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第14話

◇  カヤハラは食器を洗うと休憩もせずに帰っていった。シャワーを浴び、濡れた髪も乾かさず広いベッドに身を沈める。香水とは違う、あの子供の肌に染み付いた匂いを鼻が拾う。そろそろ死んだだろうか。まだ痛みの中で生きているのだろうか。どうせ生き延びて、主民だけでなく一個人の英傑になった雄犬と祝福すべき展末に改変された童話よろしく幸せにめでたく暮らすのだろう。シーツを殴った。繊維を湿らせるだけ湿らせて飛び起きる。上等なベッドは大した軋みもなかった。気紛れに、目に入った電子ピアノを弾いた。交響楽団でもいいから入らないか、と義務教育(スクール)時代の教官は言った。昔、ピアノを習っていた。ピアニストになったら食堂で弾くのだと言って、母親はグランドピアノのための資金を貯めると言っていた。鈍った指は開き切らず、ひとつ音を外すと、両手で鍵盤を殴り付けた。煙草を吸いにベランダに出る。玄関からあの子供が帰って来るような気がした。逃避の時間は煙と化して消えていく。空になった箱を握り潰す。まるきり夫のことは浮かばなかった。他人事のように眠れない夜に星空を一緒に見たことや、翌日の旅行の予定を練ったことを思い出す程度だった。 「どうするか…」  独言(ひとりご)ちていた。それを自身で聞いて、稀な現象に彼は気恥ずかしくなった。とにかく広過ぎる部屋がいけなかった。外出用の服に着替えて歓楽街に出る。水揚げされたばかりの床夫を見て廻る。美醜は問わなかった。生まれも育ちもこだわりはない。痩せ型で、それでもある程度の筋肉が付き、あまり若過ぎるのはいけない。頭が悪いのは論外だ。該当する者は何人かいた。しかし何かがぴたりと嵌らず、買わずに終わった。ネオンと甘たるい空気に炙られ、オーブンレンジの中に放られた心地になりながらただ時間が潰れていくだけだった。ついでに事務所に寄った。直接ではない部下たちが道を作り、肩幅に開いた膝へ手を当て頭を下げる。甥弟子一人ひとりに労いの言葉をかけた。顔を見せようとしていた媼親仁(おうなおやじ)は空けていた。結局何の用も果たせずにマンションに帰り、酒缶と煙草を買うのに数倍の時間を要した。人工知能よりいくらか生々しさのある陰茎を生やした女も目の前にいなかった。砂漠鼠が齧っている給水器と乾杯し、独りで缶を空けた。酒肴はテーブルに投げ出されたヒト用ではない日輪草の種があるだけだった。インターホンなり認証音なり、蝶番が鳴るなりしてあの子供が帰って来る瞬間を待っている。しかし帰ってこなかった。無事退院し、雄犬と挙式の予定を立てているのだ。聖寺院堂式か祭霊社式でやるか、あるいは両方でやるのかと。日取を決めているのだ。どちらかの誕生日か、あるいはかなり個人的な月記念日にするのか。予算を決めているのだ。軍役経由で看護師になったのなら何かと費用を割り引かれる。浮いた予算で三次会を取り付けるか、あるいは披露宴を奮発するか。退院したその足で指輪を決めにいっているのだ。流行りブランドの遊び心のある前衛的な形状の指輪か、あるいは歴史あるジュエリーショップのシンプルな指輪か。ソファーに寝転び座面を作る化学繊維で爪を研ぐ。街中であの子供が雄犬と並んで幸せいっぱいに歩くのだ。怒りに変わった。雄犬はあの子供を眺め、あの子供は雄犬を見るのだ。寒い日は身長差も気にせずにマフラーを共有するのだ。締め殺してやる。アカミネは音が出るほどソファーの繊維を掻いた。手を繋いでどちらかのポケットで温めるのだ。枝切りバサミを持って追いかけ回してやる。2本のストローを挿して流行りのチーズティーやバナナスムージーをひとつ飲むのだ。両側から挟んでストローが後頭部を貫通してしまえばいい。ぶち殺してやる。殺してやる。コンクリート詰めにして大湖に沈めてやる。野良犬の馳走にしてやる。(つくね)ボールにして食らってやる。生ハムにして奴等の親族の歳暮ギフトにしてやる。アカミネは爪を研ぎ続けた。滑車が回っていた。繊維は熱を生む。切らずに磨いていた爪が傷んでいく。