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第3話

 玄関は香水にしては桁外れに強いベルガモットのほかにバニラの香りがした。ナオマサは二夫(ふうふ)を2人きりにして平たく低い高額賃貸物件(ハイグレードアパートメント)を出た。真っ白い風貌のハウスキーパーとすれ違う。体質としての色白や血筋による人種とは異なり、かといって街中で目にしたことのある色素欠乏症の者とも違う異様な白さで、髪も爪もすべてが陶器のように白かった。服屋で見れば白と分類される布が黄ばんだり黒ずんで見えた。オーバーサイズの綿のボトムも、踵を潰したスニーカーも白で統一されている。ブランドロゴのあるタグだけが緑色でよく目立っていた。 「おはようございます」  白い瞳の中にある瞳孔がナオマサを捉え、小さく頷く。隈が薄らと紫を帯びていた。這うように歩き、二夫の部屋へ向かっていく。彼のことは、酷い暴行に遭い頭に大きな障害を負ったということだけ聞いていた。ナオマサがほかに知っていることは仕事は非の打ち所がないというくらいのことだった。ハウスキーパーの青年が入ってきた門を出て、ナオマサは市街地に降りた。バニラの香りがまだ鼻腔に残っている。猛烈な匂いを放っていたベルガモットよりも執拗に鼻に残っている。粘膜に染み付いてしまっている。空は段々と晴れて、ショップの並ぶ通りの匂いが輪郭を持ちはじめ、香水とは違う甘さが漂っていた。そしてこの小洒落た通りに第二勢力ともいえる新たな強い薫香が現れた。しかしナオマサはこの匂いもまた知っていた。カナンの夫が身に纏い帰ってきた異臭とも呼べる度を越したベルガモットだ。嗅いだ途端、悲鳴が聞こえた。パラソル席のある喫茶店で老人が倒れている。テーブルからドリンクが溢れていた。  目の前を白いワンピースの少年が通り過ぎていく。シャラシャラとウィンドチャイムには劣るがそれに準じる音がした。放浪穢多(ほうろうえた)だ。遠い西から流れてきた異国の徒で、穢れと病を運び、盗みと騙り、物乞いによって生計を立てているというのが普遍的な認識だった。得体の知れない生活様式や異文化も差別や忌避を助長した。黄金色の腕輪は南西部生まれの放浪穢多の紋切型(ステレオタイプ)でナオマサもここまで見るからに記号的な身形の者は初めて見た。今まではあくまで根も葉もない噂として身近にあったが、それはどれも信憑性に欠けた。この地区では不可触民族(アンタッチャブル)とか未認知民族(ノーバディ)とか呼ばれていた。最近になって社会に幅を利かせている人権団体は彼等を流離旅客(ストレンジャー)だの異邦旅客(エトランゼ)だのと呼び改める運動をしていた。  少年は周りの新しい動揺や困惑にまったく気付く様子もなかった。腕や足に巻かれた帯状の金属にドアノッカーのようなリングを鳴らして倒れた老人の元に駆け寄る。その場にいた誰もが、不可触民族とされておきながらもあまりにも堂々とした放浪穢多の少年に目を奪われていた。耽美的な美しさとは違うが決して醜くもないあどけない顔立ちに日の光が応えるように晴れていく。ナオマサも意識をすべて奪われていた1人だった。シャラシャラと金属が鳴り、止まった。彼等しか知らないという鉱物で作られた眩いまでの黄金色の腕輪が輝きを増す。それを煽るワンピース状の衣類を好むのも南西部の異邦旅客の特徴に挙げられていた。ベルガモットの異臭を放ちながら褐色の若い手が老人の口周りの吐物を拭う。賑わっていた瀟洒な通りが凍り付いている。小石が飛んだ。  「わっ」  金髪の垂れる額に命中する。ウイスキーボンボンほどもあり、ぶつかればそれなりの痛みがあるだろう。ナオマサは初めて我に帰り、少年の傍に屈んだ。マニュアルに沿った処置を施し、救急車を呼ぶ。百数回目の心臓マッサージをしながらナオマサは傍にいたはずの放浪穢多の少年が居なくなっていることに気付く。ベルガモットの残香だけがそこにある。店から漂うシナモンやケーキの匂いに押し負けている。救急車の到着とともにナオマサはその場を去った。