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第11話

<あのサ…、あのサ、イノイ姉さん…>  カナンが後ろにいる。ナオマサは重苦しさを覚えながらも端末を耳に当てていた。いくら放浪穢多と蔑まされ、文字通り石を投げられようとも良識を知らない人ではなかった。それが彼女の腹の中で(つぶて)になってもいた。 <……えっとネ……ご、―>  不自然に声が途切れた。ほんのわずかな間、風を切る音がして何かにぶつかる音がした。ナオマサは眉間に皺を寄せながら次の言葉を待ってみたが、やがて意図的に文明に置いていかれた公衆電話独特の安っぽい電子音に変わる。アカミネと異様な婚約者が混同されたまま彼女の脳裏に過った。あの男も交際経験のないカナンの周りを囲って結婚に至った。後ろでハムスターを愛でている彼は気付いているのだろうか。ナオマサは端末をおろした。肩が凝り、肘が痺れ、手首を捻ったようなぎこちなさだった。 「どうしたの?イノイ」  一言も喋らなかった彼女に優しい家人は声をかける。 「保険会社の営業でした」  彼に吐く嘘を数えている。まるで喧嘩でもしたのかと案じているような眼差しから逃れたくなると咄嗟に舌の上を転がるようになった。カナンはポプリに頬擦りされながらナオマサを見ていた。そしてケージに愛鼠を帰した。ケージの前でポプリが這うように歩いているのを彼は見ていた。ナオマサは通話相手のことなど忘れて目の前の人の横顔に夢中になる。長い感覚からいって思い詰めている気がするのだった。 『あの人がぼくを拒むだけ、ぼくは気の利くフルタイムハウスキーパーになるんですからいいですよね。あの人はあの頃のまま、ぼくばかり、あの頃から離れていくみたいで。昔はね、いつもあの人からで、1日中幸せだったんですよ………今でも幸せですけど…………でも、昔のほうがずっと幸せだったから、あの日々が夢・幻だったんじゃないかって』  ポプリがよく焼けた炒餅(トック)に似た尻を振りながら巣箱に入ったのを見送るとカナンは膝を叩いて立ち上がった。 「そろそろあの人が帰ってきますから、何買うか決めないと。今日はイノイの好きなものにするよ。何がいい?」 「旦那様が作ったものなら何でも美味しくいただけますから、旦那様のお好きなものを…手伝いますので」  彼はナオマサをきょとんと見て、それからくしゃりと笑った。 「ぼくの好きなものですか。考えたことなかった」  夫の好きなものか、夫が苦手でないものか、夫の1日に食べたものに合わせるか、夫の観ていた料理番組に出ていたものか。カナンから聞いたわけではないが、日々の献立や彼の気性からナオマサは薄々と感じ取っていた。手間をかけることが相手への好感度とバロメーターと思っている節が彼にはあり、惣菜売り場に並んでいるにも関わらず手作りすることも多々ある。ハウキーパーのカヤハラが料理上手であることも拍車をかけた。 「じゃあ……牛のコートレット。いいかな」 「はい」  それもまた手間のかかる料理だった。肉を叩き、下味を染み込ませてから衣をつけ揚げる作業がある。 『あの人はぼくのこと、豚肉好きだと思っていて、間違ってないし、両方好きですけど、だからぼくに合わせてポークステーキとか豚肉専門店ばかりで悪いなって思うと、なかなか言い出せないんです。ぼくもあの人と同じで牛のほうが好きなんですよって。あの人と食べるなら、別に何を食べるかなんて二の次なんですけどね』  牛肉専門店に行ったときに話していた。二夫生活を経てナオマサも彼の好みが変わったのだとばかり思っていた。 「じゃ、決まりですね。今買うものをまとめます」  彼女はキッチンテーブルでペンを握る姿から目を離せなかった。ペンの尻が震え、ナオマサは首を伸ばして彼を凝視する。 「………ごめんなさい。やっぱり豚にします」  レースカーテンから入る光がカナンの目の中で蠢く。 「旦那様…?」 「あの人にとってコートレットは絶対豚なんです」  使う肉が豚か牛かはおそらく大した問題ではなかった。ただ表に出てきた事柄に過ぎない。