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第13話

 養父の怒りは凄まじかった。踏み付けられた頭を撫でながら乱れた髪を指で梳かす。息子の仇敵に(くみ)したことが癇に障ったらしかった。今まで尻穴を掘るよう乞われたことはあれど、手を上げられたことは一度たりともなかった。とはいえ手を上げられはしなかった。放浪穢多のための医者と治療を求め跪拝し、ついでに後頭部を踏まれたのだ。息子の仇同然で、婿に取り憑いた妖魔を治療してくれと言ったのだからナオマサにとってその怒りは理解できた。反論の隙もなかった。国は病んでいる死刑囚を処さないが、人夫を誑かす放浪穢多には死刑囚ほどの価値もないという。帰ってくるなという叫びが耳の奥に木霊し、しかしすぐに別の声が上塗りする。出入り禁止になったという実感はいまいちない。  寒空の中を歩き、人権団体の事務所に向かった。チャンダナはナオマサが携帯している市販の鎮痛剤だけでそこに運ばれた。途中、薬局に寄って吸熱シートや湿布を買い込んだ。離れるまで苦しげに謝る声が張り付いている。養父の怒声を上回ってしまった。追放宣言などすぐに忘れてまた立ち寄ってしまうだろう。買い物袋を受け取って走り出した。冷めた空気が喉を苛む。小さく咳きをして繁華街裏道の雑居ビル2階に駆け込んだ。人気(ひとけ)はまったくといっていいほどなかった。すでに皆、帰宅しているらしかった。オフィスのテーブルの上で毛布に包まれ、チャンダナは寝ていた。傍には看護師がついている。 「揉めたのか」 「順を追って説明します」  看護師は放浪穢多ということ一点のみの理由でこのような事態になっていると思っているようだった。ナオマサは上着を脱ぎ、畳んで少年の枕にする。頭を小さく浮かされた彼の赤く腫れた手が戻っていく腕をやっとのところで摘んだ。 「ゴメンなさい……ごめ……」  ロージャの手が爪を短くされた指をナオマサから剥がし、そこにケーキ屋の保冷剤を掴ませた。買い物袋を渡すと消毒液と絆創膏で処置を始めた。しかしチャンダナは蹲り、両手を抱いてしまった。 「どうした?腹が痛いのか」  ナオマサは数歩離れてそれを見つめ、他人事のように帰れないかも知れないことを家人にメールした。やがて電話に変わり廊下に出た。別居する話をしたのだという。期間は決めていないがそう長くはなく、もう少し海の近い街に住んでみたいという声は気丈だった。しかしナオマサにはそれが意地であることが分かってしまう。そして付いていけないことをこの場ではまだ言えなかった。裏切りに加担している。カナンを裏切っている。今すぐにでも弱りきった怪我人の息の根を止めなければ、一緒に行くとは言えない。ほぼ報告に似た電話だった。すぐにはあの看護師たちの元に戻れなかった。その場で屈み込んでしまう。今からでも遅くない。幸い、今ならば若い男さえどうにかできるのなら捕縛する手間が省ける。あとは適当に絞め殺すなり、首の骨を折るなりして、それだけでカナンに顔向けできるのだ。さらに缶切りがあれば首を刈り取る(すべ)も知っている。缶詰めの蓋でもいい。生活感のある事務所だった。探せばあるだろう。日々の甘さから言って養父も二言三言小言を吐いて許すだろう。横断を急かす青信号みたいに脳裏で少年の顔が点滅している。壁一枚隔てた真後ろの部屋でまだ少年は泣いている。そうするとストーカーじみている看護師も顰め面と鬱屈した態度を捨て去って小火騒ぎの如く焦った。悪夢に魘されたように謝っている。謝られたところで許すも許さないもナオマサは自身にその判断を下す立場があるのか分からずにいた。 「おい。栴檀が呼んでる。返事くらいしてやれ」  ナオマサはよろめきながら膝を伸ばした。まだ彼に説明もしていない。背を丸め腹痛を訴えるように呻いている少年に近寄ったが距離が出来てしまう。根の暗そうな看護師にもう一歩進むよう背を押される。 「ごめん……ゴメンな、ごめんっ、」  ハンドタオルで額に浮かぶ汗を拭く。十爪すべてを短くされ腫れてしまった指が嫌がるように肌の上を滑る布を触ろうとする。吸熱シートも拒んだらしい。 