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第2話

◇  先に寝ている夫の額にアカミネは口付ける。また朝から泣かせた。乱れたダウンケットを直し、リビングに出る。カラカラと軽快な音がした。新しく増えた家具だ。カナンの愛情を一身に受ける小さな毛玉だ。この生き物が来てからカナンは求めて来なくなった。救われたようで、激しい嫉妬が燃え上がる。引き篭もってばかりいた彼が小さな毛玉をリードに繋ぎ、大切に抱き締めて共有ガーデンへと行ってしまう。ベッドの中で手を繋いだり、抱き締め合う時間はなくなった。ただ朝食が用意され、共に喫茶店にモーニングに行きたがる素振りも見せなくなり、夜も然り。先に寝ていろと言っても寝ず待っていたが、このポプリとかサシェとかいうハムスターを朝方に散歩させるため帰宅する頃にはもう寝ていた。アカミネはこの非力なネズミが憎かった。呑気に滑車を回し、休憩を挟んでは再開する。グレーと白の動く毛玉を見下ろしていると、ふと背後に気配を感じた。カナンの従僕のような居候はアカミネの前でだけ足音を殺す。この家には不相応な明るい色味の寝間着はナオマサの陰った雰囲気にも合っていなかった。 「少し飲まないか」  アカミネは鋭さはあるが常に困惑しているような眉と、平行四辺形を思わせる力強い印象的な目、薄い唇の美青年で、髪質だけ傷んだように細く少し硬さを持ち、それだけが大衆的な美と離れていた。背も高く、脚は長い。腰は括れ、いくらか華奢なシルエットを作っていたがしなやかな肉付きをしていた。控えめながらも淑やかに表情のあるカナンと真逆というほどではなかったが愛想はない。 「ご一緒します」  同じ愛想も覇気もないナオマサはワインの準備をした。先にテーブルについていると彼女はワインと肴を出す。明るい色の寝間着でさえなければリストランテの給仕と紛う仕草で卒なくワインを注ぐ。飽くまで彼女はカナンの付人であって、間違ってもアカミネの使用人ではなかった。しかし彼女はカナンの顔を立てるため従僕を気取る。 「彼は何時頃寝たんだ」 「大旦那様が帰る2時間ほど前に」  アカミネは時計を見上げた。日々の鬱憤を晴らすように淫売夫を抱いていた時間帯だ。 「何か言っていたか」 「いいえ。何も」 「お前から何か言いたいことは」 「何もございません」  彼女はワインを一口飲んだ。深淵のようでいて睨むような目に射される。日常の決まりきった形式的な質疑応答だった。 「俺に何か言いたいことは」 「あります」  対面の女はまたワインを一口飲んだ。侮蔑の眼差しに常に晒さられている。 「言ってみろ」 「旦那様と離婚なさらないのですか」  手にしたワイングラスの中身を目の前の居候に掛けそうになった。 「何故」 「大旦那様は旦那様を縛り付けているように思えます。まるで、恨みでもあるかのように」  アカミネは噴き出すように笑ってしまった。対面の女は下唇を舐め、眉を顰めた。 「先に寝る」 「おやすみなさいまし」  一気にワインを飲み干し、空になったワイングラスを水場に置いた。ナオマサは動じることもない。二夫の寝室に戻ると静かな寝息が規則正しく聞こえた。しばらく聴いていた。身体の中の血という血が沸き立つ。今すぐにでも揺り起こし、抱いてしまいたかった。まるで動悸を起こしたように張り裂けそうな胸を宥める。柔らかな前髪の上から接吻した。欲望が底尽きるほどに淫売夫を抱いても、片夫を見ると情熱が再燃してしまう。ダウンケットを肩まで掛け直し、寝顔を見つめ枕に添えられた手を握った。体温が重なった瞬間に身動ぐ。 「ポプちゃん…?」  長い睫毛が持ち上がった。アカミネは手を離した。両肩に鉛が纏わり付くような居心地の悪さを覚える。 「ポプちゃん…?出てきちゃったの?」  ダウンケットが大きく翻り、透明になったユキムラ家の匂いの中にカナンの香りが漂った。片夫は目を見開いてアカミネに止まる。 「あ…おかえりなさい。ごめんなさい、先に寝てしまって」 「いや、いい。