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第12話

◇  愛夫から別居の提案をされアカミネは宥めるのに必死だった。それでもカナンの意思は固かった。普段なら一言で、まるで自分に選択権はないようなほど従順だったくせ、アカミネの意見を退けた。 「イノイと暫く……少し自分を見つめ直したくて…」 「貴方はよく自分を分かっている。これ以上見つめ直したら病んでしまう」 「いいえ、ぼくはまだぼくのことを分かっていません。少しの間でいいんです。今後のことを決めたくて…」  アカミネは首を傾げる。 「今後のこと?今後が何だというんだ。俺たちは変わらずに二夫であるはずだ」  夫は目を逸らした。 「ぼくは君のことが好きです。ぼくも君とこのまま墓場まで一緒にいたいです。けれど……」 「それなら答えは決まっているだろう。俺は貴方を想っているし、貴方も俺を想ってくれている。別居なんて必要ないはずだ」  テーブルの上の手に手を重ねた。指輪が光っている。天罰というものをアカミネは信じていなかったが、幼少期の勧善懲悪、社会主義的な自己犠牲、臭い物に蓋をした童話の刷り込みは完全にその思想を打ち消しはしなかった。腐ったブランドの2つで1組と扱われる下卑た指輪を捨てさせた咎が、自宅訪問している。 「君に嫌われたくないんです。これ以上求めて、君に依存して、君に期待ばかりして、君の応えられる範囲を大きく超えて、勝手に失望してしまいそうで……」 「俺はどんなことがあっても貴方のことを嫌いになったりなんてしない」 「ぼくは、そんな表面的な話をしているんじゃありません」  カナンの目付きが鋭くなる。 「落ち着いてくれ。俺は本当に貴方のことを…」 「いいんです。言わせたいわけじゃないんです。虚しくなるだけですから」  話は纏まらなかった。彼は別居をすでに固く決めている。空気の読めないネズミの亜種が滑車を回している。 「住むところが決まり次第、出て行きます。イノイとポプリも連れていきますから、そこは安心してください」  夫はキッチンチェアから立つ。アカミネは彼を逃さなかった。 「困る。帰ってきた時に貴方が居ないだなんて…」 「ハウスキーパーさんがいれば、大体のことは済むはずです。働きに出て当然ですけれど、ちゃんと家に入れますから」  愛夫の目は配偶者を見ない。伏せられた長い睫毛の下で薄茶色の瞳が転がる。 「そういう話じゃない。火喃…」 「人の気持ちは移ろうものですから、いいんです。飽きたなら飽きたと言ってください。ぼくはまだ君を好きですが、他に一緒になりたい人ができたなら身を引くように努力をしますから」 「火喃、違う。どうしていきなりそんなことを言う?」  付人が何かを喋った。それ以外に考えられない。アカミネは逃げたがるカナンの手首を掴み、力尽くで対面を保つ。 「こんなことぼくだって言いたくないです。ぼくは証拠もなく君の浮気を疑って、でもどれだけ君はそんなことしないって思っても……信じられなくて。そう思ったら考え直したくもなります」 「俺が貴方を抱かないから?」 「君はぼくとしなくても全然、苦しそうじゃなかった。それが多分君の中のぼくへの答えです。どうしても君としたかったんじゃないです。君の具合が良くなかったならそれはそれで、ぼくと向き合ってほしかった。ぼくは君のハウスキーパーじゃなくて、一緒に暮らしてる他人じゃなくて、君の恋人の延長として夫でいたかった」  顔を覗き込んでも背けられてしまう。白い首に筋が淡く影を落とす。視界が明滅する。食い破りたい衝動に駆られた。 「火喃、俺の目を見てくれ」 「ぼくに飽きたなら飽きたでいいです。でも他に熱を上げていた人がいるんでしょう?君の性を分かり合えるのはぼくで、ぼくの性を分かってくれるのは君だけのはずだった。だって結婚ってそういうものじゃないんですか」  強い欲求は往なされなかった。夫の淑やかな色気が匂い立つ。可食部の少なげな木の実を彷彿させる耳朶に口付ける。 「やめてください!そんなことで丸め込もうとしないでください。酷いです、酷いです、アカミネさん。