「も……謝るしかできないケド、おで………」 「おい」 「傷付いたのはわたしではない」  背後の事務椅子に座ったロージャークに責付(せつ)かれ、彼女はやっと口を開いた。喉はカナンとの会話で嗄れてはいなかったはずだが、その声は冷めていた。 「許すも許さないも、わたしの決めるところではない」 「事情は呑み込めないが、謝っている人間に対して無責任だ。関係者じゃないって(ツラ)はやめろ」  少年から身を翻しても今度は目の前に威圧的に迫る騎士(ナイト)気取りの医療従事者に捉まるだけだった。ナオマサは後退る。 「やめテ、やめテ、ロージャ、やめてヨぉ……っ」  チャンダナは腹を押さえて起き上がろうとする。目の前にいた美男子はナオマサを押しやってテーブルの上の子供に肝を冷やす。2歳しか変わらないはずだったが年の離れた兄弟のようだった。 「何があった?」  腫れぼったくなった金色の双眸を一度見遣る。話せる様子ではない。半分意識が飛んでいる。 「とりあえずのところはわたしから話します」  頷きを確認した。うっうっと啜り泣きながら、支えようとする逞しい男の腕を突っ撥ねている。思うほど深い仲ではないらしい。ナオマサは適当な事務椅子に腰掛けてから話し始めた。アカミネ・ユキムラのこととその夫のこと、アカミネの夫と自身の関係、チャンダナとの出会いから自宅に招待したこと。そしてアカミネとチャンダナの関係に言及するところで言葉を止めてしまった。 「どうした…?」  ロージャークに俯く顔を覗き込まれる。ナオマサは答えもせずに買い物袋からパック式のクラッシュゼリー飲料を徐ろに取り出してチャンダナの膨れた唇にストロー部を噛ませた。看護師は不可解な表情を浮かべ、飲み易いようにパックを支える。少年の意識は朦朧として吸おうとはしない。光って落ちていく涙だけが活発だった。 「どういう出会いかは知りません。もしかしたら貴方の方が詳しいということもあります。アカミネ・ユキムラと彼の関係は」  若人は呆気にとられていた。2人の視線が荒く息をする怪我人に向かった。 「わたしは彼等が社会的に不適切な関係であることしか知りません。どの程度なのかも」 「おで……おで、………カラダ売ってるノ………隠してテ、ゴメン…、おで、カラダ売って…………おで、ユキムラさ、ハ……」  大型犬を思わせる息切れの音ばかりで、話し手は急いた。 「おで、カラダ、売って、ユキムラさ…、そこノ、お客サマ……」  一気に捲し立て、チャンダナは仰向けになると口から血を流しはじめた。ロージャは肝を潰して頭を横に向ける。 「もうすぐ医者が来るから」  金髪は駄々を捏ねる子供のようだった。目を瞑りながら首を振る。腫れながら(ひび)割れた唇が赤く染まっている。ロージャは肩や背を懸命に撫で摩った。抱っこを嫌がる猫みたいに暴れた。  そして結局やってきた医者は発狂したチャンダナの自己申告によって匙を投げた。日に焼けていない手首足首の肌を見れば放浪穢多である証拠になる。ナオマサは黙って一連のやり取りを見ていた。ロージャークは憤激したりチャンダナのおかしな態度に困惑し悲嘆し、来て数分も経たずに帰った医者よりも忙しげであった。 「どうしてなんだ……なんでなんだ、栴檀…!」  穏和で溌剌としていたはずの少年は咳と共に少しずつ血を吐きながら毛布を抱いて(うずくま)る。 「闇医者を連れてくる。栴檀を頼む」  殴打の力加減でロージャはナオマサの肩を叩いて飛び出していった。19歳の独身男は、板挟みにある女のことなどまったく警戒しなかった。むしろ頼った。 彼女はただ唸っている蛹のようなものを見下ろした。 「火喃さんニ………謝りニ、行く……」  むくりと起き上がった。一瞬、怪我人の演技なのかと思うほど滑らかな動きだった。しかし血反吐を出して倒れた。素人ナオマサの見立てでは骨が折れて内臓に刺さっているか、激しい暴行によって内臓が傷んでいる。謝りにいくどころか歩くことも出来ないだろう。 「あの人は多分、許すと思う。許せるから許すのではなくて、他人を許せない自分が許せないから許すと思う。