起こしてすまなかったな」  カナンは触れた手を抱いていた。アカミネは彼に背を向けベッドに座った。 『もうぼくには魅力なんか、ないですか』  背中に寄り添う体温はなかった。泣きそうな声で抱くように頼まれると、それを叶えられない切なさと求められる嬉しさが鬩ぎ合っていたものだった。 「明日、早いので何も出来ずごめんなさい。近所の(わん)ちゃんの散歩と重なるとポプちゃんのストレスになりそうですから」  カナンはまた掛布団に潜った。外側を向いて、(うずくま)っている。 『せめて、肩揉みだけでもさせてください。せめて…君に触れていたいから』  瞳を潤ませながら寝る直前まで触れたがっていたカナンが、長くても再来年には命のない小さな毛玉に夢中で、生活リズムを合わせ、まるで娘息子のように扱っている。 「俺も一緒に行っていいか」 「はい。ですが早いですよ」 「ああ、構わない」  消灯する頃にはまた寝息になっていた。淫売夫を揺さぶった手で触れてしまった。罪悪感が込み上がる。暗闇の中で片夫の姿を見透かした。  空はまだ白ずんだグレー一色で、そこに雲が淡くグラデーションを作るくらいだった。早起きは苦手ではなかった。 「ついでだし出してくるよ」  リビングでカナンの声が聞こえた。平たい造りの4階建ての賃貸物件は高さこそなかったが、1階(ワンフロア)丸ごと借りられ、4世帯あり審査も厳しく不審な住民もいなかった。防音設備も整い、下の階に人がいたことを感じたことはあまりない。多少、ベランダで感じる程度だった。まるで1階建ての一軒屋という認識でいられる。タワーマンションを借りられなくもなかったが、アカミネにはカナンに対して長閑で暮らしやすい場所で過ごしたかった。この地区は緑もある。風通しも良い。繁華街やオフィス街の慌ただしさ、獣臭さ、排気ガスの淀みを傍観できる。 「ごめんなさい、待たせて。行きましょう」  片手にリードに繋がれた忌々しいネズミ、片手にゴミ袋を持ってカナンが迎えに来る。 「持つ」 「大丈夫ですよ」 「いい、俺が持つ」  アカミネはゴミ袋をカナンから奪い取りながら、生まれが生まれなら害獣扱いされていた毛玉を睨んだ。カナンの掌や腕を歩き、忙しなく鼻先を突き出して虚空を嗅いでいる。黒胡麻(セサミ)のような目が薄ぼんやりとアカミネを見ていた。ライトブルーに白い大柄な水玉模様(ポルカドット)のリードをつけられ、それを誇っているかのようだった。すべてが気に入らない。 「行ってらっしゃいまし」  玄関までナオマサが見送った。カナンが選んだ「女の子らしい」ワンピースを着ている。アカミネからすればナオマサは男だった。胸が膨らんでいようと、腰が括れ、下半身に丸みがあろうと、声が高かろうと、股の間にカナンを脅かすものがある。その一点だけでアカミネは2人の関係を疑いはしなくとも、必ず安堵できるものとは思えなかった。しかしカナンに合わせ、白々しくも女として扱った。でなければカナンとの生活は歪んでしまう。 「ごめんなさい、ぼくが勝手に引き受けたのに」 「気にするな。遠回りした分、貴方と長く居られる」  冷めたわけでも、嫌っているわけでもない。本音だった。それは日々伝えているつもりで、しかしカナンの求めている形は取れずにいた。飽いてなどいない。ただ抱かないのだ。その分は言葉で伝えるつもりでいた。今までの、そして普段の彼からして目を逸らし顔を赤らめているはずだった。 「ありがとうございます」  カナンは微笑み、今の空模様によく似た毛玉に「パパと居られてよかったね」と話しかけている。害獣になりそびれた毛並みがいい程度のネズミは顔を近付けたアカミネの夫に鼻先を伸ばし、今にもキスせんばかりだった。 「行こう」  腕を引く。 「あっ、待って。ポプリが落ちてしまいそうです」  咄嗟に彼はアカミネの手を振り払った。白く骨張った手は小さな毛玉を守る。可愛い、可愛いと言って長い指は毛並みを整えた。 「ごめんなさい。行きましょう」  カナンからアカミネの腕を組み、共有ガーデンへ引いていく。