ぼくはいつからそんなふうに、簡単にやり過ごせる相手になったんですか…」  力強く突き飛ばされる。彼は眉間に皺を寄せ、瞳が潤んでいた。 「火喃…」 「お風呂、沸きましたので…入ってください」 「一緒に入ろう」  アカミネは懲りもせず愛夫に触れた。無理矢理に手を握る。熟年夫婦といわずとも長いこと連れ添った人の乾いた冷たい手は肌によく馴染む。手相も皺もぴたりと合わさるような気さえした。 「何を考えているんですか。機嫌を取っているつもりですか」 「別居するなら一緒に入りたい」  揺らいでいるのはすぐに見てとれた。まずは噛み締められた唇がゆっくりと開くのを待つ。そして返事を。 「……嫌です」  手の中から愛夫が抜けていく。 「火喃」 「流されそうなんです。緋峯さんのことが好きだから。ですがそろそろ、このまま流されて流されて、いつの間にか戻れない関係になっているのは嫌なんです。もう二夫じゃなくて、ただ同じ屋根の下に一緒に暮らしてるだけの関係は。許してください」  アカミネの手は宙に残った。夫の気性を理解すれば名残惜しさはあっただろう。しかしそれを露ほども思わせない潔さで背を向けた。リビングを出ていく後姿を繰り返し何度も舐め(ねぶ)るように凝らす。不思議と相反する双つの欲望が両立した。後先も考えず無理矢理に手籠にしてしまいたい欲求と、大切な夫の心身をこれ以上傷付けたくないという切望が鬩ぎ合う。滑車の音が終わり、今度は給水器が軋んでいる。優しい眼差しがケージに向いた。愛夫は日頃から飼育用のほぼほぼ害獣と変わりない多少綺麗な鼠が黒い目を眇め水を飲む姿を気に入っていた。ケージの傍で屈み、正面から眺めるのが好きなようだった。自覚のない動揺は形を変え怒りになる。  夫はすでに起きていた。リビングは静かで、ケージのあった場所でカナンは呆然と座っている。出入口は開け放しになっている。家を空けろと言ったのをどう解釈したのか夫の付人は帰って来なかった。彼に寄り添う者はいない。何事にも気付かないふりをする。真っ白い顔が俯いてるのを見つめた。毎朝彼が開いている遮光カーテンを今日はアカミネが左右に開いて同じ模様のバンドで留める。夫の真っ白い横顔が朝の光により消えてしまいそうだった。 「どうしてですか…」  掠れた声が漏れた。 「あの子はひとりじゃ生きていけないんですよ……完全に人の手じゃなきゃ………外は寒いし猫も犬もいるんです…どうして………」 「貴方にあのネズミは必要ありません」  朝は弱く料理も作れず着替えも出来ない設定を忘れ、1人日常に戻る。2人分のコーヒーを淹れてテーブルに置いても夫はフローリングに座ったままだった。 「別居するだなんて言ったからですか…」  レースカーテン越しに朝日に炙られる姿は灰のようだった。 「ぼくが証拠もなく君を疑ったからですか……一方的なことばかり言って君を責めたから……」  テレビを点け、静寂が止む。夫は首を竦め幾度か肩を震わせるとよろよろと立ち上がった。 「別居するのなら出て行くのは俺のほうだ。貴方から仕事も車も取り上げたのは俺のほうなんだからな」  まったく的の外れた返答をした。 「ごめんなさい。何もしなくて。今、朝ごはんを作ります」 「いいや、いい。暫く帰らないからゆっくり休んでほしい。戸締りはしっかりすることだ」  まったく噛み合わない会話をした。コーヒーを数口飲んでシンクに片し、身支度を整えて自宅を出る。車に入ってキーを挿してからあてもなくフロントガラスの奥をぼんやりと眺めた。後部座席から乾いた音がする。思い出したように電話を掛けるが繋がらなかった。ただマンションの管理会社のほうから数件着信が入っていた。人と話す気がどうしても起きなかった。たとえ仕事でも。これから向かうついでに聞けばいい。アカミネは朝飯を食い逸れた眩暈とは違う脱力感に陥りながら車を出した。  マンションに着くと不審な男の出入りがあり取り逃したことと「幸群様のお連れ様」が帰宅していないことが告げられた。放浪穢多好きの頭のおかしい発情期の雄犬と交尾した後に指輪を捨てに行かせたはずだった。そこから帰っていない。しかし興味はなかった。