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第15話

 ナオマサは残りのことをすべて闇医者と人権団体、そして看護師に丸投げしてカナンのもとに帰った。放浪穢多の手術は闇医者でも勝手にはできないらしい。あとは自然治癒するか、そのまま斃死(へいし)するかだ。闇医者はその怪我人をペット登録なり奴隷登録なりして結婚や新たな所有の手続きを取るように言ったが、看護師は返事をしなかった。ナオマサにできることは何ひとつとしてない。怪我人が痛みに呻きながら金色の目を開けたのを見てナオマサは生臭くカビ臭い下水道を引き返した。  玄関ドアを開ける前に服の汚れを払い、乱れた髪に手櫛を入れる。帰ると一報入れたが返信はなかった。インターホンを鳴らす。チェーンは付いていなかった。ロックを外す音もなかった。ドアが開き、カナンが飛び付いてきた。挨拶も詫びも言える状態ではなかった。掴まれる感じは数時間前の諍いとはまったく感触が違う。 「ポプちゃんが居なくなってしまいました」  薄い背中に躊躇いながら手を添えた。穢い子供に、彼の裏切りの一端を担っている子供に触れた手だ。さらに加担した手だ。繊細な硝子細工を不躾に触っている。 「あの人に逆らっちゃいけなかったんだ…ぼくが間違っていたんです。ぼくが、今まであの人に好かれようとして、媚びたから……ぼくがあの人の顔色ばっかり窺ってたから、怒ったんだ……ポプちゃんは何も悪くないのに…」 「旦那様は何も悪くありません」 「あの人に、浮気してるって責めちゃったんです。責めちゃって、ぼく、証拠もないのに、ぼく……」  カナンは4つに折り畳まれた紙を見せた。「貴殿のご主人は浮気をしています」と印字された紙だった。一般的によくみる規格のコピー用紙にたった一文だけあった。探偵事務所の住所や、あるいはそれを示す暗号的な押印もない。 「こんな悪戯みたいなものを、ぼくはまんまと信じて、あの人を怒らせたんです…!」 「これはどちらで手に入れたんです」  彼は凍えるように震えながら頭を振った。 「買い物から帰ってきたらいつの間にかポケットの中に入ってて。人違いだと思ってたんですけど、ぼく、やっぱり人違いじゃないなって思ったんです。だってぼく、本当に、あの人は浮気してると思ったから…」  心当たりは2つある。浮気相手本人か、この憐れな夫の父親だ。生殺しになっている彼を断じてしまうか否か迷った。 「あの人と浮気をしている方はきっとぼくを嗤っているんです。愚鈍な夫だって……出て行くのはぼくじゃなくてあの人なんそうです。浮気相手と暮らすつもりなんだ……きっと…」  彼はふと顔を上げた。目が合った瞬間にまだ保てていたカナンの泣きそうな表情がくしゃりと大きく歪む。みるみる澄んだ目に水膜が浮かび、溢れるのも早かった。 「ごめんなさい、イノイ……海の近くで住むのは、ダメそうです。ごめんなさい…」 『―そうしたら、肉より魚中心の生活ですよ。ぼく、新鮮な鮮魚スライス食べてみたかったんです』 『毎朝、砂浜まで散歩しましょうよ』 「旦那様が謝ることではありません。わたしは旦那様と一緒ならどこでもお供します。海の近くでも、砂漠の近くでもご一緒します」 「ごめんね…」  優しい兄のような存在をナオマサは強く抱き締めた。海の近くの町に住むこと以外に自分に付いてくるメリットはないとでも考えている。この家の世帯主が彼を辱めている。 「中に入りましょう。何か召し上がりましたか」  寝間着姿の冷えた身体をナオマサは摩り、室内に促した。シャワーを浴びて着替える隙もない。放っておいたら何をするか分からない。リビングまで付き添いソファーに座らせる。テレビを点けた。安いドラマが人気の通販番組がやっている。ハムスターはケージごと無くなっていた。湯を沸かし、パンをトースターに入れると生卵を油の引かれたフライパンの上で割った。シンクにはコーヒーカップが置かれていた。カナンは徐ろにナオマサの隣に立つ。 「ごめんなさい。自分のことばかりで。