくらか過保護な節さえあった。 「浮気しているという話のほうはどうなった」 「まだ確信を得られておりません」 「調べない……本当だった場合は……」  史書に名を残す大賢人を彷彿とさせる顎髭を彼は梳いた。 「そこの棚の2段目を開けてみろ」  ナオマサは指示に従い、生活感のあるチェストの2段目の抽斗(ひきだし)を開けた。鈍く黒光りした銃が入っている。 「浮気相手を殺すが良い。生憎音が酷いでな。やり方は問わん。多少のことは揉み消せるからの…派手にやってくれて構わん。あの婿と仲良く沈めてやるのも悪くなかろうて」 「火喃様が望みません」 「ふん…損切りが下手なやつだ。どのみち出世はするまいよ。一生あの婿に食わしてもらうが()」  シガは愛猫を膝に乗せたまま、まだ小さな猫を抱き上げ美容パックの如く顔に被せていた。ニャンニャンにーにーと子猫が抗議する。 「我主(わぬし)も遊んで来たらいい。童貞にこの役目は務まらん」  老人の手が若い猫をソファーに戻し、紙幣の束をナオマサに差し出した。彼は歓楽街にもいくつか店を持っていた。 「それともワシと遊ぶかね?ひひっ」  厳密にいうとナオマサは童貞ではなかった。この老人に誘われたなら股に生えている茎を硬くして差し出した。彼の熟練した口技と、衰えを感じさせない深奥の活肉は若く経験の浅いナオマサを一滴残らず搾り取る。 「いいえ」 「まぁ良い。次は浮気相手の首でも耳でも持って来るといい。剥製にして、婿の部屋に飾るもよし、惚れ薬の材料にするもよし。それまではあやつと居てやれ。しまいには婿の代わりを求められるかも分からん」  最後の一言には頷けなかった。シガの手がナオマサのジャケットをまさぐり、札束が内ポケットに差し込まれる。猫に毛だらけにされシガに乱された服を直しナオマサはタワーマンションを出た。空は暗く、巨都タワーが赤々と光っている。その反対には私権で建った都天ツリーがグラデーションになって星々を闇に消していた。雨が頬を打つ。アスファルトはどす黒い。しかし様々な摩天楼から漏れた明かりで照っていた。端末が震え、確認する。カナンからメッセージが来ていた。雨を心配する内容で、傘が無いなら迎えに行くというようなことが書いてあった。傘も迎えも必要ないことを打ち、帰りが遅くなることを一度打ってから、アカミネも今夜は遅くなることを思い出して一文消した。今から帰ることだけ書いて送信する。少し行ったところに瀟洒(しょうしゃ)な店が並び、そこにあるローストビーフ専門店が前から気になっていた。雨はまだそこまで強くはなく、急ぎ足でナオマサは住宅地を抜けた。閑静な区画でスプレーの落書きや破けたゴミ袋、倒れたダストボックスも見当たらない。治安が良い。誰でも出入りできる貧民窟と違い、地価の高騰したこの区画は怪しい者から粗末な服装の者まで逐一職務質問されていた。人や車の出入りがあるたびに開閉する門を抜け、緩やかな丘を下って商業地域に出る。レアチーズケーキのような似たり寄ったりの外観をした店舗が何軒か並んでいる。並木道まで気障だった。雨は強さを増していく。近くの店の軒下を借りた。パステルカラーの着色料でトッピングされたドーナツ屋だった。雨宿りだけするのも気が引けて、予定にはなかったがメニューの中では地味で目立たず端に追いやられた流行遅滞(オールドファッション)だの簡素的(プレーン)だの、生地味(ベーシック)だのいうドーナツを買った。目的のローストビーフ専門店は斜向かいだった。雨足がわずかに弱まった隙をついてローストビーフ専門店に移動する。芳ばしい香りがした。ケーキ屋と見紛う内装だったがマーマレードやラズベリーのジャムが詰めてありそうな瓶にはしっかりとガーリックポーションや醤油(ソイソース)オニオンなどとラベルが貼ってあった。ショーケースの肉塊を眺め、カナンとついでにアカミネのことを好きそうな部位を選んだ。ワインはあったはずだ。2人が、否、カナンが好きな人と濃密な時間が過ごせたらいい。