身分差、年齢差、社会的寛容度、その他諸々を理由に駆け落ちや心中するという話はありがちだった。職も祝福も明日もない貧民窟にもよくある。「幸群の飼犬」は脱走したのだ。話は即席器麺が出来上がるよりも短く余裕を持って片付いた。部屋に入りソファーに座る。一人で暮らす場所にしては随分と広かった。天井を見上げ、それからハウスクリーニングを呼び、入れ違うように出社する。  社長室のテーブルで滑車が回り、休憩と言わんばかりに水を飲むグレーと白の毛玉は人間臭かった。そして多少の獣臭さもあった。ケージを持ち歩く姿は好奇の目を引いたがアカミネの気にするところではなかった。成績を伸ばした見返りにオフィスで猫を飼うことを条件にした課もあったと聞いた覚えがある。すでに出社していた秘書代わりの青年は応接用のソファーに座り、ケージなど見えないかのように壁を見つめる。ハムスターを飼わないか訊ねたがはっきりした返事はない。ネズミに意識をくれる様子もなかった。ハウスキーパーのほうでもポプリの世話は仕事の勘定に入っていない。年中発情期にいる駄犬が交尾欲に負け脱走したことはアカミネにとって誤算だった。愛夫に衣食住すべての世話だけでなく情まで寄せられていた害獣とそう違わない毛物を飼うのは憂鬱だった。かといって自身と繋がりのない者に託すことは、ネズミに込められた愛夫の情まで渡してしまうような強迫観念が付き纏い、憚られた。エサや大鋸屑のメーカーはパッケージのデザインで覚えている。ケージに閉じ込められ気候にも合わない地で生かされているネズミほど世話は掛からなかったものの、ちょうど飼犬を手放したところだった。頭の中で自身と会議する。実際に大会議室にいたことも忘れていた。役員に苦言を呈される。私費で雇っている秘書のアカミネ個人の一字一句漏れのない、言い間違いや吃りさえ取られている嫌味なほど正確な議事録にもそれが記されていた。溜息を吐いて書類を確認する。ネズミは巣箱に引き籠もっていた。ついでに真横のソファーに座っている秘書兼私用のハウスキーパーを食事に誘った。彼は虚ろな目をアカミネに定めたが、これという返事はなかった。 「それなら俺が作ったオムライスを食べよう。デミグラスソースの…」  ぼさぼさの髪と虚ろな目はアカミネのいないほうを向き直った。誘いを断られるのは慣れている。自ら誘った場合は特にその回数が多い。滑車はその間も回り続ける。 「そうか。じゃあ、また次の機会に」  形式ばった挨拶だった。次の機会というものを何度も重ね、一度たりとも叶ったことはない。頭部の大きな損傷は彼をまったくの別人にしてしまった。退社チャイムと共にケージを持って自宅よりも随分と近くなったマンションに帰る。エントランスに入ると受付の女が呼び止めた。昨夜の不審人物を捕らえているらしかった。彼女に砂漠鼠の入ったケージを預け、番い不足の雄犬を見に行った。高級タワーマンションはそう珍しくない表面上だけ小綺麗に造られた有名無実の建築物ではなくスタッフルームもまたエントランスの延長の如く造られていた。宿直用ではない警備員室も中流層のデザイナーズマンション程度の垢抜けた雰囲気があり、部屋の札を見なければ何の部屋だか見当もつかなかった。不審人物がインタビュー待ちのモデルのような態度なのもそれを助長する。スタッフルームまで来るのは初めてだった。ホテルマンと見紛う制服の警備員がやってきたマンション所有者に挨拶する。野良猫や迷い犬の侵入報告は何度か受けたことがあるが、治安の良さや優秀な警備課、防犯対策によって暴漢や空巣の被害報告は今まで受けたことがなかった。それをこの人の皮を被った発情期の雄犬は社会的地位、風采を含んだ見目の良さ、持ち前の気の違いぶりで掻い潜ってしまったらしかった。昨日と同じ服を着て、目には隈ができている。猫毛は好き放題に思い思いの方向に跳ねている。 「式の招待にでも来たのか」  若い男はソファーから腰を上げようともしないでアカミネを睨む。綺麗な顔立ちはあの駄犬とは異なった色の加虐心を煽った。 「栴檀が怪我をしている。医者に診せたい。あんたの同意が要る」  おそらくペットや所有奴隷の括りになっている。