不可触賎民(アンタッチャブル)に触られた、病気(ケガレ)は大丈夫か。違います、うちの(ひと)を処置してくれたのはその人です!お爺ちゃんを早く綺麗にしてあげてよぉ~!  裏路地にある軒下で三角形に座る少年がいた。 「傷病者の体液に触るのは良くない」  ポーチからアルコールティッシュを取り、彼に差し出す。金髪は腕に顔を埋めていた。無理矢理に褐色の手を掴み、受け取られない除菌ティッシュで指を拭く。子供のようだった。ナオマサからすると14か15といった頃合いのようだ。見慣れない服装のせいもあるのだろう。まだ若いことだけは何となく分かったが、細かい年齢層までは割り出せない。 「あのおじいちゃん、大丈夫そうダタ…?」  意外にも流暢に喋り、彼は大きな蜂蜜色の目を上げた。 「おそらくは。それより(でこ)を見せてみろ」  彼女は少年が自ら前髪を上げるものと思っていたが、彼は(うずくま)ったままだった。ナオマサはもどかしくなってカーテンを開くように冷たい前髪を除けた。石の当たったところに傷はない。 「お姉さん、おでに触るとビョーキになっちゃうヨ」 「…そうか。困るな」  黄金色の腕輪とそれを打つリング、そしてワンピース状の衣類。耳にまで悪趣味なチャーム付きのピアスが刺さっている。相容れない嗜好をしている。何より鼻を刺すような香油の匂いがした。 「ありがとナ。手、拭いてくれてサ」 「どこかに水道があればちゃんと石鹸で手を洗え」 「うん…」  少年はまだ座ったままだった。白いワンピースがやたらと目を引いた。腕輪も足輪も外してワンピース状の衣服もやめてしまえば社会に擬態することは出来る。しかし放浪穢多は出自を隠さない。貧民窟(スラム)の生まれよりも頑固で愚直なところがある。ナオマサは無意識に彼を不躾なほど眺め回していた。 「お姉さん、おでに興味あるん…?」  指摘され、慌てた目を逸らす。足首に嵌った金輪が曲線を強調し、興奮に似た感慨を刺激する。人の身体の一部の細さに感動したり嗜好を覚えた試しは一度もない。 「おでのコト…嫌じゃなかったら、遊ぼうヨ。嫌じゃ、なかったらサ」 「興味はあるが、遊ぶ理由はない。わたしとあなたは今日会ったばかりの他人だ」 「じゃあ、オトモダチになったらいいヤ。なってくれる?」 「そういうものなのか?」  ナオマサは腕を組んで首を捻った。よく濡れた瞳は彼女を見上げている。卑屈さはあまりなかった。むしろ呑まれそうなほどの無邪気さがある。 「そういうんじゃないの…?イヤだた?」 「言葉による双方の合意によって成り立つものなのか?生憎、友人がいないから分からなかった」 「ンじゃ、おでがお姉さんのトモダチ1号になる。いい?ヤダ?」  少年は急に元気になって跳ねるように立つ。カラン、と腕輪足輪が軽やかに、しかし鈍く音を鳴らした。耳朶から下がる華奢な飾りも大仰に揺れた。 「よろしくしてイ?おで……ホントはビョーキなんかもってないカラ。ホントだヨ?」  彼の目は朝露に似ていた。欠如していた美的感覚や美的意識というものを問い質す魅力がそこには込められている。 「よろしく」  握手に答える。あどけない褐色の手には肉感があった。体温も高い。そして人工的な柑橘類臭さを放っていた。 「おでね、チャンダナ。お姉さんは?」 「イノイ-依倚-」 「イノイ姉さん!よろしくネ、イノイ姉さん」  目以外は鼻も口も小さい顔で彼は笑った。環境に擦り切れて荒んでいる様子はない。 「でも一緒に外歩くときは、離れて歩こ」  幼児のような感触の手が放される。手首の金属が眩しかった。光芒が落ち、極めて小さな虹が見えた。 「お姉さん、おでに…おでにっていうか、流浪民族(ノマディック)に興味あるんでしょ。もうオトモダチだから全部教えたげる」  小柄にみえたが、並ぶと少しチャンダナという少年のほうが目線の位置が高いような気がした。それでもナオマサが生活を共にするユキムラ二夫(ふうふ)やハウスキーパーの青年よりも幼い印象が実際に推定される背丈よりも低くみせていた。 