帰ってきたばかりで疲れたでしょう」 「いいえ。能天気に寝ていました」 「少し汚れています。あと一品、何か作りますから、どうぞシャワーを浴びてください」  逡巡した。1人にしていいものか。ナオマサはカナンを見つめる。落ち着きを取り戻している感じはあった。 「すぐに出ます」 「はい。タマネギがあるのでチーズ焼きにします」  浴室に入り服を脱ぐと痣がいくつかあった。殴られたところと掴まれた場所だ。社会的には女として扱われた。体格、力量に個人差はあれど学識的な性差によってナオマサは力仕事に於いて気を回されたことがあり、重厚な扉の開閉も私的な面では気を遣われることがあった。そういう生活に慣れていた。世帯主の中での認識も彼女は察していた。しかしカナンの存在によってあの男もナオマサを一応の社会的で普遍的な多くは力仕事の向かない女として扱っていた。しかし看護師の殴打も力加減も容赦がなかった。ナオマサ自身も加減をしていなかった。カナンの気に入っている肩が出る服は少しの間着られそうにない。身体を洗い、髪を洗う。無心で湯に打たれている時間はなかった。肌を(すす)いで雑に髪を拭くとバスタオル一枚だけ巻いてすぐさまリビングに戻った。カナンはキッチンテーブルセットで待っていた。レースカーテンが少し踊り、彼の顔は逆光している。チーズの焼ける匂いがした。食卓にココアとミニトマトの添えられたエッグトースト、オニオンのチーズ焼きチップスが並ぶ。ナオマサは着替えて彼の対面に座る。2人で摂る少し遅めの朝食は珍しくなかったが普段とは異質な感じがした。 「あの人と離れて暮らすとなったら、なんだか急に、ホッとしている自分もいるんです」  ナオマサはバジルの散らされたエッグトーストを齧った。風情のある音が鳴った。よく焼けたベーコンが挟まっている。 「疲れが麻痺していたのではありませんか」 「そうかも………知れません。あの人が居ないなら夜が恐ろしくなるなんてことはありませんから。だってぼくが間違ったわけではないし、あの人もぼくを拒んでいるわけじゃないって、明確に分かるから……でもきっとそんな時も、あの人は浮気相手といたんですよね」  カナンは卑屈に笑った。 「気付かなかったなんて能天気だなぁ、ぼく。あの人はリアリストだから、ぼくのこんなおめでたさがきっと嫌になっちゃったんだろうなぁ!」  カナンのトーストに乗る卵の黄身は裏返され見目は良くなかったが中まで焼けていた。彼は半熟卵が苦手で、あの男は半熟卵が好き。 「こんなバカみたいな話、もう懲り懲りです。イノイも誰か好い人を見つけた時に、参考にするといいですよ。こんなダメな例があるんだって……そうでもしてくれなきゃ、もう、バカバカしくてやりきれません」  痛々しく健気な笑みはまだ続いている。その卑下に満ちた表情を剥がすことができない。ナオマサはミニトマトを口に咥え、歯を立てた。甘酸っぱさが爆ぜる。カナンはもう食べ終わっている。互いに合わせるためこの二夫はナオマサからみて食べるのが遅い。そしてこの二夫よりも彼女のほうが食べるのに時間がかかった。  食後に掃除機をかけているカナンのスマートフォンが鳴った。返している内容からいってアカミネではないようだった。支払用紙や契約書諸々が保管されているレタースタンドを片手で漁っている。「明日なら空いています」とカナンは言った。それから少しして電話が切れた。彼はソファーに座っているナオマサを見た。 「保険屋さんです」  目が合い、カナンは静止する。この二夫は電話の相手を互いに逐一報告するのだ。掃除機の電源を入れる手がぎこちない。しかし彼は愛想笑いを浮かべてまた掃除機をかける。 「明日、保険屋さんが来ます」 「はい。ではその時間は外に出ています」 「ごめんね。すぐ終わらせるから。天気が悪かったら居ればいいんだし」 「はい」  天気予報では暫く晴れが続く。誰かと話すのがいい。家庭の外の人間と。たとえ営業の相手でも。ナオマサは鬱屈に()されているカナンの姿を目で追った。  チャンダナが脱走したと電話が掛かってきたのは深夜だった。