このマンションのように「お連れ様」として丁重に扱われることはない。受付係や清掃員、警備員もさぞかし対応に困ったことだろう。 「結婚でも何でもすればいい。俺にはもう関係がない」  現代の若者的なすべてを訝っている顔がさらに怪訝げに歪んだ。 「名尾方(ナオマサ)という女から話を聞いた。複雑な四角関係にあるんだろ。罪悪感があるのか知らないが、手当ても拒否している。あんたから一言言ってくれないか。あの子が良いと言うなら俺が治療する」  人攫いの雄犬は端末をアカミネに差し出した。見た覚えのある電話番号(アドレス)が表示されている。 「あの馬鹿犬の番いは君だろう。結婚したいんだったか。その愛の力というやつでどうにかしたらどうなんだ」 「愛の力とかいうやつはあの子を説得しちゃくれない。頼む。あの子は俺の大切な人なんだ」  警備員に捕まるような不審者は床と平行になるほど頭を下げた。アカミネは黙る。 「痛い思いをさせたくない。傷も残したくない。後遺症なんて絶対に駄目だ。早く治療させてやりたい。頼む…」  雄犬は膝を片方ずつ床に付けた。そして警戒した警備員の腕を払い、跪拝した。床に付けた両手が震え、そこに頭が乗る。この地では、跪拝されたならどんな無理難題でも呑む呑まないに関わらずとりあえず話を聞かなければ野暮という扱いになってしまう。相手を極悪人の卑劣で無粋な加害者にする最大の方法で、一瞬で被害者になれる。同時に自身を賤しめる行為でもあった。 「随分と安い跪拝だな」 「あの子の生き死にに比べたら安くなるのも当然だ」 「恥を知れ。放浪穢多ごときに軍役経由の看護師が頭なんぞ下げるな。品位を疑う」  妙な顔をして看護師は頭を上げた。 「飼犬とこそこそ番っている相手の血統書を調べるのは当然だな」 「国が選べばボタンひとつで民間人も虐殺する仕事に必要性はあっても品位なんかない。償いの道に医療機関の斡旋があるだけだ。それでも人並みに矜持はある。そんな恥を知れたらここにいられるか」 「卑屈になるな。国が選べば虐殺も革命だ。お前は崇められるべき英雄の1人で、放浪穢多のために頭を下げるのは国賊のやることだ」 「黙れ!あの子の肌だけじゃなく権利まで買ったつもりか!あの子の無邪気さに比べたらあんたも俺も(しらみ)以下の蛆虫だ!」  警備員が割って入った。軍役卒の看護師は温順しく後ろ手に押さえ込まれた。 「許可なんぞ要らん。治療でも解剖でもすればいい。放浪穢多を人みたいに扱うな」  警備員に裏口から放流するように言った。看護師が抵抗した。それでも軍隊式の技量を頼ることはない。 「それじゃ駄目だ!頼む…っ、あんたじゃなきゃ栴檀を助けられない。一言だけでいい、あの子に手当てを受けるよう言ってくれ…」 「意思を尊重すると言って無理矢理に手当ても出来ないのなら、お前みたいなのはあの業突(ごうつ)く張りと結婚しても上手くはいかないだろうな」  看護師はアカミネを見上げるのをやめてがくりと首を落とした。 「お前は尻に敷かれて頭も上がらない。奴を慮ったつもりで、誰にも()れにも向き合うこともできず薄情者だ甲斐性なしだと出て行かれるのが結末(おち)さ。淫売は金で買えるが結婚相手は金や権力だけじゃ満足しない。お前は形も技量も伴わない嘘寒い純情というやつであのガキを買えるだなんてまだ思っているな。さっさと帰って煮るなり焼くなり食うなり好きにしろ。余程嫌ならあれは身投げでもするさ。費用は出すから受付の娘に言え。未来の名医への篤志というやつだな」  アカミネは警備員に彼を放すよう合図した。だがハルマ看護師はアカミネに飛び掛かった。警備員の目が丸々と見開くのが見えた。アカミネは嗤いながら壁に背を打たれる。 「栴檀を愚弄するのはやめろ!」 「やつの名誉を守っているうちにあのガキは痛い痛いと泣いてるんじゃないのか」  アカミネは軽く肩を上げ、強い力で掴みかかる手の指を捻ると簡単に外してしまう。彼は義務教育(スクール)時代に兵役演習という授業で教官からスカウトを受けたことがあった。様々な理由が重なり応じることはできなかった。