式場にミサイルを撃ち込んでもいい。激しい怒りに身を焦がす。滑車が回る。端末が震えた。エントランスの受付の女からだった。怒鳴り付けるように出た。「幸群様のお連れ様」から電話が来ているらしかった。慌てて部屋を飛び出した。エレベーターも待たず階段で駆け降りる。結婚するのだと言われるのだ。ぶち殺してやる。雄犬と暮らすと言われるのだ。住処を黒焦げにしてやる。指輪を買いに行くと言われるのだ。嵌める指が無いようにすべて断ち切ってやる。受付嬢の持つ受話器を引っ手繰った。しかしまったく知らない、しかも女性の声だった。アカミネはまた怒声を上げ、受話器を放り投げる。相手が所有者であっても警備員はしっかりと機能した。しかし丁重に両側から押さえ込まれる。受付嬢は慌てた様子だったが激憤している彼に電話の内容を伝えた。公衆電話からで、もう硬貨が無かったからしい。用件は病院名と病室だけだった。図々しくも見舞いの花の要求までしていた。激しい怒りの中で運転代行を呼ぶ。大急ぎで花を買い、聖門フェンネル市民病院に飛ぶように向かった。この地の常識として考えても面会時間はとうに過ぎている。運転代行はすでに帰っていた。アカミネはゾンビの如く少しの間、周囲をのそりのそりと歩いた。公園に入り、目の前には黒々とした川が横切っていた。のそり、のそり、爪先を引き摺るように歩いていた足が止まった。彼は花束を叩き付け、何度も踏み付けた。今までの復讐に違いなかった。馬鹿にされたに違いない。今頃、雄犬とよろしくやりながら鼻で嗤っているのだ。ゴールドのリボンが痛々しく解け、翻り、潰れている。駅前の夜遅くまでやっている小難しいところのない洒落た花屋で買ったものだった。店員の心持ちが若く、実際若くなくとも時流をよく分かっている瑞々しい感性を持っていた。包装紙だけでなくリボンの色まで選んだ自分が馬鹿バカしくなった。猛烈な羞恥に襲われ、それを消すように無抵抗の花を踏みに踏んだ。汚らしい歪な押花が出来上がる。抱き潰されシーツの上で動けなくなっているあの少年を連想させた。荒げた息を整える。今頃は雄犬とシーツの中で退院祝いをしているのだ。買ったばかりの結婚指輪を重ねながら下肢をぶつけ合っているのだ。殺してやる、殺してやる。  その後のことは覚えていなかった。重い息苦しさの中で目が覚めた。ベンチの上で、外は明るく、首が温かい。小刻みな振動があった。毛並みの良くない猫が乗っている。身動(みじろ)いだアカミネの上で均衡を保ち喉を鳴らしている。手慰みに猫を撫でた。痩せている。悲惨な花束を認め徐々に夜のことを思い出す。幸い病院名と病室番号はアルコールと共に分解されることなく彼の中に残っていた。暫く猫を撫でてから近くの自販機でコーヒーを買い、病院を眺めた。乾いて見えた。喉は焼けている。川は穏やかに流れ、白い空には斑らな雲が浮かんでいた。帰ろうとしてどこに帰るのか分からなくなってしまった。誰かを一瞬脳裏に描きかけて、別のことに気を取られてからまた誰のことを考えたのか思い出した。しかし別居を告げた夫だったのか、穏やかな時間を過ごしたハウスキーパーだったのか、脱走した子供だったのか自分でも判断がつかなった。そして物思いに耽り、特定の曜日に撥玉(ぱちだま)遊技店前に朝から並ぶ者どもよろしくアカミネは開院前の病院の敷地に居座った。病室側から許されている面会時間までまだ余裕があった。会社に一報入れるにも随分と早い。花壇に腰掛け広い駐車場を見渡した。入院している少年に制服を着た雄犬が付くのだろう。院内挙式なんてものもドキュメンタリー番組で観たことがあった。しかしあの子供は怪我であって院内で挙式をする必要はない。祝儀はいくら出すのがいいだろう。孤児同然なのは軍役経由の看護師相手に顔が立たない。せめて持参金は多く持たさなければならないし、それとは別に婿入り道具を持たせる必要がある。最近は海外旅行券や血統書付きの犬猫、高級腕時計を持たせるのが流行りらしい。一昔前までは冠婚葬祭用の礼服各々一式や高級車だった。とはいえ、今昔と語れるほどに歳は離れていないつもりだった。