「歳は」 「17歳」  ナオマサの思うよりは歳が上だったが、詐称を疑うほど無理のある誤差でもなかった。 「親御さんはどこにいる」 「いないヨ」 「そうか…」 「あ、でも、顔も知らないから気にしないでネ」  語気の沈んでいくナオマサの前を塞ぐようにチャンダナは回り込んだ。金色の睫毛が弧を描く。純真無垢な笑みに調子が狂う。ベルガモットの匂いが鼻を刺す。しかしこの土地の国民性として体臭や香害に対する指摘は一種禁忌とされていた。 「これから何か用事があるんじゃないのか」 「うん…そのつもりだったんだケド、今日はネ、セントラルパークで遊ぶコトにしたんダ」  ナオマサはセントラルパークの方角へ歩いていくフーディワンピースを見ていた。 「ネ、ネ、他にもっと訊きたいコト、あるんでしょ?個人(おで)のコトだけ訊いてどうするん?」  可愛らしく笑みを浮かべ彼は首を傾げた。故意に相手の情感を煽るような危うげで打算的なところがある。ナオマサは小さな溜息を吐く。アカミネの浮気相手の調査を私立探偵に依頼しようと出てきたが今日は叶いそうにない。 「まずは手を洗え」  アルコールティッシュで拭いた程度の手を掴み、連行するようにナオマサは少年を引っ張った。セントラルパークは三方をファストフード店やベーカリー、ケータリング、コンビニエンスストアに囲まれ、利用者のほとんどは飲食の場にしていた。ペットの散歩や、子供の遊ぶ場所としても賑わっている。ナオマサは水道にチャンダナを連れ、手を洗わせた。子供のような手をハンカチで拭いた。彼は緩みきった笑みばかり浮かべ、人懐こい犬のようだった。 「お姉さん、ご飯食べたカ?おで何か買ってくるヨ」 「あ…、ああ」  ナオマサは財布を出そうとした。女人の胸元であるにも関わらず、褐色の小さな手が上から押さえ付ける。気遣いも恥じらいもない。朝露を溜めたような金色の瞳は真っ直ぐ彼女を射していた。 「今度遊んだらごちそうになるヨ。今日はオトモダチ記念日だから、おでに出させてネ!だっておで、お姉さんに話しかけてもらえて嬉しかったノ!」  返事も聞かずに脱兎の如くどこかの店に消えていった。ベルガモットの中にふと、柔らかく苦味を帯びた甘い香りが紛れていた。探していたバニラの香りだった。瞬時に外気へ溶けていく。気のせいだったのかも知れない。セントラルパークを囲う洒落たベーカリーでも有名なファストフード店でもバニラの香味を扱うメニューは多い。それが食品によるものなのか、香水によるものなのか判断ができない。ナオマサは近くのベンチに座った。そのすぐ傍の芝生には、貧民窟居住者の使用を禁じる立て看板が刺してあった。地価が高い区域では珍しいものではない。これはあくまでも土地の価値を高めるための建前(ポーズ)であり、貧民窟から離れ、門と警備員までついているこの区画に貧民窟の居住者はそう出てこない。しかし貧民窟の居住者以上に蔑まれ、貶められている民族と、ナオマサは今日会ってしまった。アカミネにもカナンにも話せない。守りたい人々がいる以上、穢れを運んでいるだとか未知の病を持っているだとか脅かされているのならそれに屈して排除に動いてしまう者たちのことをナオマサは否定しきれなかった。  待てども待てどもチャンダナは戻ってこなかった。ナオマサはベンチから腰を上げ、店を探した。ベーカリーには居なかった。バンズホットサンドを売っているファストフード店で目立った服装を見つけた。集団に絡まれ、壁に追い込まれている。彼は身振り手振りで相手に応じていたが、話が通じている様子はなかった。ナオマサは駆け寄って、集団に割って入った。店員たちも困惑し、店内にいる客たちの視線も一箇所に集中していた。話をよくよく聞いてみると、(わざ)わざ異邦旅客(エトランゼ)の格好をするのはけしからん、異邦旅客に対する侮辱行為だ、文化盗用である、ということらしかった。 「おで、おで…」  壁に貼り付き震えている少年がナオマサに目を遣る。彼女は庇うようにその前に立つ。 「彼があなたたちに何か悪さをしましたか」  悪さはしていないという。