あくまで今まであの人の傍にいたわたしの推測で、今回ばかりは本心から許さない可能性も否めないけれど…… そういう相手に謝りに行くのをわたしは止めるしかない。あの人が許したい理性と許せない感情で押し潰されそうだから」  彼はさらに小さくなって咽び泣いた。血を吐く音も混じっている。 「謝られたら許そうとする人だから。優しく残酷な人だ。許さない選択はあの人にない。君といる時間は楽しかったが、もうわたしや火喃には関わらないでほしい」  口にしてから、もうこの少年の細い首を刈ることも切り取ることもしない選択を図らずも採ってしまったことに気付く。 「……分かっタ」  あとは事務椅子に座って容態を確認する作業だった。時計が半分ほど回って近くの住宅街に本部を置く過激派人権団体が到着した。抵抗するチャンダナは担架に乗せられ強制的に連れて行かれた。事情を知らない人から見れば誘拐騒ぎになるだろう。事務所に残ったナオマサは散らかしたものや汚したものを片付けた。夜遅くに帰るわけにもいかず、かといってこういう時に使っていた養父のマンションにももう帰れない。近くのコンビニエンスストアで安酒を買いセントラルパークに向かった。様々な事情で寝床に困った人々が軍警駐在所が近く、人気(ひとけ)も光もあり設備の整ったこの地にやって来る。カナンにまたホテルに泊まるなどと嘘を書いて、怪我人に食わせるはずだった栄養ショートブレッドを苦いだけの焼酎ハイボールで流し込むとベンチに横たわった。上着は担架に乗せられたため、寒さに身を縮めた。少し眠ったところで夜間 警邏(けいら)中の軍警に揺り起こされた。まだ意識のはっきりしないうちから身分証明書の提示を求められる。身分証明書を持たない放浪穢多は現地民を頼らずどこの何を頼るのだろう。彼には社会的地位があるだけでなく献身的で見目も悪くない婚約者がいる。酔いの回った頭で彼女は考え、答えが出ないまま帰宅できない理由を述べて職務質問が終わる。絶縁を告げた他者のことよりも、まずは行き場のない自身の心配をする必要があった。しかし悪酔いする安酒はすべてを楽観視させた。帰ってくるなとは言われたがカナンの付人を解任されたわけではない。職はある。今夜帰れないだけで寝る場所はここにある。アカミネの浮気相手とは離別した。カナンのいう海の近い町が楽しみだった。ハムスター1匹と2人で暮らす。昔のように並んで寝られるだろうか。料理も洗濯もできないふりをして、それが夫を立てることだと勘違いしている男のいない生活は、おそらく楽しい。カナンの幸せと両立しない。ナオマサはスリッパで踏まれた頭を抱えた。眠りながら小さく唸って涙を垂らす。 「大丈夫すか?そうすか?」  同じベンチで深夜帯にもかかわらずコンビニエンスストアのサラダチキンスパゲティを食っている男が陽気な口調で声を掛けた。ナオマサはゆっくりと上体を起こした。地毛の金髪に馴染んでいるだけに紺色に紛れた髪が染められたものだと一目で分かった。訊いておきながら自己完結した若い男は自分の返答に適当に頷いた。上部のサラダとローストチキンをだけを先に食い、綺麗に残されたスパゲティを付属品のように口に入れている。ナオマサは知らん顔をしてまた横になった。 「(なおん)さんがこんな時間に青空天井夜の部で1人寝(ソロね)してんのヤバくね?ヤバいっすよ。帰ったほうがいいすよ、マジな話。激ヤバミッドナイトってやつ?」  コーラナッツのエキスが入った炭酸飲料をぐびぐびと飲み、若い男はナオマサを向いた。鏡を見た時に映る顔が茶金髪の奥にあった。彼女は顔を押さえてまた寝転がった。気の狂った認識はなかった。酷い酩酊感にある。目を瞑った。スパゲティが容器にぶつかり、炭酸が爆ぜる音が聞こえる。 「(おい)ちゃん、仕事で来たんだけどこの辺、美味しいものある?コンクリート臭いしコンビニ飯もあんま美味くないね」  寝ている相手がいるにもかかわらず同年代と思われる男はべらべらと喋り始めた。虚空と話している者たちは珍しくなく、最近は傍目からは独り言のように会話が出来る通信機器も普及している。 「コンクリート臭いしコンビニ飯もあんま美味しくないね?」 「話聞いてる?」  再び寝に入るつもりでいたが男はまたべらべらと喋り続けた。 