表に出せない育ちのことや想い人のこと、彼自身に軍国主義的な思想がなかったこと等々。虫にするような仕草で暴走気味の雄犬を追い払う。戸惑っている警備員に迷惑料を含めチップを渡した。エントランスに戻り受付の女から砂漠で斃死するか食われるかするはずだったネズミを引き取る。長い寄り道をして帰る1LDKはバニラ臭さが淡く残っている。玄関もリビングもキッチンも片付いていた。それはいつものことで、あの子供には放浪穢多らしくいつでも流離(さすら)いに出てしまうような雰囲気があった。ガラステーブルの上にケージを置く。飼い主のいなくなった毛物は巣箱に引き篭っている。ベランダに出て肺に八つ当たりをする。紫煙が空気に溶けていった。不思議と家庭のことは考えなかった。ただこの家に住んでいた子供が痛みに泣いている姿を思い描いては煙を吐く。世間はこれで寿命が縮まるという。潰している。フィルターを咥えている時間だけ、寿命を吸っているのだ。快感にのめり込むことよりも漠然とした違和感を誤魔化すことに溺れてしまう。酒を買って帰らなかったことを悔やみながら夜空を見上げた。星はない。この階では乱立する摩天楼に月も隠れている。口から出た煙が短い間雲を作る。何事も解決はしないが思考に決着がつきかける。スラックスのポケットが震え、エントランスからだった。また雄犬が来たのかと思った。次は死亡報告か。墓石くらいは出してやる算段だった。イモーテル墓園に。()き臼式の風車が回り、フラワーパークと見紛うような景観で青々とした芝生が植えられ、海を思わせる大湖の近くにあり空気のいい場所だ。アカミネの両親もそこに埋まっている。媼親仁(おうなおやじ)がそこがいいと言った。アカミネも墓園をそこしか知らないが、墓地であるにも関わらずすぐに好きになった。両親と逢うだけの場所ではなく、今の夫と出掛ける場所になった。紫煙で燻る意識の中うつらうつらと電話に出る。受付嬢の安定感のある話し方は機械音声と間違う。部屋の前に客人が来ているという話だった。電話を繋いだままアカミネは玄関を開ける。カヤハラが廊下を行ったり来たりしていた。ビニール袋を手に下げ、上半身を丸めてのそりのそり歩いている。電話を切る。インターホンが鳴った覚えはなかった。 「どうした」  虚ろな目がビニール袋を差し出した。生米と生卵とツナ缶などが目に入る。 「入ってくれ。気が付かなくてすまなかった」  カヤハラは上体を左右に揺らすようにやってきて玄関に上がった。 「よくここが分かったな」  言ってから予備の住所を知らせていたことを思い出す。カヤハラは何も答えないでキッチンにそのまま流れていった。アカミネも隣に立つ。カヤハラは手を洗う動きを止め、彼を見据えた。 「一緒に作ろう」  返事はなかった。それでもアカミネは傍を離れなかった。年上の青年がいつの間にか弟のように感じられた。材料を漁る。ホワイトソースの缶が入っていた。デミグラスソースとホワイトソースが半々になったオムライスはアカミネの両親が営んでいたレストランの看板メニューだった。有名メーカーの市販の缶は店で使っていたものとは違ったが目を離せなかった。カヤハラを見た。彼は使われた形跡のあまりない包丁や俎板を洗っていた。 「父さんのこと、覚えているか」  カヤハラは見向きもしなかった。黙々と包丁の刃先を眺めていた。アカミネは生鮮食品をほぼ空に近い冷蔵庫に入れた。長期保存できる調味料や開封済みのスポーツドリンクを作る粉が適当に入っているだけだった。 「俺の両親とカヤハラくんのお父さんは、昔一緒に働いてた」  もし話してしまったら彼がどこかに行ってしまうような気がした。たとえば貧民窟に。裏稼業に勤しむ事務所に。そのために今までこの話題には触れなかった。何よりもアカミネのほうで、彼の認識を知ってはいけないような気がした。カヤハラはただ瞳をアカミネにくれただけですぐに逸らした。よく赤いスープの入った鍋をかき混ぜていた彼の父親に抱き上げられた思い出が微風のように訪れる。グラタンを取り出すミトンの下にある逞しい腕で。

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