ただ社会的に、人として、被差別者を愚弄しているという。小さい子たちが真似をし、風化させていた差別意識を高めていくのだという。それが不愉快で、胸糞悪いのだそうだった。排除され排他される異邦旅客の気持ちを考えろと彼等は口にした。そして「この差別主義者が!」と怒声が店内を制圧した。 「帰ろう」  握り拳を掴みナオマサはチャンダナを連れ出した。この地区には貧民窟居住者も本物の放浪穢多も居ない。存在しない。おそらく比べてしまえば彼の手のほうが大きいのだろう。それでもナオマサにとってこの少年の手は幼く小さかった。 「お姉さん。ごめんナ」 「どうして君が謝る」  腕を引っ張りながらセントラルパークの裏にある寂れた市営公園に逃げた。セントラルパークを彩る洒落たビルに翳っている。色褪せた遊具はいつ設置されたのかも分からない工事予定の貼り紙によって使用禁止になっていた。 「おでさ……おで、本物(マジもの)放浪穢多(アンタッチャブル)だってちゃんと言えなかったカラ」 「一緒にいるわたしに気を遣ったのだろう」 「外せばサ、いいんだケド。これ外してみんなに混ざったらいいんだケド、おでバカだから、これ外したラ、なんか怖いんダ。色んなモノ裏切っちゃう気がしてサ。ママンとかパパンのコト、顔も知らないケド。あと育ててくれたバァバとか、近所のオジジのコトとかネ。思い込みなの、分かってるんだけどサ」  腕輪を触りながら彼は突然走り出し、公園の小さな山に登った。ベルガモットの香りを置いて、十歩もかからずに辿り着ける頂上から少年は手を振った。腕輪に日が当たり白い光芒ができている。ナオマサも登った。 「外す必要はない」  腕輪と同じ瞳が彼女を穿つ。神妙な顔付きに狼狽える。二呼吸ほどしてから彼は軽やかに笑った。白く綺麗な歯をしている。 「好きな服装(かっこ)して出歩くノ、寂しいケド楽しいナ。明日からハちゃんとみんなと同じ服装(かっこ)する。でもおでのコト、見つけてネ」 「…そうか」 「なんて言われてるか知ってるカラ。みんなを不安にさせる必要なんか、無いもんネ」  チャンダナは芝生の禿げた場所に座った。 「今日は何か予定があったんだろう」 「うん……えっとネ、トモダチに会いに行くつもりだったんダ。でも予定変更してよかった。お姉さんとトモダチになれたカラ。お姉さんは…?何か用事あった?」 「今日である必要もない」  ベルガモット臭い少年の傍に膝を抱いて屈む。 「もうお昼ご飯の時間過ぎちゃったしサ、このままちょっとお散歩してお腹いっぱい空かして、おでン()で飯店BBQしない?」  ユキムラ二夫(ふうふ)は今晩は外食だ。おそらくその後に、もしかすると。カナンの苦悩の日々が終わるかも知れない。しかし2人の外食、そしてラグジュアリーホテルで何もない夜を明かすことは今までに何度もある。今夜もまた期待させるだけ期待させ、堕とされる。アカミネはそういう男だった。カナンはそこを直視しない。 「いいのか、お邪魔して」 「うん。お姉さんは、ヤじゃない?」  金糸を撫で散らす。髪質は少し硬い。 「じゃ、決まりネ!お肉買いに行こ!」  無邪気な体温と手を繋ぎながらハウスキーパーに連絡を入れた。   ほとんど少年に払わせてしまい、ナオマサはチャンダナを働かせないように準備や肉焼きに回った。炭酸飲料で乾杯し、焼けた肉から取り分けていく。デザートに買っていたファミリーボックスのバニラアイスクリームを、スーパーマーケットで約束したとおりカフェのようにトッピングして出すと少年は喜んだ。肉を食らっている時の話では、浄財喜捨(パージ)したくなる日があるのだという。主に善意に従って寄付や他者に施すことで罪悪感から解放されたり、金銭欲を抑圧するための行いだった。最も簡易的な儀礼で、浄財喜捨(パージ)を促すために落飾聖者が椀を持って街中を練り歩いていることもある。あくまでも俗世間に生きている者たちへの試練とされているが、その実、財産家の多いこの地域ではまた別の仄暗い欲望の萌動が窺えた。