ナオマサの考えはこれだけだった。ソースもカナンの好きなワサビマスタード醤油(ソイソース)にするか、アカミネが好むオレンジブイヨンソースにするか迷った。結局のところ、カナンのことを思うときアカミネの顔を立たせなければならなくなる。カナンの好きなものを選ぶより、アカミネの好きなものを選んだほうがカナンは喜ぶのだ。まるきり部外者であるナオマサはそれが胸や喉の辺りで詰まって時々苦しくなってしまう。アカミネは徹底的にカナンを拒むことで操っているのだ。ワサビマスタード醤油(ソイソース)もオレンジブイヨンソースも彼女は選ばなかった。当店オリジナルと張り紙の付いたビネガーヨーグルトソースを買った。ドーナツの紙袋とロースビーフを抱え帰路に就いた。カナンが喜んでくれたらいい。しかしアカミネは今頃、浮気しているのだ。今から帰るとカナンに送る。アカミネはすぐに返信をしないらしかった。何もかも一方通行らしい。ハウスキーパーを雇う経済的な余裕があるのならもう自分は要らないのだとカナンは話す。仕事も家事もさせず、営みもない。映画観賞やデートなら交際でもできる。結婚した理由が社会的な承認以外見当たらないのだと。それでいて浮気している。 『イノイと結婚する人はきっと幸せだろうな。ぼくだって……幸せなんですけどね』  ドーナツの紙袋が濡れないように抱いた。睫毛に雨粒が絡む。自分が幸せだと思わないことに彼は負い目があるらしかった。だから言いたいことも言えない。何かが欠けた幸せという概念を形式的に受け入れ、甘んじるだけなのだろう。  垢抜けた商業区域を出たところで、シャラシャラと耳触りのよい音がした。華奢な金属同士がぶつかるような音色で、楽器ほどではなかったが、雑音とも言い難かった。散歩中の犬の首輪だろう。ローストビーフとドーナツの紙袋を抱き直し歩く。繁華街に着けばバスがあり、そこからヒルズ前まで移動できる。高級住宅地は住人の自家用車と緊急車両、前持って登録された車やタクシー以外簡単には入れない。あの土地はカナンにとって広大すぎる鳥籠だった。アカミネは車も彼から取り上げ、電話一本で繋がる専属のドライバーまで雇っている。カナンは疲れ果て、長いこと家に引き篭もったきりだった。アカミネは酷い男だ。 「名尾方(ナオマサ)か」  目の前の道を塞ぐように車が停まった。窓ガラスが開く。ナオマサを、誰よりもカナンを悩ませる男の車だった。闇に溶けたような車で、資産家は揃いも揃ってこの色、この車種に乗る。資産家の血がそうさせるのか、この色が、形がそうさせるのかは定かではなかった。しかし富豪の代名詞だった。 「乗れ」  ヘッドライトが一瞬光った。ロックの外れる音がして、後部座席のドアが開いた。 「失礼します、大旦那様」  車内は嗅ぎ慣れない匂いがした。しかし慣れ親しんだこの匂いはおそらくバニラで、それもアイスクリームやパンケーキから薫るものではなく香水のものだった。アカミネの好みそうにない妙なあざとさのある香りは、カナンから漂う優しく爽やかなものでもない。直前まで誰かが乗っていた。アカミネは何も言わずに発車させた。 「火喃はどうしている」 「ご自宅に」 「1人にしたのか」 「(ふさ)いでいらしたので」  カナンは鬱いでなどいなかった。ポプリを眺めたり、手の上で寝かせたりしていくらか朝よりも明るさを取り戻していた。ただナオマサはアカミネを遠回しに責め立てたくなった。鼻の中を通っていく(わざ)とらしいバニラの匂いに気付かないのか。カナンがアイロンを掛けたハンカチーフは濡れている。どこの誰に貸したのか。 「火喃を1人にするな」 「申し訳ございません」  ハンカチーフがナオマサの座ったシートの隣に落ちていた。少し濡れて使った形跡がある。長くは確かめていられなかった。端末を渡され、家にいる夫に電話するよう酷い男は言った。

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