「ドレッシングがかかってないんだと思います」  口を開くのも面倒で呂律の回らないままナオマサは答えた。もう答えないと決意する。 「ナントカ住宅街じゃなくてなんちゃらヒルズって知ってる?これから仕事で行くマンなんだけどさ。あんま土地勘なくて。ド田舎だとどこ見ても同じに見えるね。コンビニ飯もブタ箱のより酷ぇし。ヒトの食べものなのか?ヒトの食べものだね。だってタマネギ入ってるし」  ナオマサはうんざりしてベンチから缶を持って降りた。 「さっきから顔面だけしか取り柄なさそうな兄ちゃんがずっと見てるけど大丈夫?あ、今 即去(そくさ)りした。狸の怪物かな。ヤバげなダニいそう。ド田舎だからね。ヒトの数より多いでしょ。ド田舎だから」  自己紹介のようだった。ナオマサは「顔面だけしか取り柄なさそうな」執拗で献身的な偏執狂の傾向がある若い男を探した。思い当たる節がある。彼はビルの柱の陰にいた。 「飲んだのか」  ロージャはナオマサに近付くと鼻を摘んだ。度数は高いが一缶分しか飲んでいない。消毒用アルコールとそう変わらないだろう。露骨に彼は臭がった。 「はい」 「どうして栴檀に付き添ってやらなかった」 「あんたには真っ当な暮らしがあるから闇医者には関われない?」  彼は鼻を摘んだまま神経質そうな眉を歪めた。上品な美貌の持主には安酒1缶分のアルコール臭さが耐えられないようだった。浮気男とよく似ていた。 「あなたにとって可愛い婚約者でも、わたしにとって彼は恩人の夫の浮気相手です。加害しないとは限りませんよ」 「責めるべき相手は栴檀か。物みたいに扱われて、あれは浮気なんかじゃない。支配だ。あの子だって被害者だろう」  ナオマサは噛み付いた。カナンを知らないこの男は婚約を申し込んだ相手の擁護に回ることしか考えいない。 「火喃に同じことが言えるのか!」  掴み掛かった。転げ回る。酔った頭の中にも、この男には美貌しか取り柄のないことだけははっかり残り、顔は殴らなかった。髪を毟り、耳を引っ張り、腕を齧った。入れ替わり立ち替わり殴り合い、噛み付き、引っ張り合った。敵意が落ち着くと興奮が冷め、別の感情を呼び起こした。 「もう二度と浮気しないように、あなたが彼を繋いでおけばいいんだ!結婚しちまえ!一生捕まってればいい!結婚しろ!彼が浮気して回った奴等全員踏み躙って、浮気じゃない所有されてたんだ許してやってくれ可哀想なやつなんだって、触れて回って、永遠に都合の良い夫にでもなってればいい!墓場みたいな結婚をしろ!病院で今にも死にかけてるときに浮気されてれば、いいんだ!あんたみたいな人は!」  顔立ちの端整ぶりにしか長所のないろくでなしを殴る。カナンを蔑ろにしている。力任せに拳を放つ。酒気を臭がっていた鼻を彼はまた押さえた。指の狭間に血が滲んだ。 「栴檀が好きであんな真似してると思っているのか。俺はあの子となら墓への道を行っても構わない。他の奴等を踏み躙ったってな。あの子にはそれだけの価値がある!あの子は俺以外のすべてを愛してるんだからな!地上の配偶者どもが怒り狂ったって、俺以外のすべてを愛してるあの子を、人身平等すら守れない腑抜けた神は赦す!地上で神以上に人を愛したあの子を赦すしかない。そんなあの子だから、俺が望んであの子の奴隷になるんだ!間違えるな!」  神という胡乱で大それた表現にナオマサは一瞬怯んで、そして彼が聖飾名を持っていることを思い出した。 「あなたは色恋に狂った気違いだ!」 「黙れ!自分の物差しもない木偶人形がほざくな!自分の言葉で言ってみろ」  ふたたび猫同士の喧嘩みたいに悪態と罵倒が飛び交いながら髪を引き毟り合い、抓り合い、掴み合った。 「言った!わたしは彼を加害する!次あの小僧っ子の姿を見たら、親指で捻り潰してやるからな!」 「あんたのはただ恩人、恩人、恩人て、恩人中心に語ってるだけだろうが!火喃さんってのはあんたをアンドロイドか何かだとでも思って暮らしてるのかよ!自分の考えは言えないのか」  街灯ではない強い明かりが2人を照らした。すぐ傍のセントラルパークには警邏(けいら)中の軍警がいる。通報がなくてもすぐに見つかるのは自然の流れだった。