この地の若者は年々、吝嗇(りんしょく)家になり倹約家になり冷笑的になっている。アカミネは途中で頭が痛くなってきた。グランドピアノを贈るのがいい。どうもあの世間知らずで世間から疎外された子供には()の悪い結婚だった。せめて土地とマイホームの主導権は獲っておかねばなるまい。でなければ相手の気が変わり次第、一生言われ続ける。放浪穢多の婿が名家に後ろ足で砂をかけると。敢えて貧しいことを結婚相手の条件にする者もいるくらいだ。すべては社会の中で擦り減っていく自尊心のために。だがアカミネには軍役経由の病院勤めに何を恐れるものがあるのか見当もつかなかった。あれでもない、これでもないと慌ただしく自身の結婚式を思い出しながら日が昇るのを待った。そして我に帰り、淫売夫との関係、距離を見つめ直してすべてを却下した。中流家庭の軍役経由の病院勤めと放浪穢多を同等に、肩が並べられるようにするなどは笑止の沙汰だ。噴飯もので、滑稽至極の話だ。周りに知れでもしたら恥晒しだ。膝を叩いて立ち上がった。淫売夫の見舞いなどしている場合ではなかった。会社に行くための支度としてまず運転代行を呼ぶ。色惚けしている淫売夫とは違うのだ。治療しながら婚約相手に構われている淫売夫とは。  置いてきた家庭のことについて、彼は冷酷なほどに無関心だった。思い出しはしたが特に気にすることはなかった。夫はあの家にいて、貯蓄はあり、家電も揃っている。ただ義務感のように長いこと放置していた監視カメラの映像をモニターに映す。夫は急病を起こし倒れたり、重大な怪我をしていなかった。日常がある。サラリーマン風の男がキッチンテーブルに座っていることを除いては。おそらくは保険会社の営業だろう。高を括った直後に、弁護士の可能性が浮上し画面を凝らした。カナンが席を立って客人のカップを持っていく。背中を向けているスーツ姿の男が振り返る。画面越しに目が合った。まだ若い感じがした。音は拾えない。スーツの男はテーブルに残されたカナンの飲んでいるコーヒーマグにスティックシュガーに似た粉末を入れた。アカミネはモニターを両側から掴んだ。画面の中の小さくなったカナンがキッチンテーブルに戻ってきて新しく淹れたコーヒーを差し出した。アカミネは彼に電話を入れる。監視カメラは音声を拾えず、端末がどこにあるのかも分からなかった。客人は家人のほうを向きながら何かを気にするような、促すような仕草をしたが、その家人は首を振った。彼の端末はリビングにはない。付人は何をしているのか。アカミネはナオマサに獄鬼の如く、借金の取り立てよりも(たち)の悪い嫌がらせ同然に電話を掛けた。着信履歴と着信の通知、留守番電話サービスで容量を埋め、バッテリーを切らせるなどというやり方が確かにあり、これはこの地の法律で加害行為と見做される。ナオマサが出るところに出れば、アカミネには訴状が届いてもおかしくなかった。しかしナオマサは出なかった。物件の管理会社にも電話する。しかし管轄外の事柄には対応できないと断られ、警備会社にも問題性が確認できないため同様の返事が来た。株主であろうと親会社の重役であろうと一利用者の前で職務上のマニュアルは冷静だった。アカミネが各社に嫌がらせ行為をしている間にもカナンは謎の粉末が混入したコーヒーを口にしていた。社長室から飛び出そうとしたところを、無感動で無表情な秘書が軍警の拘束と紛う過剰な力で止めた。彼を護衛として然る機関に預けたことがあったが、まさかその技量を己の身を以って知るとは思わなかった。社長であろうと私的な雇主であろうとカヤハラは容赦なくアカミネの腕を可動域の外へ加圧し捻じ伏せる。彼が相手ではアカミネは抵抗しなかった。社長席に戻される。モニターには夫が客人と談笑している様が映っていた。砂漠鼠は応接用の黒光りしたローテーブルで飼い主の窮地も知らずに滑車を回している。カヤハラはソファーに座り、虚ろな目を遠隔操作されたレンズのようにして社長を見張っていた。内線電話を取り早退の連絡を入れた。カヤハラは社長に興味を失ったらしくケージの奥の壁を向く。  「また戻る」  最低限必要なものを持って再び社長席を飛び出した。