チャンダナは放浪穢多の身でありながら一等地のタワーマンションで、その下層といえども豪邸といえる一室に住み、浄財喜捨(パージ)の意思もあるほど豊かな生活をしているらしかった。互いに仕事の話はしない。この地の気風をよく心得ている。彼は一口にいって無防備なほど明け透けな性格をしているようだが、その背景は謎に包まれている。 「ほへ~、美味しかっタぁ。やっぱ誰かとご飯食べるのっテ、いいナ」  バニラアイスを綺麗に食べ終えた少年は満面の笑みを浮かべた。今度は(うち)に。しかし声になる前に消えた。あの家は自宅であって自宅ではない。彼等の意識を知りたくない。或いは気を遣うだろう。その前に気付くかどうかも分からない。ナオマサの中でこの少年が放浪穢多であることは特記事項であり、カナンに報告しないわけにはいかなかった。彼女の中にも放浪穢多に対する差別意識はある。彼に人としての好感を抱いてはいる。だがカナンには近付けられない。カナンの彼に向ける眼差しがナオマサの知るものでなかったとき、カナンを侮辱するようで彼女は重苦しくなるのだった。不必要な(しがらみ)だった。少年は目の前で無邪気に笑っている。放浪穢多は穢れと病を運んでいる。面と向かって話していると先入観が薄れてしまう。そしてまたどこかで意地悪く現れるのだ。 「片付ける」  ホットプレートの部品を外し、皿を重ねる。 「おでも手伝うヨ」 「ご馳走してもらった。休んでいてくれ」 「うーん、邪魔になっちゃうかナ?」 「終わったら色々と話そう」  話すことは特になかった。日常的に使っている形跡のない水場で食器を洗っていく。高額賃貸マンションとなるとキッチンの素材から違うのかも知れない。ファミリーボックスのバニラアイスクリームの匂いが鼻にこびりついている。少年はソファーからナオマサのほう見ていた。浮かれている子供のようだった。 ◇  いつもの流れを汲むならばラグジュアリーホテルに泊まっているはずの夫倅はすでに自宅へ帰っていた。リビングからはテレビの音がする。ハムスターと戯れる主人の姿がソファーにあった。 「ただいま帰りました。遅くなって申し訳ございません」 「お帰りなさい、イノイ。飯店BBQの匂いがしますよ。外で食べてきたんですか」 「はい。友人と」  アカミネの姿がない。世帯主を探す彼女の挙動にカナンはすぐに気が付いた。 「あの人は帰ってきませんよ、きっと」 「え…」 「ホテルに誘われたのですが、ポプちゃんのことが心配で……少し言い争いになってしまって」  ハウスキーパーさんに任せるのも悪いですし。カナンは自嘲気味に笑った。 「あの人のことなんていいんです。イノイ、お友達ができたんですね。遠慮なんてしないで、お家に呼んだらどうですか。ここはお前のお家でもあるんですからね」  自分のことのようにカナンは喜んだ。しかしまだ自身の夫のことが気掛かりなのは一目で分かる。 「はい。機会があれば」  ない。あの少年はここに連れて来られないだろう。厄介な繋がりを持ってしまったと思った。刷り込まれた偏見と社会的通念は簡単に拭い切れない。カナンを巻き込みたくない。 「楽しみにしているよ。お前の友達だもの。お肉、美味しかった?」 「はい」 「よかった。ポプちゃんも、早くお姉ちゃんのお友達に会いたいね?」  黒胡麻(セサミ)ほどの濡れた目がナオマサを見上げる。ピンク色の口が半開きになっている。 「ごめんなさいね。せっかく楽しく帰ってきたところを、こんなことになっちゃって」 「いいえ。そろそろお休みになってください」  ポプリを彼から奪い取りケージに戻す。2人を引き裂くために買ってきたのではなかった。罪の無い、咎を知らないハムスターは巣箱に入っていった。出入り口には大鋸屑(おがくず)の絡まった綿が詰まっている。 「うん。ありがとう。お風呂入って、すぐ寝るよ」  カナンは平静を装っていた。浴室に入っていく姿を見送り玄関扉に掛けてしまったチェーンロックを外した。

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