いつでも彼は遠慮がちで受け身で、営みが途絶え、求められた時は苦しくなるほどの負い目を感じるだった。  アカミネはほとんど共有ガーデンに出たことはなかった。デザインガーデンは様々なエクステリアで飾られ、デートスポットのような洒落た造りをしていた。垣根はひとつひとつ前衛的な形状に剪定され、オブジェはよく磨かれている。雑草を駆逐した花壇は早朝にもかかわらず鮮やかだった。カフェスペースを模した外構もあったがカナンはよく刈り込まれた芝生の上に毛玉を放つ。リードが伸びる。カナンは石材の腰掛けに座り、アカミネも座るよう促した。それはあくまでも小さすぎる命のためで、結婚しても営み以外は恋人のようでいる配偶者を慮ってのものではなかった。実際のカナン本人の意図は分からなかった。ただアカミネにはそのように感じられた。片夫は空ばかり見て、鳥が来ないか見ているのだと言った。彼の肩に甘えようとした。しかし受け止める肉感はない。カナンは立ち上がり、緑の中にぽつんとある毛玉を拾い上げていた。 「お外、楽しかった?ポプちゃん」  毛並みのいいネズミはアカミネから見て挙動不審な感じがあった。それがこの愛玩用のネズミの生態なのかも知れなかった。まだほんの数分しか経っていなかったが、もう終わりらしかった。カナンは大事そうに掌に乗せた毛の塊を包む。近くにカラスがいる。人の手の中のものを鋭い足で奪い去っていくのは容易いだろう。夫が早起きして害獣とそう変わらない獣に情を委ねていることが気に入らなかったが、カナンの大切にしているものを浅ましく陋劣に盗み去っていくこともまた気に入らない。この毛玉に外は危なく、カナンの悲しみが他のものに与えられことが我慢ならない。 「ハムスターに外散歩はあまり良くないんじゃないか。元々夜行性なんだろう?リビングを模様替えして、散歩コースを作ってやるのはどうだ」  休日に2人で作ろう、と言葉が続くはずだった。 「そうですね。では明日、イノイと買い出しに行きます」  カナンは素直に認め、そして手の中の弱げな生き物に謝った。 『疲れてますよね、ごめんなさい…わがまま言ってしまって』 「俺と、行こう」  夫は苦笑した。嫌な予感がした。アカミネは眉根を寄せた。 「悪いです。君に黙って飼ってしまったのはぼくなんですから」 『猫、飼ってもいいですか。里親募集していて…ぼくなら1日中面倒も見られるし……』 『俺はまだ貴方と彼女の3人で暮らしていたい』  おどおどした、顔色を窺い機嫌を取ろうとするようなところが薄らいでいる。手の中の毛玉に何かあるのなら夫のことなど捨てられさえしそうな、不安定で歪な芯を感じる。 「そんなこと気にするな」 「嫌いなのかと思って、動物……」  猫を引き取ることを拒んだ件はアカミネの中だけに残ったやりとりではないらしかった。カナンは気拙げに目を逸らす。アカミネは猫も犬も嫌いではなかった。ただ毛物のほうから嫌うのだ。懐かない。だから熱帯魚や食虫植物のほうが好きなのだ。 「嫌いじゃない」  そしてモーニングに誘うつもりだった。2人で出掛けようと。朝早く起きるのは悪くなかった。曇空だが天気予報(ウェザーニュース)ではそのうち晴れる。甘いものは苦手だがハニートーストを2人で突つくのも悪くなかった。 「それはよかった。ところでポプリのケージのお掃除をしたいのですが、君はどこかで食べて来ますか?」 「貴方はどうする?」 「簡単なもので済ませます。行ってきてください。そのほうがぼくも気が楽ですから」  家から追い出したいわけではないことは承知の上だった。営みがないことを除けば、若いカップルや新婚夫婦よりも甘い恋愛を続けているつもりがアカミネのなかにはある。 「帰りに何か買ってこよう」 「そんな気を遣わないでください。ドーナッツを食べ過ぎて少し太ったくらいなんですから」  買ってきた本人も、アカミネも手を付けなかったドーナツのほとんどを消費していったのはカナンだった。 「あ…その、痩せますから。君に不快(いや)な思いはさせないように」 「いい。貴方の見た目だけに惚れたんじゃない」  失言をしたような表情のカナンにアカミネは食い気味に答えた。