その奥に問題がある。居ても立ってもいられずにナオマサは彼に近付いた。力無く伸びた手が彼女に縋る。少し痩せた感じのある身体にナオマサも触れた。彼は妹分の狭い腕の間に潜り込んだ。 「外せないんです。あの人、絶対美味しいって言うの、分かってるんですけど。外したくないんです」  二夫という関係でありながら彼が日常的に受けているプレッシャーを傍でみている部外者なりに生々しく感じた。ナオマサは彼の背に腕を回す。 「ごめんなさい…」  誰に謝っているのか分からなかった。自分に対してではないことを彼女は理解していた。同時に不甲斐なさを彼が恥じていて懺悔し、優柔不断な態度を詫びていることも分かっている。広く肉の薄い背を撫でた。 「ぼくが作ったものよりハウキーパーさんの料理のほうが美味しいんです。ハウキーパーさんの料理はあの人の好みで味もずっとぼくより美味しくて、あの人もずっと美味しそうに食べてるんです。ぼくには毎日美味しいって言ってくれますけど、どっちが美味しいかなんて、そんなの一口食べたら分かります!」  ナオマサの下で彼は嘆いた。彼女はただ薄い木綿のシャツの繊維を掌で擦る。洗剤の香りがした。 「何の罪もないハウキーパーさんにまでこんなこと思って、本当に、最低です。ぼくは……仕事で来ているハウキーパーさんにまで、こんな……」  やがて咽せいだ。ナオマサはさらに腕に力を入れる。 「ドレスを買いに行くように言ったでしょう?その間も、きっと浮気しているんです……」  事実であるが、ナオマサにある選択は否定のみだった。壁を見つめた。 「………浮気してるかも知れなくても、してくれなくても好きなんです、あの人のこと。あの人のこと好きだから、ぼくと一緒にいて人生棒に振るなら、そろそろ別れてもいいかなって、思えるようになったんです。あの人の人生、台無しにするのが怖いんです。邪魔だとか思われるくらいなら、少しでもあの人の中で、都合の良い人でいいから、あの人の中で、好い人でありたいんです。少しでいいから、少しで…」  男体を顕す部位を持っていながらもこの国の平均的な女性よりもいくらか華奢なナオマサの肩へ彼は額を預け、静かになる。別れを仄めかすまでに不安定になることは数えるほどだが何度かある。 「イノイ……」 「僭越ながら、わたしは別れたほうがいいと思います」  今までならば無言を貫くか、その場凌ぎの上面で中身も根拠もない、少なくとも誰も傷付かない言葉を吐いていた。しかし決定的な写真を目にしてしまっている。 「ごめんね…」 「いいえ。どう選択しようともわたしは旦那様の傍におりますので」 「そろそろちゃんと決めなきゃって何度も何度も思っているんですけど、踏ん切りがつかなくて……世の中の二夫なんてこんなものなのかなって、ぼくが求め過ぎなのかなって………」  震える身体をナオマサは暫く温めていた。小さな嗚咽が聞こえた。 「ぼくが昔、あの人から貰った香水の匂いがあの人からするんです。悲しくなっちゃって。もうぼく、おじさんですよ。あの人は本当は義務教育(スクール)生くらいの子たちが好きだったら、もうぼくにはどうすることもできません……」  カナンはナオマサの肩を緩く撥ねてから、彼女に背を向け、顔を覆って縮こまってしまう。 「保湿ケアして、白髪も全部抜いて、髭も除毛剤使って、バカみたいですよ。あの頃に戻れるわけないのに。そろそろ疲れてきちゃって。手間にじゃないです。分かってきちゃったから。でも手を抜いて完全に見捨てられちゃったら?って不安にもなるから…やめられないんです」  うっうっと時折しゃくりあげながら彼は話す。 「今日行ったブティックの店員さん、あのお店のオーナーさんなんですけど、大学(カレッジ)時代にずっとあの人に言い寄ってたんです」  カナンのいう人物は派手さのある化粧をした都会的な美しい女で、背は高く、丸みのある広い額からは知的な印象を強く受けた。話し方も落ち着いていて、試着中に初対面でないことは窺えた。 「あの人が勧めたんです。あの人は気にしなくて、ぼくだけが妬いているんです。