ロージャから引き離され押さえ込まれる。駐在所までの同行を願われ抵抗もせずに従った。 「田舎チンピラの喧嘩、初めて見た。田舎(だっさ)ッ!」  野次馬として集まってきた男とすれ違う。鏡に映る自分と同じ顔をしているような気がした。首からベッドフォンを下げ、指を差して嬉しげに嗤っている。 「酒臭い。寄るな」  連行しながらもロージャはナオマサに悪態を吐いた。 「不倫は犯罪です。法律を改正しないと。不倫は犯罪です!不倫は!不倫は犯罪なんです!」  ナオマサは駐在所の道すがら軍警に何度も訴えた。軍警はロージャを白い目で見る。 「署名運動でもするんだな」 「不倫は市中引き廻しにしてください。アスファルトで擂り下ろされればいいんだ。赤くなった道で結婚した時の貞節(フィデリティ)ロードみたいになればいい!」  駐在所に着くと2人の痴情の縺れかのように話が始まった。取調べを受け、書類を書かされた。あくまで公道で取っ組み合いの喧嘩をしたことが主たる理由で、その他のことについては調停や裁判を勧められた。2人は夫婦だと思われたらしくロージャも連行された時まだは被害者的な立ち位置であったが、書類作成が終わり帰宅を許されると苦言を呈されていた。同時に帰され、違う方向に歩こうとしたのを先程まで髪を引っ張り頬を殴った腕が捕まえた。 「噛み付いて殴りかかってくる相手にこんなこと頼む気持ちが分かるか。みっともなくても何でもいい。もう形振(なりふ)り構っていられない」  鼻血を垂らしても美貌というだけでそういう化粧広告か何かに起用されたモデルのように思えた。ナオマサは掴まれたままの腕を払おうとはしなかった。駐在所の出入口で軍警が見ている。 「人権団体は、治療を拒否するなら尊厳死も視野に入れるなんて言ってる。今は寝てるが……起きたらなんて言うか」  様子を窺いながら彼は腕を引いた。人権団体なら言いかねない。闇医者まで揃っている。 「何故あなたは彼にそこまで尽くすのに、彼はあなたを拒むんですか。婚約はどうなったんです」 「強姦したから」  フリスビーやブーメンランの類が頭を貫いていくような妙な潔さがあった。 「もう一度お願いしていいですか」 「強姦して、無理矢理婚約した。あの子を。あんたが病室に来た次の時。姉と慕っている女性の上で…」  安酒は悪酔いし、頭痛を起こす。自称婚約者というのは間違っていなかったし、住所を教えられていないことにも合点がいった。頭痛だけ残して酔いが引いていく。美男子の皮を被った野獣の手から自分の腕を取り返す。それでいて性犯罪を告白した男はアカミネ同様に頬肉の固まった顔で傷付いたような表情をした。他者の感情に寄り添えないという自認のあるナオマサはそこに懺悔、反省を読み取ってしまい鼻先を逸らした。 「軽蔑したか」 「軽蔑で済むと思っているんですか」 「まさか」  自嘲的な顔までアカミネとよく似ていた。皮肉にもあの子供は似た2人に反対の扱いを受け、そのどちらにも安らぎはない。その同情はカナンに対する行為への怒りと共生していた。 「目が覚めるまで」  彼は頷いた。繁華街の裏通り公園の地下から下水道に入り、方向感覚も分からないまま地上に戻る。そこが闇病院だった。内装はオフィスビルという感じだった。妙に慣れた様子の看護師は、要するに人権団体以外の「上流家庭の出」のナオマサにこの場所を特定されたくないのだという。窓は黒く塗られた板で張り付けられ、昼夜感覚も狂いそうだった。少年はベッドに寝ていた。闇医者は白衣を着るでも聴診器を下げるでもなく、黒々としたファーの肩掛けをして拳鍔のようないやらしいほどギラギラとした指輪を嵌めた媼だった。 「あたしゃ瘡毒患者ち聞い取ったんだがね。放浪穢多のガキは診れんな。飼主どんに訴訟されちゃ堪らんわ」  ナオマサは看護師を横目で見た。 「人間社会(ヒューマニズム)推進党に連れて行って安楽死さしてもらいやっせ。カプセルん中で寝たようにおっ()ぬけん。あとはそのまま焼くだけさね」  闇医者の老婆はタバコに火を点ける。

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