ベッドで睦まなくなってから彼は卑屈になった。何をせずとも美しかったが、さらに見た目を気にし始めた。市井の若い娘、老いに追い詰められる女のように。抱かれないのは自分が男だから、出会った頃よりも老いたから、そう信じているようだった。 「でも―」 『でも、抱いてくれないじゃないですか。そんなこと言ったって、いつも言葉だけで、それじゃ信じられないんです。君は優しいから、言葉ならいくらでもぼくを慰められる』 「それなら尚更、怠けていられませんね」  健気な夫が好きだった。外にもかかわらず抱き締めてしまう。しかし毛玉を守っているカナンの腕が密着を許さなかった。まるで抱擁を拒まれているようだった。 「行きましょうか。早くしないと混んでしまいますもんね」  自宅に戻り、それからまた見送られて家を出る。出掛ける前の口付けが形式張って感じられた。すべて罪悪感からで、アカミネはこの罪悪感に酔ってしまう。喫茶店の並ぶ小道に行くはずの車はまったく違う道を走っていた。高級住宅街に入り、タワーマンションの階段でもいける下層の一部屋を訪れた。インターホンを押してもすぐには出なかった。端末から電話をかける。寝呆けた声がした。玄関扉が開く。相手の姿も確認しないままアカミネはわずかな隙間から身を割り込ませた。住んでいるのはまったく違う人間だから借りたときの名義はアカミネで、家賃も敷金も礼金もほとんどアカミネが払っている。 「あっ…()て…」  彼の目の前には押し戻され尻餅をついている少年がいた。金髪に褐色の肌が特徴的で、黄金色の腕輪と足輪を嵌めている。それがシャラシャラと鳴った。オーバーサイズの白のフーディが肌の色を引き立てている。 「尻を出せ」  猫のような色の大きな目が持ち上がる。婚外の性交渉相手だった。アカミネの一言に渋々といった態度で下半身の素肌を晒す。部屋まで上がったことはほとんどない。まず自宅まで押し掛けることが数えるほどしかなかった。主な逢引場所は店で、普段はそこで身体を横たえ交合(まぐわ)う。 「また夫奥(おく)さんとケンカ、したデス…かぁっ?」  アカミネはチョコレートムースを思わせる丸く滑らかな尻たぶを叩いた。 「あひっ」  下駄箱上のアロマオイルを垂らし、挿入口に塗り付ける。頭痛を伴うような強い香気が広がった。油塗れの掌でもう一度瑞々しい尻を張る。 「お前が軽々しく家のことを口にするな」 「ぁぎ…っ、ごめ……なさ…ッ」  まだ17、18といったくらいの少年は姿見に手を付き、後ろから貫かれる。アカミネは食い込みの悪い肉を割り開き、力任せに腰を進めた。 「ァ…あぅ……っ」  夫とは似ても似つかなかった。年齢も違えば風貌も正反対で、性格もそうだった。しかし具合がよく似ていた。何度抱いても初めて夫と交わった時を思い出させる。 「緩めろ」  アロマオイルはまだ潤滑油になれなかった。アカミネはゆっくり腰を動かした。少年の体内までアカミネを拒む。勢いを付けて押し入れる。食い千切らんばかりの力で戻され、息苦しさに似た痛みが生まれる。 「待っ……まだ、ァっ…苦し…」  喉を仰け反らし、鏡に縋り付いて少年は後ろから穿とうと躍起になっている男から逃れようとしていた。地毛らしく燻んだ金髪がフーディを掃く。グリーンフローラルの柔軟剤の匂いとバニラの香り、柑橘系の強烈なアロマオイルが鼻腔で喧嘩する。むしろ悪臭といえた。 「ァッ、あっ、アッ…!」  後頭部の髪を鷲掴み、腰を打つ。アロマオイルが接合部で混ざる。拒否ばかりの肛襞が解れていく。少しずつ店内で交尾するような柔らかさを取り戻していく。 「あっあ……ぁぅう…」  鏡についた手を纏めて押さえ、足をさらに開かせる。活気のない粗末な性器を無理矢理扱く。 「あぅっ、ァッあっぁ!」  腕輪と足輪がシャラ、と鳴った。手の中で育っていく男児のような肉茎から露が瀞みを持って滴り落ちる。スタッドピアスからぶら下がるチャームが大きく揺れた。ゴールドが綺麗に褐色に映えている。アカミネは誘われるまま耳殻を食んだ。