侮られているんですよね、きっと……」 「わたしは、配偶者という立場が旦那様の目を曇らせているような気がしております。すぐに結論を出すことは難しいと思いますので、第三者的な意見に過ぎませんが少しの間距離を置くことを提案させていただきます」 「うん………そのほうがいいよね。ぼくだって、あの人にこんな恨みがましいこと思いたくないですから……ありがとう、イノイ」  彼は振り返った。赤みのある目から涙が落ち、骨張った指が拭う。 「あの人には今日は外で食べてきてもらいます。イノイも、ぼくとどこかで食べに行きましょうか。それとも既製品弁当(ボックスディナー)にします?」  潤んだ目をして彼は笑みを繕った。 「ボックスディナーにしましょう」 「分かった」  枯れた声だったがカナンはいくらか吹っ切れたような微笑が戻った。キッチンチェアから立ち上がった彼は端末を持ってベランダに出た。レースカーテンの奥の姿を彼女は見ていた。話しだす様子がなかった。浮気相手と、配偶者が一身に受けるはずだった情欲を遊んでいるのだろう。怒りが湧いた。純真な顔をした少年に友愛を抱いてしまった自身が許せなかった。  アカミネはすでに2人が夕食を終えて少し経った頃に帰ってきた。玄関で一旦帰らなかったことを詫びているのが聞こえた。ナオマサはソファーから立ってアカミネがやって来るのを待った。 「お帰りなさいませ」 「ただいま」  一言挨拶を交わし、彼女は世帯主とすれ違う。ほんのりと様々な匂いが混ざっていた。安定している洗剤、乾いた汗、消えかけた香水、あまり慣れのない煙草、よくある香料入りの消臭剤、他人の家のアロマオイル。白々しく目はあったままだった。玄関まで行きかけ、二夫をリビングに残し自室に籠った。別居や離婚を提案したはいいが、その話を切り出したときにあの男は片夫を怒鳴ったり、物を壊したり、或いは暴行が伴わないとは限らなかった。確かな経済力を持ち、頭も良く配偶者に対してそれなりの気の回し方も持ち合わせているのはナオマサも見て聞いて知っているが、また別の面に於いてあの傲慢な世帯主を(はな)から信用していない。兄貴分と交際する前から。初めて紹介された時から。養父が息子に悪い虫がついているとこぼした時から。  スマートフォンが腿で振動する。メッセージではなく電話だった。ディスプレイには非通知が表示されている。彼女は拒否を知らなかった。応答ボタンに指が触れる。 <あ、あの……サ、イノイお姉さん……?>  乾期の朝に似た喉のひりつきによってナオマサは返事ができなかった。声も出ない。ただ唇が軽く開いて留まる。 <さっきハ、いきなり切っちゃッテ、ゴメン>  スマートフォンは日々進歩していくなか作為的に粗くされている電子音の奥で鼻を啜るのが聞こえた。 <話したいコトがあって……>  ナオマサは部屋の扉に気を取られた。アカミネが現れる。彼は掌に置かれた端末を一瞥した。 「少し空けろ」  暗澹とした目はまた白々しくナオマサを見下ろしている。通話相手がいることなど気にも留めていない。それか、端末の後ろにいる人物を知っている。 「はい」  二夫のどちらのものと比べても丸みのある指が画面の上に立てられる。光度のあったそこがゆっくりと暗くなる。スピーカーからはもう音は聞こえなかった。ナオマサは何の惜しさもみせず、彼の脇をすり抜けた。リビングに顔を出すとカナンがキッチンチェアに神妙な面持ちで座っている。彼は妹分にも気付かない。 「少し散歩に出ます。何か必要なものはありますか」  彼は驚いた顔をしてナオマサを認め、そして首を振る。両手で緩く作られた拳に彼女は片手を重ねた。冷たくなっている。殴られはしないか、主張を抑圧されたりはしないかと思うとすぐに発てずにいた。 「もう暗いから気を付けて。怖い人がいたら遠慮しないで電話するんですよ」 「はい。ではいってきます」 「うん、いってらっしゃい」  アカミネも夫の前であるため彼女に上面の一言をかける。チェーンと鍵を外し、玄関を出た。気温が下がっている。時間の潰しようがある商業地区に足は向いた。