車は招かれざる自宅に急発進し、駐車場での停め方はまだ教習時代のほうが上手かった。止まっている時間も惜しく階段を駆け上る。 「火喃!」  玄関扉を勢いよく開けた。知らない革靴を蹴飛ばすことも気付かずに下の階に響くような足音を立ててリビングに身投げする。目の前に広がったのはスーツの男が今アカミネが守ろうとしていた夫を庇う姿だった。カナンは信じられないものでも見るかのような眼差しだった。 「その男から離れろ!」  声を荒げた。しかし邪魔をされる。若い男だった。そばかすのある顔に軽率げな表情をしている。 「夫奥(おく)さん、警察を」 「私の主人です」  アカミネはカナンに近寄ろうとした。しかしスーツの男が割って入る。宥めるような態度は飄々として少しも臆したところがない。 「でも何かこう……異常な感じがありますよ。(あたくし)独り身なんで、よく分かりませんけど」 「うちに何しに来た!」 「やめてください!ただの保険屋さんです!何か忘れ物があったんでしょう?」  夫からアカミネのほうにやってきた。彼の口調は怒っていた。アカミネをリビングの外へ押しやり、2人きりになる。 「火喃…」  掛ける言葉が見つからない。何から説明をしていいのか分からなかった。カナンは片夫を睨み上げた。そこには怒気がある。 「彼女は帰ってないのか……2人きり、なのか」  熱の引いた頭は正体不明の粉末をどう説明していいのか尤もらしい理屈を用意できていなかった。『俺以外と2人きりになるな』『セックスドラッグには気を付けろ』『貴方を狙っている連中はたくさんいるんだから』。過去に言った覚えのある台詞はどれも再利用不可だった。 「玄関に、知らない靴があったから、驚いて…」  これは水素爆弾のスイッチに等しかった。反芻する猶予もない。 「ぼくを疑っているんですか」 「ち、違う……ただ、心配で…」 「ぼくに別居させないで君が出て行ったのは、そうやって心配だ心配だってぼくを疑ってかかって、別居なんて本当はさせないためなんじゃないですか……ここに縛り付けておきたいんだ!別居の話を出した途端に君はポプリのことだってどこかにやってしまいましたもんね?」  カナンは激昂した。アカミネの上等なスーツの胸元を拳で叩いた。夫から強い感情を表にされるのは慣れなかった。今までの積もり積もっていたのだ。何も感じ取れなかった。満足しているとさえ思っていた。営みが途絶えても、その不満は形を変えて納得したのだと。荒れた感じのある白いその手に触れようとしたが逃げられる。 「とりあえずあの保険屋のことは今すぐ追い返すんだ。そのほうがいい。俺が追い返すから。詳しい話はそれからする」  脇をすり抜ける腕を掴まれる。 「やめてください!どうしてなんですか。どうして邪魔をするんですか。ぼくが馬鹿で間抜けな夫のほうがいい?1人で契約もできないような世間知らずでいて欲しいんですか。君はぼくに車も要らないし仕事も辞めて欲しいと言いました。そうしたら今、ぼくは足もなくて保証も全部君の名義で君の会社なんです!これ以上ぼくをどうしたいんですか。剥製にでもしたいんですか。それともお掃除ロボットに?」  カナンの力は思っていたよりも強かった。欲熱の止まるところを知らない青い時分は簡単にベッドに押し倒されていた。瓶詰めの蓋が空かないと言って頼られた。アカミネひとりを容易に押さえ、リビングとは反対、玄関側に放り出せる程度に彼は強かった。 「この家は君が世帯主で君の名義で君の家賃で君の光熱費なんだ。君がここに帰ってくればいい。ぼくはイノイと出て行きます」  よろめいたアカミネに彼は冷たく吐き捨てた。保険屋という若い男が覗き込む。 「あ~、大丈夫です?その……まぁ、二夫喧嘩は犬も食いませんから!ヤシガニとかラーテルなら食べると思いますけどね。なんたってあいつら、とんだゲテモノ食いですから!たはははは………」  まだアカミネからすると小僧っ子といえた保険屋の若い男は2人の冷めた反応に媚びた笑みを浮かべた。 「要するに!どうせ仲直りするんですって。