少年の身体は貪欲に楔を自ら求めた。 「幸群(ユキムラ)さ…っ、も……」 「御主人様より先にイくな」 「あっ……ぅう、でも、あぁ…っん、!」  夫と違う色気も艶もない身体は大きなぬいぐるみを抱いているような心地がした。最奥を突く。少年の熟れた肉に締められる。快感が高まり、セックスであることを忘れて肉孔に独り善がりな律動を与えた。 「あ……っ、中は、今日、ダメ……っ」 「身籠もりそうなのか。中に出させろ」  腰の動きで少年は相手の絶頂を察したようだった。力強い抱接を解こうとした。だが放さず、むしろさらに強く抱き締める。 「んっ、ぁあ……中に、……ぁぁう、」  少年の体内が蠢く。反射に逆らいながら彼は懸命にアカミネの欲望を小穴で抱いた。根元まで納め、体温の中に溶けながら精を放つ。 「ああッ!イく、」  バニラの香りを放つ発育途中の肉体が痙攣した。体内の放精でオーガズムを迎える少年にこの瞬間ばかりは情が湧いてしまう。膝の震えている彼を支え、残滓まで吐き出した。 「は……ッ、あぅ…」  尻を叩く。温くなったアロマオイルが香り立つ。収縮している孔から己の砲身を抜くと大量に注いだ種汁が溢れ返り、少年の内腿を白く染めた。夫にはさせられない無様な様相を呈していた。淑やかで清楚な夫と生で交わったことはない。付き合っていたころも遮膜(スキン)を付けていた。あの清らかで繊細な身体を汚せない。 「デートでも予定していたのか?遮膜(ゴム)は付けろ」 「ん……ぁ、」  目を潤ませ、玄関にどちらのものかも分からない精を落としながら少年はアカミネの仕事を終えた滾りを口に入れた。舌と唾液で自身の体液を上塗りしていく。金色の瞳が許しを乞うように下方からアカミネを覗き込んだ。目元を覆う。媚びるようなその目付きが嫌いだった。 「もういい。じゃあな。カレシと美味い飯でも食え」  小さな口を離させ、衣類を正すと紙幣の束を下駄箱の上に置く。少年を振り返りもせずにアカミネはマンションを後にした。目的であるはずの喫茶店に寄り、スコーンと夫の好きなアプリコットジャムとクロテッドクリームを買った。共に甘いものはそこまで好きではなかったが、かといってカナンは甘いものが嫌いではないようだった。コーヒーとともに分け合って食べるのがいい。リビングでテレビでも観ながら。或いは旅行雑誌を開いて。それか、話をして。夫とはただ同じ空間に居るだけで、何をせずとも安らいだ。気分を落ち着け自宅に帰る。足音を聞いて夫は出迎えた。 「混んでました?」 「いいや、空いていた。土産だ。喜んでくれるといいが」 「ありがとうございます」  差し出した紙箱を夫は恭しく受け取った。それからアカミネを見つめる。 「香水でも溢しましたか?」 「店のディフューザーが壊れてた。だから中のアロマオイルが掛かったんだ」 「大変でしたね。あまり強い匂いは好きじゃないんですもんね。すぐ洗濯しますから」  強い香水やアロマが好きでないことを夫はよく覚えていた。付き合いたてのころに何気なく話したことだった。手伝われながら脱いでいく。 「少し出掛けます」  二夫の部屋と化している寝室の前をナオマサが通りがかる。 「うん。いってらっしゃい。気を付けるんですよ」 「はい。行って参ります。何か必要なものがあれば帰りに買ってきますが」 「アカミネさんは何かある?」  カナンは首を傾げた。その口にキスしてから「無い」と答える。彼は顔を赤くした。 「特にないよ」 「承知しました。暗くなる前には帰ります」  彼女の声が玄関に留まった。 「食事に行かないか、今夜」  夫はきょとんとした。澄んだ目が泳ぐ。 「名尾方(ナオマサ)、今夜は2人で出掛ける」 「承知しました。留守を預からせていただきます」  返事も聞かずに先約した。カナンは照れながらも驚いた顔をしていた。ビネガーライスの鮮魚スライス乗せ、ビーフステーキ、正餐、高額なものでなくてもいい。夫と2人でどこかに出掛けたい。

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