区画の出入口を抜けてすぐに、視界の脇から伸びた手に掴まれる。反射的に振り払った。 「栴檀に会いに行くのか」  ロージャークとかいった美貌の若者の声だった。夜の暗さよりも濃いシルエットに白い顔が浮かんでいる。 「違います」  避けた矢先に前を塞がれる。それを彼女はただ単に互いの譲歩が誤ったものと認識してまた横に退こうとした。しかし同時に看護師をやっている男は鏡の真似事をはじめる。 「幸群(ユキムラ)という男を知っているか」 「…はい」 「何者なんだ」 「既婚サラリーマンです」  鏡の戯れが再開する。ナオマサは諦めた。ロージャーク・ハルマはまだ警戒を解かず、不躾な加減で彼女の腕を取る。折ったり捻ったりするのも構わないといった具合だった。 「栴檀とはどういう関係なんだ?まさか栴檀と結婚しているなんてことはないな?」 「どういう関係にあるのか、わたしの口からは言えませんが婚姻関係にないことは確かです」  容赦なく指先と爪の食い込む腕を引っ込めた。 「栴檀を解放してやりたい。あんなのは可哀想だ。あんなのは……」 「そうですか」  彼はまだ用があるらしかった。通したかと思うと馴れ馴れしく肩を捕らえる。 「あんたは栴檀があの男に何をされているのか知らないのか」 「知っています」 「友人なんじゃないのか」  意外にも無邪気さを垣間見せた冷美な顔の持ち主を睨む。この質問とも売り文句とも言えない投げかけにナオマサは答えることができなかった。 「あの子を助けてやってほしい。俺はあの子に酷いことをした。俺じゃあの子を助けられない」  首の骨が折れたように一種のグロテスクさをもって粘着質な男は項垂れた。そして静かになったかと思うと勢いよく頭を上げる。 「不潔だ!」 「そうですね」  冷淡な顔立ちがどんな表情を浮かべているのかはよく見えなかった。 「あの子ほど高潔な人間を俺は知らない。こんなのは駄目だ。堕ちていくあの子を見ていられない…」  ナオマサは黙って、心中願望のあるらしい看護師を怠惰な犬よろしく引っ張る。 「あの子が手に入らないなら、殺す」 「はい?」  聞き間違いかと思うほどに突飛な発言だった。ナオマサは耳を傾け聞き返す。 「あの子を殺して俺も死ぬ」  心中などというのは最近は聞かない。稀に、当時は少数の人権派組員が叶わない身分差を悲観して事を成しニュースペーパーに載る程度だった。それも今から随分と前になる。 「合意はあるんですか」 「ない。あの子は俺よりあの男を選ぶに決まってる」  この若い男の手に指輪はもうなかった。ふとこの看護師に別の人物を重ね胸が苦しくなる。輪状の金属に価格以外に何の価値があるのだろう。 「あの子を殺しに行く」  彼は何か霊的なものに突き動かされでもしているのか突拍子もなかった。走り出した背中をぼんやりと見ていた。端末は衣嚢に収まったままそこに手を伸ばそうともしなかった。抱かれたいと望むカナンのことも、思い通りにいかないのなら殺人願望が芽生えてしまう陰険な看護師のことも何ひとつ彼女に共感のできるところはない。夜風が冷たく指先や耳を嘲笑している。商業地区に行くはずだった予定が消え、北へ緩やかにカーブする道を行った。一等住宅地に着く。この道を選ばなかった男はあまり土地勘がないようだった。養父の所有するマンションに入り、浮遊感から解放されないままエレベーターを乗り換える。今日は部屋の前に捨て猫はなかった。ただ後方から喚き散らすような吠える声が聞こえ、探してみると眺望スペースに犬がいた。観葉植物に括り付けられ、その観葉植物は横転し土をこぼしている。ナオマサの姿を見ると犬は千切れそうなほど尻尾を振り、声色を変えた。重さのある観葉植物に首を絞められても構わずに人間に駆け寄ろうとしていた。斑らな模様のある短毛の汚らしい外見だったが目には愛嬌がある。イヌ科専門の過激派愛護団体に一報を入れてナオマサは部屋に入った。まだ掌に乗るほどの猫が振動しながら出迎え、靴を脱いだナオマサの足で寝てしまう。スリッパを履く間も与えられなかった。タマネギと見紛う子猫を拾い上げ、リビングルームに連れていく。