知らない電話番号が表示されている。2度あったいずれかの調書を取ったときに電話番号を丸暗記されていたらしい。眠っているとはいえ気鬱げだったカナンを残しておけない。玄関に向いた爪先がリビングに戻る。この家庭に限らずどこの家庭も多くは寝静まっている時間帯だ。看護師はチャンダナを探すのを手伝うよう迫った。ナオマサはその後のことを訊ねた。帰る場所に帰ったのかも知れない。アカミネのもとに。忌々しくもそこに治療を求めに行った場合もある。しかし明確に否定された。「あの男は、栴檀を治そうなんて微塵も思わない」と彼は語気を強めた。「会いに行ったんじゃないでしょうね」とナオマサも興奮気味に訊ねた。「会いに行ったさ。頼んでも、あの男に栴檀を助けようなんて考えはまったくない」と怒気を含んで彼は答えた。 <だから―…>  看護師は指導のもと自分が手術すると言い出した。あの闇病院には、医療用機材に詳しくなくてもフィクションでよく見るような機材がある程度揃っていた。どれも新しく、国の認可が降りていない場所で医師免許を持たず医業を開いているらしい違法性だけでなく、何か裏の支援者の繋がりまで感じられた。経歴に泥を塗るだけでは済まない行為に及ぼうとしている。復職はできないだろう。軍役経由の看護師と持て囃された分だけ社会的な落胆は大きいはずだ。 「ご自分の立場はどうするんです」 <栴檀がどうにかなってから考える> 「後先を、」 <栴檀が居ないなら俺に今後なんざない>  電話が切れた。19歳の看護師は世間的にいうと若過ぎた。最短で軍立看護学校を卒業する頃には21歳だ。世代的にいってもまだ若い。飛び級でもしていない限り大学(カレッジ)か、義務教育(スクール)卒業後に働いているかだ。あの男は消炭のような恋慕に振り回されている。聡明なのか無謀なのかも分からない。切れてから十数秒経ったスマートフォンの画面をナオマサも切った。カナンのいる部屋の白木の扉を軽くノックした。寝ているはずだ。起こすつもりのないほど小さな音だった。寝ているとしても憂鬱に嵌まっっている彼を1人にしていいものか、否か。独りにさせられない。把手を捻れば簡単に開くと分かっていても固く閉ざされている。あの看護師のように何もかもかなぐり捨て誰かに大きくのめり込める情熱はなく、かといってこの家の世帯主のように冷淡でもいられない。様子を窺いながらドアを開けた。デスクのスタンドライトが点いたままだった。ナオマサは足音を殺してベッドに近付いた。片側は凹んでいる。寝息が聞こえた。枕元に本が落ちていた。読みながら寝てしまったのかも知れない。少し捲れた布団を肩まで持ち上げる。枕に置かれた腕が裏返された。その瞬間にふと赤い線が見えた。他意はなかった。腕に付いた糸くずを取ろうとした。無意識に近かった。内側の柔らかな皮膚が浅く切られている。手首の関節部分が。ナオマサは目を見開いた。傷自体は大したものではなかった。血も止まっている。縫合も必要なく、軟膏を塗るのすらも却って痕が残ってしまいそうなほどの軽いものだった。まだ野良猫の引っ掻き傷のほうが心配すべきものだった。ただそこにその傷が走る経緯にナオマサは狼狽する。動揺は拭い去れなかったがスタンドライトを消すまでのことはこなした。 「イノイ…」  暗くなった部屋に響いた声に寝ていた様子はなかった。 「ちょっとだけ、試しただけなんです。痛いだけだったから心配しないで」 「旦那様」  長い指に髪を撫でられる。 「もうしないから…もうしない。ごめんなさい、イノイの気持ちも考えないで」 「いいえ。旦那様を抑圧するつもりはございません。旦那様の気が晴れるのなら何も言いません。旦那様が苦しいのなら、わたしのことは顧みないでください」  それでいてナオマサは彼を独りにさせられないでいた。まだ他者を気遣おうとする薄い手を取り、今度は彼等と比べると小さく丸みのある手で兄代わりに触れる。彼は妹分に抱き付いた。洗剤と彼の柔らかな匂いに包まれる。 「……つらくて。