さ、さ、さ、二夫仲に保険制度はありませんよ!でも、人生は何があるか分からない!うちには保険、選り取り見取り!何でも揃ってますよ、そう、何でも!」 「ごめんなさい、すぐに戻りますので」  カナンは流れるような仕草で保険屋をリビングに押し戻すとアカミネに直った。 「明日には出て行きますから、それまでこの場所(いえ)を貸してください。まだあてが見つからないものですから」  それから夫は振り向かなかった。アカミネは立ち尽くす。リビングで話が再開するのが聞こえた。そして靴を履いて、玄関扉を静かに閉めた。日常的だった出てすぐの景観が違って見えた。共有ガーデンの緑や、広々とした道路の向こうに同じく綺麗に整備されたガーデンを隔てて造られたアパートが、今日はいやに冷たい。味方だった。この土地はいつでも。5分もせずに着く駐車場に行くのに倍かかっていた。隣の駐車スペースまで侵している自分の車に乗っても、すぐにキーを挿し込めなかった。後悔も不満もない。栄養不足みたいに頭は真っ白で何も考えられなかった。ただ一度だけ覚えのない寒さに身悶えた。それからエンジンをかける。呑気なネズミを早く返さなければ。「ポプ公」のことはもう忘れただろうか。彼にとってあの毛玉は口実に過ぎず、捌け口で、「ポプ公」である必要はなかったのだろうか。昨晩の酔いが現れたみたいにヘッドレストにすべてを預けた。フロントガラスが遠くなる。見え方は何も変わらない。ふと指が気になって、白く濁り割れている爪を噛んだ。爪は爪床の薄皮まで剥がれ薄らと血が滲んだ。夫のあの目は知っている目だった。もう知っている。証拠など不要だ。残されているのは謝罪か離別だ。決められなかったテーマが眼前まで詰められている。親の仇の血縁者と分かってものうのうと共に暮らしていきたいと思った相手だった。実際、両親がどうなり家がどうなったか忘れていた。埋もれていくことを望んでもいて、彼はそれを許さなくもあった。恨んでいる。逆恨みだ。何ひとつ関係のないカナンを恨んでいる。憎んでいる。共に苦獄の底、尖墓山に突き刺さりながら焦熱の川に堕ちるべきだ。共に獄鬼に手足を()ぎ取られ、血肉を吸われるべき相手だった。異物混入など許さず同じ(つくね)ボールにされるべき相手だ。同じテリーヌで焼かれパテにされるべきなのだ。配偶者なのだから。獄鬼の腹の中でさえ別れることは許されない。灼熱に染まった便器に排泄される時でさえ、離れ離れになることは魂に対する裏切りだ。自尊心の冒涜だ。婚姻届に誓い、市役所に誓い、指輪に誓い、式場に誓い、何より互いに誓ったのだ。これらすべてに対する侮辱で、恥晒しだ。あっという間にアカミネは見向きもしなかった宗教家になった。病熱に似た怒りに取り憑かれた。安穏を選んでいた自身と、そこに癒着しもう離れることはないカナンに対して。  車を出した。彼は前の車を、信号を、横断する歩行者を、ビルとビルの間の空を睥睨(へいげい)していた。会社に戻る頃には人が変わったように落ち着いていた。社長室では「ポプ公」がケージを軋ませて水を飲んでいた。この毛物を挟むようにアカミネはカヤハラの対面に座す。壁を視界に入れていただけの虚ろな目が焦点を持つ。商談が始まるのかと思うほど彼は背筋を伸ばしていたのをふと崩した。 「俺は苦獄に堕ちる。俺は火喃と苦獄に……」  呟くに言ってから、瓦解したみたいに頭を抱えた。 「結婚なんてのは、魂の奴隷契約だな…?どうして父さんと母さんは上手くいっていたんだろう?子供の俺にだけ、そう見えていたのか……」  カヤハラは何も答えなかった。暫く頭を抱えアカミネは蹲っていた。 「結婚なんかするんじゃなかった。もう駄目だ。この世の終わりだ。スクールみたいにこの世間でたまたま一緒になった人のうちから1人選ぼうだなんて考えがそもそもおかしかったんだ。火喃は俺が、苦獄に堕とす。俺はそういう相手を求めていたわけじゃないのに。結婚なんか、するんじゃなかった」  滑車が回る。ポプリは宙を嗅いでいる。

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