シガはソファーに座っていた。相変わらず猫に囲まれている。また入れ換わりがあったようで知った顔が居なくなり、知らない顔がいる。挨拶も交わさずに老人は横にある扉を指した。ナオマサは顔を顰め、示された扉を見る。テーブルに縄を放られる。麻の色をした三つ打ちの縄は、他の人々から出されたならば別の用途を思い浮かべたが、この翁から出されたなら拘束や絞殺の意図しかない。 「早よぅせい」  ロープを受け取ることもなく、スリッパを交互に前へ出した。膝の関節がまだエレベーターの浮遊感を払拭できずにいるような、夢の中で必死に走るような、異様な状態に陥った。ドアノブを両手で握った。人の出入りがあるこの家で、錆び付いているはずもないのに捻ることができない。この先にあるものを知ってはならないような気がした。一呼吸置いて、やっと扉を開けた。ベッドの上で何者かが横になっている。息はあった。眠っているような穏やかな呼吸で身体が浅く浮き沈みしている。褐色の脚がみえた。ナオマサはそこに立ち尽くす。長く細い息遣いは規則正しい。足の指がぴくりと動く。17といえどもナオマサからすればまだ10歳程度の子供だった。途端に共に暮らしている既婚者サラリーマンと市民病院の看護師がカウンセリングの必要な性質の持ち主に思えた。少なくとも後者は偏執的な行動からいって社会的に正常な様子ではない。  足音を殺して近付く。彼は起きていた。寝返りをうって腫れ上がった顔をナオマサに向ける。暴行の痕が見てとれた。片目は腫れてわずかにしか開かず、もう片方の目にも赤みの強い痣が浮かんでいる。切れて膨らむ唇の奥に折れた歯が見えた。 「イノイお姉さん……来てくれたんダ…」  芋虫のように起き上がり、彼は抱き付つこうとして伸ばした両腕を突然だらりと垂らしてしまった。そして熱病患者の如く重そうな身体をまた横たえた。 「お姉さん…ゴメン、おでネ……イノイお姉さんに、言わなきゃならないコト、ある」  怠そうに伸ばされた震える手に彼女は応えなかった。受け止める相手のない手はベッドに戻りシーツを握る。すべての爪が爪床の中ほどまで短く切られ真っ赤になっていた。プロジェクションピアノを弾いていた手が傷付いている。それを触ろうとして触れなかった。彼は眺め、閉じられない目蓋を引き攣らせながら閉じる。 「おで、イノイお姉さんのお(うち)の人のコト―」 「医者を呼ぶから待て」  ナオマサは怪我人に背を向け端末を取り出した。指はキーパッドの上を彷徨う。呼ぶ必要があるのか、一瞬考えてしまった。 「イノイお姉さん………」  か細い声に焦った。 「お医者さんハ、おでのコト……診ないヨ…」  彼は苦しげに喋った。ベッドの傍に戻り服を捲る。腹や胸にも痣があった。肋骨を触る。 「イノイお姉さん……おでネ、ユキムラさんノ、情夫ナノ。イノイお姉さん、ゴメンナ、ゴメンナ、イノイお姉さんのコト裏切っテ、ゴメン…」  呼吸がおかしくなった。腹の中で何かが暴れたように息をする。ナオマサはゆるゆると頭を振って部屋を飛び出した。足音に猫は一斉に散った。エレベーターのボタンを連打し、殺害予告を頼りに看護師を探した。運良くタワーマンションのエントンランスで警備員に捕まっている美男子を認めると、彼の腕を肩から引き抜かんばかりに引っ手繰って看護師を奪取した。喋ることも出来なかった。まるで破壊衝動に囚われたようにエレベーターのボタンを連打し、それは執拗で偏執的な癲狂病みを正気に戻すほどに異様な光景だったらしかった。 「どうした?」  問われた直後にエレベーターが開き、服を鷲掴み、中に引き摺り込む。乗り換えのエレベーターはすぐに乗れた。 「チャンダナが、怪我してるんです、チャンダナが…」  息を切らしながらナオマサは壁に背を預け、一気に捲し立てた。怪訝な顔をしている看護師も冷静でいられなくなっていた。エレベーターが最上階に着く。ドアが開くのも待てなかった。犬がまだ吠えている。

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