きっと別れを切り出されたってぼくはしがみついたのに、別れを切り出してくれなかったあの人を恨む自分が、嫌で、あの人が可哀想になっちゃって……」  取っ組み合いの喧嘩をした男よりも筋張った身体にナオマサも腕を回す。あの男は痩身に見えたが布の下に筋肉がある。軍警の乱入がなければおそらく負けていた。 「大旦那様は少しも哀れではありません。旦那様の思い過ごしです。大旦那様を哀れむだけ旦那様が疲弊します。今大旦那様を恨むことは悪いことではありません」  背骨が掌に当たる。夕食は食べていたが量は少なく感じられた。豪勢だと思っていた献立を彼は手抜きだと言って詫びる。骨と皮だけになってしまいそうだ。 「イノイ……」  弱った義兄の傍から離れられない。誰がどこから脱走したのか、もう忘れてしまった。背を摩る。 「一緒に寝よう。ひとりじゃ広過ぎて寒いんです」  カナンは横に移った。片夫が寝ていた場所だ。ナオマサは驚いて動けなかった。温もりと香りを帯びた風が漂う。濃い影を落とす布団の中から腕が伸びる。パーティー中のダンスに誘う紳士を思わせる手付きと長くしなやかな指はいつ見ても美しかった。彼女は応じた。躊躇いはあったが、足から布団の中に潜り込ませた。カナンの体温が残っている。二夫の匂いが染み付いている。強烈な気恥ずかしさに身体が強張った。 「イノイと寝るの、懐かしいね」  2人で寝ることは多々ある。ソファーでならばたびたびある。小さい頃は闇夜に棲まう怪物を怖がりカナンは1人で寝られなかった。恥ずかしがることはなかった。しかし彼の匂いは質を変えた。 「イノイは、ぼくにだけ優しいのかな」  布団に入ってもカナンの手はナオマサを掴んで、近くに来るよう引っ張った。まだ混乱している中で返答に困る質問を投げられ彼女は口も開けなかった。 「ダメだよ。好い人が見つかっても、そんな優しくしちゃ」  彼の次の「好い人」が女性だったら、自分と同じように接してはいけないとナオマサは返せなかった。カナンは女性と付き合ったことがない。かといって男性としか付き合わないのではなく、アカミネとだけ付き合ったことがあるのだ。アカミネにだけそうなのか、男性が好きなのか、そのことについてはナオマサは知らなかった。しかし時折街中やテレビで目にする女性の美しさや魅力に惹かれているらしき会話や視線は何度か目にしている。 「イノイ、許してね。やっぱりまだ好きだなって思っちゃうんです。昔とは逆で、今度はぼくの片想いになっちゃいましたけど……やっぱりこの家にいると、どこもかしこもあの人の匂いがするのがいけないのかも知れませんね」 「白黒付けなくて構いません。感情に白黒付けようとするのは疲れます」 「間を彷徨(さまよ)ってるのも疲れちゃうのに、なんだか……なんだか、ままなりませんね」  彼は妹分の腕にしがみ付いて静かになった。夫の腕とは太さも長さも硬さも違う。営みのない二夫は毎晩このようにして寝ているのか。暗い部屋、二夫の匂い、片腕に絡む体温、様々な想像が働いた。匂いが部外者の肌にも染み付いた頃に胸ポケットのスマートフォンが震えた。メッセージ機能に特化したアプリケーションを通さず、機種とメーカーそして適合する型番が揃った時にのみ使える電話番号から送信されたメールの振動だった。送信主も内容も見当がついた。片手でメールを開いた。二夫の部屋に小さな明かりが灯る。当たっている。想い人を探して欲しいと乞うている。 「恋人ですか」  眠気に呑まれたまま腕に額を預けるカナンが呟くような声で訊ねた。時間帯を考えれば恋人と思われてしまうのが彼等にとって自然だった。番組によれば夜更けの通話は若い子を持つ親たちの悩みの種でもあるらしい。 「違います」  恋人のはずがない。共通の知人を巡って凶暴なほどの取っ組み合いをしたばかりだ。互いに毛を毟り合い、痣を作った。顔面しか取り柄のない偏執狂の顔を殴り付け、その彼はナオマサの顔にはひとつとして痣も傷も作らなかった。彼の眠気を守ろうと努めて小声で否定した。腕の心地よい体温が離れてしまう。 「大丈夫ですよ。もう眠れそうですから。電話でも、お出掛けでもして。事件事故に気を付けるんですよ」  カナンはもうナオマサがこの部屋から出て行くことを決めてかかっていた。傍に居る、一緒に寝るのだという主張は着信に消される。カナンは苦笑した。 「ぼくのことなら大丈夫です。もうイノイも子供じゃないんですもんね。ほら、出てあげないと。こういうのは長いこと尾を引くんですよ」  彼は悪戯っぽく言ってナオマサの背を押した。どっちつかずなまま彼女は着替えて外に出た。闇病院の場所は曖昧だった。周辺を探すにもナオマサはマンホールから出てきたのであって、あの闇病院がどこに位置するのかは通った道順から推測するしかない。マップのアプリケーションをもとに場所を調べた。繁華街から2本離れた裏通りから別れる細道のボードゲーム知育教室の雑居ビルの可能性が高い。見るからに重傷なあの少年が繁華街を通るとは思えなかった。すると残るのは商業地区の真裏にある道か、このヒルズに繋がるが一度隣の市に食い込むカーブした道だ。場所を絞ると現場に向かう。  閑静な住宅地は呼ばない限りタクシーはほぼ走っていない。このハイグレードアパートメントと提携しているタクシーも時間外だった。看護師に電話する。2コールで繋がった。電波状況や通話相手の確認もせず、開口一番にまだ見つからないと言った。ただ電話が鳴ったために反射的に出た、というような無機質な感じがあった。どこを探しているのか訊くとナオマサの目星を付けた場所とは反対の方角だと彼は答えた。 「ではその東側を探します」 <頼む> 「何かあればまた連絡します」  適当な返事が聞こえ、間もなく通話が切れる。両手首両足首さえ見られなければあの少年が放浪穢多だと知られることはない。しかし知られたなら、負傷者だと気遣う人間がどれほどいるのだろう。繁華街ならばこの時間でも人通りがある。彼の身分を知れば石が飛び交うだろう。この地は放浪穢多を加害することに躊躇がない。まだ飽きもせず煌めいている繁華街を駆け抜ける。少年を探した。胸部と腹部の負傷で彼はおそらく真っ直ぐには歩けないだろう。ビルとビルの狭間、雑居ビルのゴミ捨て場を見て回った。2人であの小さな存在をすぐに探し出せるはずがなかった。朝を迎えてしまうかも知れない。脹脛が攣りはじめている。まだ夜は続きそうだった。目元を擦り、次の道を探す。彼の自宅方面へ歩いた。アスファルトは踵と腿を苛む。歩幅が狭まった。前方を人影が横切った。目の前にやって来る。まず目に入ったのが17歳の子供だった。ナオマサの体格や体型、性差を加味しても50kg以上はあると推察される子供の身体を軽々と抱き上げている。その腹には小さな花束が置かれている。 「あなたが、見つけてくださったんですか」  虚ろな目がナオマサに焦点を合わせた。カヤハラだ。返事はない。ナオマサに歩み寄り、少年を押し付けた。カヤハラは顔色ひとつ変えなかったが、ナオマサにとっては自分よりもおそらく重さのあるものを渡され、腕では受け止めきれなかった。 「すみません。背負わせてください」  生々しさのないハウスキーパーはナオマサの来た道を行こうとしていたが彼女の要求に応えた。 「どこに居たんですか。ずっと探していて……いや、それよりも、お知り合いだった……?」  漂白されたような眉がわずかに動いた。悲嘆を隠すような切羽詰まった色を彼女はそこに見出した。 「ラベンダー………」  少年の手にする小さな花束に組まれている紫色の花をカヤハラはぼそりと口にした。眉間に皺を刻んでいた不動の眉が弛緩する。普段は無感度な目から涙が落ちた。 「ホワイトソースは焦げやすいから……」  声は見た目よりも高かった。言葉の意味よりも彼が喋ったことにナオマサは驚いた。そして彼女を一瞥してカヤハラは行ってしまう。頬に涙が流れていくの目で追ってしまう。呼び止めることはできなかった。背中の体温を慎重に直し、弱々しい息遣いに気を取られながら闇病院を目指した。

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